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File.01 うさぎはひみつをしっている
しおりを挟む「君への気持ちはきっと一目惚れだと思うんだ」
恋愛対象が男性のはずの男は、人懐こい目を細めて微笑んだ。
◇ ◇ ◇
休日に重なったバレンタインということもあり、店内のカップル率は高く、一緒にシフトに入っている子達もどこか気もそぞろで。そんな浮ついた空気を他所に、カウンターに立ち、暗くなり始めた曇り硝子の向こうを見遣る。どんよりとした外はひどく寒そうで、帰り道を思うとついため息が零れる。その硝子戸を押して入って来たのは、この一ヶ月、朝に来ることが多い男性だった。
モデルというほど華はないけれど、整った容姿でコートの下にきっちり締めたネクタイの覗く様はいかにも仕事が出来るオトナの男性で、早番のメンバーの間でイケメンのイケさんとあだ名がつく程度にはよく来店している。
「いらっしゃいませ」
「ブレンド……いや、ホットホワイトショコラのSサイズを持ち帰りで」
朝に聞くのとは違う疲れの滲むテノールに、かしこまりました、と答えると、薄い唇から細く息が吐き出された。
彼のオーダーはいつもなら決まってブレンドのMサイズ。朝、眠そうな気配すらなく、ありがとうとテイクアウトのカップを受け取って爽やかに店を出て行く姿ばかりを見ていたから、つい「お疲れですか」と口走ってしまった。
「ああ、いや……誕生日返上で休日出勤で」
げんなりと答えた彼は、「まあ、もう誕生日がどうこうって歳でもないんですけどね」と苦笑を溢した。
私よりもう幾つか上、二十代後半くらいに見えるけれど、いったい何歳なんだろう。二年前に大学院生と言っていたから、二十代半ばか後半くらいだろうか。そもそも大学院って何年通うんだっけ?
何歳になったにせよ誕生日ならば恋人とお祝いデートの予定くらいあったかもしれないのに、休日出勤とは気の毒なことこの上ない。
「お疲れ様です。……誕生日、おめでとうございます」
「ありがとう」
「誕生日に貰えたおめでとうの数だけ、この一年でいいことが増えるそうですよ。これでプラス一個間違いなしです」
馴れ馴れしすぎたかと思ったけれど、この寒い中、休日返上とはご愁傷様な話だ。ささやかな労いと祝いの言葉くらいは許されるだろう。そういうことにしておこうと決めて、接客用の笑みを浮かべると、それは楽しみだな、と少し弾んだ声が返った。
SカップにマジックでHAPPY BIRTHDAYの文字を綴ってから、ドリンク担当へと渡してオーダーを告げる。これで彼女からも、おめでとうが伝えられるはずだ。
想定通り、彼女も慣れた手つきで手早くドリンクを仕上げると、頬を上気させながら「誕生日おめでとうございます」と言ってカップを差し出していた。視界の端にそれを捉えて、店を出て行く姿に「ありがとうございました」と言えば、ちらりと肩越しに振り返った彼が微笑んで、ありがとうと口だけでかたどる。
トクトクと早まった鼓動を深呼吸で宥めながら壁時計を見れば、シフト終了まで残り三十分となっていた。
バイトを終え店の外に出て、いつものように猫舌仕様に作って貰ったホワイトホットショコラのカップに口をつける。溶けた甘い生クリームが舌の上に広がり、ゆるゆると癒やされる心地で白い息を吐き出す。
ホワイトホットショコラは、毎年バレンタインの頃に季節限定で登場する。ホワイトチョコのドリンクの上に生クリームがのっている人気のドリンクだ。クリームにアラザンや星形のミルクチョコを散らすなかなかに可愛らしい見た目で、買ってすぐにスマホをかざして写真に収める人も多い。星形チョコの中には稀にハート形が入っていて、女子高生の間では、これに当たると恋が叶うなどと話題になっているらしい。もっとも、今手にしているテイクアウトカップでは蓋に隠されて星もハートも確認は出来ないのだけれど。
なんにしろ、相当甘い飲み物だ。甘い物が好きならおいしいと幸せを感じるけれど、普段ブレンドをブラックで飲む人にはどうだろう。先程同じものを買って行った男に思いを馳せながら駅へと向かうと、ロータリーの手前に停めたパールホワイトの車に寄りかかるようにして当の本人が佇んでいて思わず足を止めた。
黒のチェスターコート姿でスマートフォンを耳に当て、もう片方の手には私の持っているのと同じカップが握られている。あれから三十分以上、ここに居たんだろうか。いくらホットドリンクを飲んだって寒いだろうに、車の中で話せばいいのに。そう思いながら再び歩き始めた途端、彼と目が合った。
単なる客と店員の関係。それにしても、無視をするのは失礼な気がして軽く会釈をして通り過ぎようとすると、「お疲れ様です」と声が掛かった。通話相手に言っているのかと思いつつも横目に窺えば、電話は耳から離され、視線はまっすぐこちらに向けられている。
「今日はもう終わりですか」
「はい」
「よかったらお茶でもどうですか」
あまりに想定外なことを言われると、簡単な言葉すら一瞬理解が出来ないものらしい。男がスマートフォンをコートのポケットに仕舞う姿を見届けてから、ようやく言葉の意味が理解できた。
「残念。今、飲んでいるところです」
跳ねた鼓動を隠しながら、手の中のカップを軽く掲げてみせる。誘いを躱すのに十分な断り文句を口に出来たつもりだ。それなのに、「確かに」と苦笑を返した彼は、車から身を離してゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。
「実はこのまま帰るのはあんまりかと思いまして」
軽く見上げる距離までやって来ると「誕生日らしく、外で食事でもしようと思うんです」と微笑んだ。
『彼』のことは前から知ってはいたけれど、画面越しでもお店のカウンター越しでもなく、こんな間近で、しかもまっすぐに笑顔を向けられたのは二度目のことだ。
「さっきのいいことがあるってあれ。プラス一個分、君が叶えてくれないかな。誕生日に可愛い女の子と一緒に食事が出来るとかなり幸せなんだけど」
さらりと敬語が取り払われる。可愛いなんて恥ずかしげもなくしれっと言えるの凄い、なんて思いつつ、社交辞令にまんまと踊らされて胸が高鳴るのだから私ってばチョロすぎる。
「それとも彼氏に怒られちゃうかな?」
「それこそ、か……恋人に怒られませんか?」
「そんな浮気者に見えるかい。彼女がいたら誕生日に他の女の子を食事に誘ったりしないさ。車に乗るのが心配なら電車でもいいよ。ただ、寒いし車のほうがラクだと思うけど。どっちがいい?」
彼氏はいるのでは? なんて心の声が届くはずもなく、断られるという想定のない男は決定事項のように話を進めてしまう。
私の方はといえば彼氏はいないし、一緒に住んでいるわけでもないのに日常生活についてとやかく言う保護者も長期不在中で連絡すらつかない状態だ。だからといって、このままあっさり流されてしまうのはなんとなく癪で「誘うの、慣れてますね」と口にすると、「君より人生経験は長いだろうからね。今日でまた更新されたし」と当たり前のように返された。
「それに、平日の朝しかいないと思った気になる女の子に逢えたうえ、帰りに居合わせるなんて幸運、逃す手はないからね」
臆面もなく言った男は軽く姿勢を正すと、「僕と食事に行って頂けませんか」と胸ポケットから名刺ケースを取り出すと、一枚を差し出してきた。
『エスピークオーツ株式会社』
『川村 啓士』
クォーツなんてつくからには宝石でも売っているんだろうかと思いきや、キャッチコピーとして『安心と安全をお護りするために』なんて書かれている。ともすれば胡散臭く見えそうな文言だけれど、その手のコンサルタントやセキュリティ関連の会社なのだろうか。
そんなことより『川村啓士』とい名前のほうが問題だ。私が知っている『彼』は、二年前『糸井陽一』という大学院生だった。文化人類学を専攻していると言っていた彼は、幾度となく男と唇を重ねていた。性的嗜好をどうこう言うつもりはないけれど、私はあの時に失恋した。しかも、その後に女の人とキスしているのも見たけれど、相手が立ち去った後にさも不快そうに自身の唇を拭っているのも見て、とどめを刺された心地になった。そんなに嫌ならキスなんてしなければいいのにと思ったものの、あの時は女の人の方が立場が上のようだったから、彼にもいろいろあったのかもしれない。理解したくはないけれど。
もっとも、すべてはモニター越しに見ていただけだ。その場には、他に誰もいなかったから、彼だってまさか誰かに見られてるなんて思いもしなかっただろう。だからこそ、あれは素の行動だったに違いない。しかも、あの時の彼ときたら、最後には拳銃を手に、次々と爆発する建物の中を全力疾走で駆け抜けていた。
この国で、そんな物騒なモノを手にしている人間が、真っ当で平穏な日々を送っているとは考えられない。
院を卒業して就職したというなら肩書きが変わるのはわかるけれど、そもそも普通の大学院生は拳銃は持っていないし、卒業したからといってフルネームが変わったりもしない。あれが偽名だったのか、これが偽名なのか、本名なのか。それとも、他人の空似とか、生き別れた双子とか。
何がなんだかわからないまま、もう一度、手の中の名刺を一瞥してから、彼に視線を向ける。
恋愛対象は男のはずなのに、可愛いだなんてお世辞を言って誘ってくる真意がわからなかった。こんなに顔がいいんだから、結婚詐欺師だと言われれば信じてしまいそうだけれど、あいにくカモになれるほどの財産も素直さも持ち合わせてはいない。
あの時、一緒にモニターを眺めていた保護者は、『こいつは捕まえる側の人間かもしれないな』と嘯いていたけれど、真偽の程は甚だアヤシイ。
ただ、彼がセキュリティ関連の会社の勤めているにしろ、捕まえる側の人間にしろ、そして犯罪者だとしても、目をつけられる心当たりはいくつかある。
「川村啓士と言います。見ての通り、会社がこの近くなんだ」
「けーじさん」
川村刑事。いやいや、犯罪者ならば刑事どころか捕まる側の人間だ。
彼が軽く目を瞠ったのを前にして、いきなり下の名前を呼んでしまった状態だと気付き、慌てて「すみません、川村さんですね」と訂正した。
「どちらでも構わないよ。君の名前を訊いてもいいですか」
「瀬野透子と言います」
「せやとうこさん。どんな字を書くの?」
「瀬戸際の瀬に野原の野、透明の透に子どもの子です」
「透明のトウ……綺麗な名前だね」
「ありがとうございます」
どんな名前でもなにかしら誉め言葉を口にしそうな彼を前に、こちらもにこりと笑顔を貼り付ける。
「じゃあ、瀬野さん。温かい物でも食べに行こう」
背を向けた彼は、そのまま車へと戻って助手席のドアに手を掛けた。
まだ行くと答えていないのに、と天邪鬼な思考が過る。そうは言っても悪い気はしない。しないどころか、嬉しいなんて思ってしまう自分は、きっとおかしい。拳銃を持っていたり、男とキスをしていたり、どう考えてもついて行っていい相手ではない。それなのに初恋相手だから、という説得力のない理由に天秤はつい傾く。
元々ぬるめだった手の中のカップからは、どんどん温度が喪われているようだ。寒いし、疲れたし、おなかだってすいた。ついて行っていい為の、幾つかの言い訳を心の中で並べてみる。それより何より、彼ともう少しふたりで話がしてみたかった。
知っていて近づいてきたのなら、私を利用しようとすることはあっても、すぐに殺したりはしないはず。たぶん。
そういう事態が冗談では済まない相手。お近づきにならない方がいい。わかっている。
それでも、彼が私の特別だったことには変わりない。
せっかくの機会なら楽しんじゃえ。
ひとつ小さく息を吐き、自分の本音に白旗を上げると、促されるまま助手席へと乗り込んだ。
ほどよく暖められた車内になんだかホッとして息を吐くと、シートベルトをつけながら「上着と鞄は後ろに置いてもいいよ」と促される。確かに、これだけ暖かければ上着は必要なさそうだ。
少し考えて、コートを脱いでそのまま鞄と一緒に膝に抱え、シートベルトをつける。それを待っていたように、車はゆっくりと走り出した。
「なにが食べたい?」
「私が決めていいんですか?」
「僕は好き嫌いはないけど、君の好みは知らないからね」
「なら、鍋とかどうですか」
ハンドルを握った川村さんは「鍋……」と鸚鵡返しをしたきり何事か考えているように前方を見据えたまま固まった。
「寒いので。あ、でもあんまり誕生日っぽくないですね」
「まあ確かに、誕生日のディナーという感じでもないけど。好きなの? 鍋」
冬は鍋料理が食べたくなるのは日本人の習性として仕方ないんじゃないかと思うくらいには、鍋物が好きだ。水炊きも簡単でいいし、お醤油風味や味噌だしで野菜をたっぷり入れる鍋もいい。キムチ鍋やトマト鍋、豆乳鍋といろいろあるけれど、手軽に作れておいしいという点ではどれも好ましい。
鍋のメインは肉や魚であるけれど、真の主役は白菜などの葉物野菜だと思っている。出汁の旨味を存分にまとい、口の中でじゅわりとその味を解き放つ。ご飯がすすまないわけがない。
ただ、一人暮らしで作るそれは単なる具だくさんスープでしかなく、ひとりでは締めにうどんや雑炊を食べるという余力もない。カセットコンロでも買って、ぐつぐつと煮ながら鍋をつつけばそれっぽい気分は味わえるのかもしれないけれど、猫舌の身でそこまでしたいわけでもない。
そんなことをつらつらと口にすると、無言で聞いていた男はふたつほど瞬きしてから唇の端を引き上げて、「僕も一人暮らしだからその感覚はよくわかるよ」と同意を示した。
連れて行かれたのは料亭のような高級そうな店。日本庭園に面した和室に案内され、卓越しに向き合う。正座をして背筋を伸ばすと「誰も見てないんだからラクにしていいよ。その為に個室にしたんだし」と笑み含んだ声が耳朶を打つ。
「よく来るんですか? ここ」
「よくってほどではないけど、まあ馴染みの店ではあるかな」
居心地の悪さを誤魔化すように、庭に視線を逃がす。
暗闇に沈む庭園は、所々にある石灯籠に灯る明かりに淡く照らされている。それはそれで風情はあるけれど、昼間ならばもっと美しい景色を堪能出来るのかもしれない。
視線を戻すと、いつのまにかジャケットを脱ぎネクタイをはずした彼が、おしぼりを手にこちらを見ていた。
「……」
「……どうかした?」
「あ、え、いえ……バレンタインが誕生日だとプレゼント大量に貰えそうですね」
咄嗟に口にしたものの、さすがにこれは唐突過ぎた。誤魔化すように笑うと、彼も口の端を引き上げる。
そもそも彼は、あげる側だろうか。それともやはり貰う側でいいんだろうか。そうと知らない女性陣には大量に貰うのかもしれないけれど、彼だって本命の彼にはチョコレートを贈るのかもしれない。
「そうでもないけど。まあプレゼントのチョコレート率が高いのと、断りにくいのが難かな」
「あー、はは、そうですね。モテるのもそれはそれで大変ですね」
「……」
「……」
どうしよう。会話が繋がらない。
落ちてきた沈黙に、膝の上の手をきゅうと握りしめながら頭の中でせわしく次の話題を探すと、クックと笑い声が聞こえて顔を上げる。見れば向かいの彼は、口元に手を当てて肩を震わせている。今のやりとりにそんなに面白いところはなかっただろうに、何がツボったのかとぽかんと見つめていると、「ごめん」と彼が片手を軽く上げてひとつ咳払いをした。
「神妙な顔で話題を探してるのが可愛くて、つい。ごめんね」
彼は誰かとの会話に困るなんてことはないに違いない。するすると絶え間なく話題を提供して、聞き出したいことだってするりと相手にしゃべらせてしまうのだろう。そもそも車の中では普通にバイトでのことを訊かれるがままに話していたりして、こんな風に話題に困るなんてこともなかった。場に慣れない私を面白がっていたのかと思うと腹立たしくて唇を尖らせると、またクスクスと笑われた。案外笑い上戸なんだろうか。
「瀬野さんは隠し事が出来そうにないね。すぐ顔に出る」
「さあ、どうでしょう」
そうでもない、と思う。こうして話していたところで、たぶん彼にだって気付かれない。
「川村さんは隠し事が上手なんですか?」
「そうきたか。そうだね。どうだろう。君よりは得意な気がするよ」
でしょうね、とも言えずにおしぼりを手にすると、失礼致します、と声が掛かり、この部屋に案内してくれたのとは違う和服姿の仲居さんがやって来た。
「彼女が鍋が食べたいと言ってね。ここならおいしいものが食べられると思って連れてきたんだ」
「ありがとうございます。でしたら今日はいい牡蠣がございますので、味噌仕立てで牡蠣鍋などいかがですか」
そう言って仲居さんの視線がこちらに向けられた。いやいや、決定権は私にはない。どうしますかと窺うように川村さんを見れば「牡蠣は好き?」と問われたので、好きですと即答した。
「なら牡蠣鍋をメインにおまかせでお願いしようかな。嫌いなものはある?」
「好き嫌いはそんなにないので……あ、ぎんなん。ぎんなんは苦手です。他はなんでも食べられます」
「だそうだよ」
「かしこまりました。お飲み物はいかが致しましょう」
「そうだな……透子さんはイケル口?」
「お酒ですか? えーと……あまり飲めないのでお茶かお水があればそれで」
「でしたら、よろしければ自家製の梅ジュースがございます。水で割ってもソーダで割ってもおいしゅうございますがいかがですか?」
「自家製梅ジュース! おいしそう、飲んでみたいです」
「お水とソーダ、どちらかで割るのがよろしいかと思いますが」
「ソーダ割りでお願いします」
「じゃあ、彼女はそれで。僕は瓶のサイダーを。こちらでやるから栓はそのままでいいです」
「かしこまりました」
すぐに運ばれてきた梅ジュースは、小さなたらいいっぱいの氷に刺した竹筒に入れられていた。炭酸水で好みの濃さに割って飲むそれは味も絶品で、顔も緊張もすぐにゆるゆるとほどけてしまう。
飲み物を注ぐのも鍋の取り分けも何もかも、川村さんがさりげなく先んじてやってくれるので、私は何もしないまま、ただただおいしいモノに舌鼓を打つ役立たずに成り下がっていた。
メインの鍋は甘めの味噌仕立てで、牡蠣ってこんなにぷりぷりで風味豊かな味がするのかと感動した。その牡蠣の旨味と出汁とがきいた汁と一緒に頂く白菜やエリンギもおいしくないわけがない。ポカポカと暖まる体同様、心も幸福感で満たされていくばかりだ。
唯一、鍋をリクエストして失敗したと思ったのは、自分が猫舌なのを考慮に入れていなかったことだ。お皿に取ってもらう熱々のそれを、ふうふうと一生懸命冷まして食べる姿を向かいから見つめられるというのは、ものすごく居心地が悪い。それがさして親しくもない男性ともなれば尚更だ。なんとなく急いた気持ちになるのを見透かすように「ゆっくり食べていいよ」と言われても、じっと見つめられるのは居たたまれない。
「川村さんの会社は警備とかセキュリティとかの会社なんですか?」
小皿の中の牡蠣や野菜が冷めるのを待ちがてら訊いてみる。
「名刺のキャッチコピーが……何かそういう会社のなのかなって」
「セキュリティか。うん、そういうのも提案しているよ。でも、僕の担当は個人警護」
「個人警護っていうと、ボディーガードみたいな感じですか?」
テレビや映画で見たことのある黒服に黒のサングラスの逞しい男性を思い浮かべながら返すと、「まあそうだね」と男の目が弧を描く。
ボディーガードといえば、守る相手には群衆相手に指一本触れさせないとか、襲ってきたら返り討ちにしそうな、見た目だけで相手を威嚇できる人がする職業じゃないだろうか。目の前にいるのは、容姿が整っていることを置いておいて普通の会社員だ。少なくとも拳ひとつで相手をどうこうするという風には見えない。
「あんまり強そうには見えないな、とか思ってる?」
「……すみません、なんというか、普通だなぁって」
いや、普通じゃないってことも知っているんだけれど。
あの時も銃を発砲したわけでも、人を殴り倒したのを見たわけでもないから、彼の実力は知らない。でもあんなことをしていたくらいだから、見た目に似合わず相応に強いんだろう。
「はは、それなりのコトは一通りできるつもりだけどね。基本的には、個人や企業に依頼されたなにしかしらを警護したり、見張ったりってところかな」
向けられた視線を感じながら、軽く目を伏せて火傷の心配がない程度には冷めたであろう牡蠣に箸をつける。
「それは、なんだか危険だったりいろいろ大変そうですね」
「ドラマみたいなことはそうそう起きないけどね」
そんなはずはない。少なくとも、かつてモニターの向こうの彼は、ぎりぎり死にそうな目に遭っていた。今聞いたことが本当ならば、あの場に出入りしていたのも仕事の一環だったのかもしれない。偽名を名乗って一般人を装いつつ、彼は誰かを、もしくはあの建物の中を警護していたとも考えられる。
もっとも、社員が拳銃を持っている会社なんてそれだけで十分怪しげではあるけれど。
「そうなんですか」
牡蠣のぷるんとした食感を堪能しながら、彼は私について何かを知っているんだろうか、と考える。可能性としては低いはずだけれど、もしも知っていて探りに来たというなら、これは狐と狸の化かし合いだ。
本当のことはわからない。彼の真意も、これが偶然なのか仕組まれたことなのかも。でも、鍋はもちろん料理はどれもこれも確かにおいしかった。
デザートに柚子の寒天寄せを食べ始めた頃「一目惚れって信じる?」と切り出された。あるかないかなら信じます。でも、されたと言われたら信じないと思います。そう伝えると、「一目惚れをしたことがありそうな口ぶりだね」と笑われた。
はい、あなたにです、なんて言えるはずもない。
彼は覚えていないであろう、ほんの些細な出来事だった。でも、あの時の言葉は確かに私を『私』につなぎ止めた。
目を伏せて、舌の上の爽やかな柑橘の香りに意識を集中する。
「僕もね、一目惚れしましたって言われたらきっと、僕のことなんて何も知らないくせにって内心思うと思うんだけど」
ひとつ呼吸を置いて、沈黙が落ちる。
そりゃそうだろう。彼は確かにモテそうだけれど、彼自身の性的嗜好など見た目でわかるはずがない。私だってそのひとりだ。
そっと視線を上げると、なんでも見透かしてしまいそうな双眸がひたとこちらに向けられていて、気圧されたように息を詰めた。
「君への気持ちはきっと一目惚れだと思うんだ」
「え? 私?」
頷きが返って、脳内は一気に会議体勢だ。
『一目惚れって、あの?』
『米の品種じゃないと思うけど、あれ?』
『一目惚れと言ったら一目惚れって意味なんじゃないの? 本当かどうかは置いておいて』
そうだ。口にしていることが本当に本当とは限らない。脳内円卓を囲むワタシ達は黙り込んで反芻する。
『ひとめぼれ』
『ヒトメボレ』
なるほど。わからない。自分が特別綺麗な女じゃないってことくらいは自覚しているけれど、男に見えるほど酷い事態ではないことも自負している。さすがにそれくらいはわかっての発言のはずだ。
だったら、彼の目的はなんだろう。やはり何か調べたいことでもあるんだろうか。
アリガトウゴザイマス、と。混乱したままにとりあえずお礼を口にしてみた。
「ふふ、ありがとうございます、か。君こそ慣れてるね」
「え?」
「君は僕に誘うのが慣れてるって言ったけど、君は躱すのに慣れてる。いつもそうやって言い寄る男をフってるのかな」
「そんなつもりは、ないです、けど」
告白されたことがないわけではない。接客で向ける笑顔を勘違いした相手に言い寄られたこともあるし、少ないながら、真摯に想いを告げられたこともある。ただ彼らの目にはもう少し熱があって、こんな風に冷静に観察してくることはなかった。
まあそりゃ観察したくもなるかもしれない。なにしろ彼にとっての私は恋愛対象じゃない。
口づけの後、不快そうに口を拭っていたあの日の姿が脳裏に蘇る。舌打ちしかねない様子に、これが自分だったらと目の前が真っ暗になった。あの時、恋と呼んでいいかもわからなかった彼への想いがそのまま踏みつけられたような心地になった。
冷えた気持ちを思い起こしながら、視線を交わす。
「けど?」
「反応を見てるのかな、って思いました。そう言ったら私がどんな顔をするのかなって」
悲しいかな、自分が性的嗜好まで打ち壊すほどの容姿を持ち合わせていないことは自覚している。その上、彼と接したのは接客マニュアルな会話にほんの少しのアドリブを加えた程度のもので、何かが芽生えるほどのものはどう考えたってない。だから、この思わせぶりな言動は目的があってのことだろう。
そう冷静に考えているはずなのに、心臓は耳元で煩いほどに鳴り響いている。保護者によって多少イケメン免役が培われているはずの私でも、彼はやっぱりトクベツなのだ。
「思ったより手強そうだ」
川村さんは余裕綽々に頬杖を突いて、面白そうにこちらを見ている。
「でも、そうだな。だったら一目惚れを信じて貰えるように頑張ることにするよ。恋人を前提に友達になってください」
頬杖をやめた彼は座ったままでぺこりと頭を下げた。
──いや、そうでなくて。
だってあなたが好きなの、男性ですよね?
目的がわからない男を前に、ひくりと頬がひきつるのを感じた。
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