イルファ

golbee2001

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二風谷

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 数日後、桐谷一花いちかと一ノ瀬里沙は福岡空港のロビーにいた。

「よく休みが取れたね」

 黒いリュックサックを背負った一花が、オレンジ色のキャリーケースを引きながら里沙の顔を見て言う。

里沙の働く弁護士事務所は小規模でそれほど事務員がいるわけではない。

担当の弁護士鎌田に事情を話して休暇を申し出ると「ちょうど案件がひと段落ついたところだから」と快く了解してくれた。

「先生がね『ここのところ、休み無しだったからゆっくりしてきたら良い』って言ってくれたの。餞別ももらっちゃった……。日頃の行いが良いからね!」

里沙が歩きながら舌を出して笑顔を一花に見せた。出生の事実を知った直後の悲壮な声とは違い、いつもの明るい里沙に戻っている。

空港の場内アナウンスが二人の乗る札幌千歳行きの搭乗手続きを促した。

「いよいよね」
 
出発する瞬間の高揚した気分が二人の足取りを軽くさせた。

機内に案内されると、窓際に座った里沙が滑走路にいる数人のグランドスタッフに手を振る。二人の乗ったボーイング787は離陸すると機首を北へ向けた。

 四月の北海道はまだ肌寒い。山岳地帯では雪も残っている。

二人は、新千歳空港の到着ゲートを出てレンタカーを借りる手続きを済ませた。

シャトルバスで配車場所まで向かう途中も、一花はスマートフォンで二風谷にぶたにの周辺地図を確認していた。

二人を乗せたレンタカーは一路日高方面へ向かった。二風谷までは約一時間の距離だ。

里沙は助手席で目をつむっている。しばらくするとガタガタ震えだした。

「里沙! また?」

一花は車を路肩に停めて里沙の様子を見た。両手を交差させて二の腕を掴んでいる。

「寒い……兄さんの気配を感じる――」

 一花は里沙を気にしながら前を向いてアクセルを踏んだ。日高自動車道を経由して国道に入る。二風谷まではもう少しだ。

 助手席から蚊の鳴くような声が聞こえた。
「兄さんは生きている……きっと生きている──」

 沙流川さるがわのほとりを走る国道は見通しが良い。静かな車内で二人は前を見つめていた。助手席に座る里沙の胸の鼓動が一花にも伝わって来る。

 二風谷ダム湖は西に傾く太陽の光を浴びて静かな湖面を見せている。二人の乗ったレンタカーは「二風谷アイヌ文化博物館」に到着した。北国の弱い陽光が駐車場に停めてある数台の車を照らしている。

「思ったより寒いわね」

車を出た一花がジャケットの襟を首まで上げる。館内に入った二人は目の前に広がる実物大の木船や、天井からつるされたアイヌ衣装の数々に圧倒された。

里沙はスマートフォンのフォトフォルダを検索していた。そこには春樹が読んでいた本のページが撮影され保存されている。二風谷ダムのページの写真を見つけると、画面を見ながら一花に指で合図を送る。

二人はゆっくり見学順路に従って歩いた。
「ふうん、アイヌの人達ってこんな暮らしをしてたんだね」

 口々に感想を言いながら展示されたジオラマを見学しているとき、一花が急に立ち止まった。

「どうしたの? 一花」
里沙がスマートフォンの画面を見ながらそばに寄って来た。

「これって……」

 目の前には「アイヌの暮らし」と題して古代からの家屋の中が模型で紹介されていた。中央に大きな囲炉裏いろりがある。

「この光景って……。あたしが里沙の部屋で見たのと同じだわ──」

「そうなの?」里沙が腰をかがめて展示に目を向ける。

「あたしは、かなり昔のアイヌの暮らしを見てしまったのね」

 二人は別の建屋に入った。入り口には「工芸館」と書いた看板がかかっている。アイヌ文化を実体験できる民芸品制作コーナーや資料閲覧スペースがあり、工芸品の売店なども併設していた。

 資料閲覧コーナーを見ていた里沙が「あ、これ、二風谷ダムだ」と一冊の写真集を手に取った。表紙には、夏の緑に囲まれた二風谷ダム湖の写真が使われている。

「『二風谷』ってタイトルの写真集があるよ」と言って里沙が手招きをする。
 里沙は立ったまま興味深くページをめくり始めた。アイヌの民族楽器「ムックリ」を珍しそうに眺めていた一花がそばに寄って来る。

 写真集の上にスマートフォンを置いて春樹の書き込みを確認していた里沙が「あ、これこれ」と声を出した。

「このダムができた沙流川の周辺にはアイヌの人たちが暮らしていたんだって……」

 二人は休息用のベンチに腰かけた。写真集には、二風谷の自然や古来のアイヌ民族の写真などが多数掲載されている。

「でもね、工業用の水源が足らなくなってダムを建設したらしいわ。ダムの底には何年も前の集落が沈んでいるのかもしれない……」

里沙は、二風谷ダムの写真が見開きで掲載されているページとスマートフォンの画面を交互に見ながら説明した。
 
数ページ興味深くページをめくっていた里沙の手が止まった。

「ねえ、これ何? スマホっぽくない?」

 里沙が見ている写真には「不思議な遺跡の発掘」と題して、長方形の金属の塊が写っている。スマートフォンの画面のようにも見えた。かなり朽ちているが、金属の表面は壊れたガラスのようだ。

「ええっ。だってほら、百年以上前って書いてあるよ。その時代にスマホなんてあるわけないじゃん」

「だよね……。本当に『不思議な遺跡』だわ」

「それよりも、その下の写真見てよ」

 一花が目を見張った。そこには「珍しいカラー写真」と説明書きされた一枚の写真が載っていた。とてもその時代のものとは思えないほど鮮明だ。

「わあ! なんかスマホで撮った写メみたい!」と一花が里沙に笑いかける。

 里沙も「そうね」と笑ったが、すぐに真顔になって一花を見つめた。

「どうしたの里沙?」
「この写真……」
思わずつばを飲み込む里沙の顔がだんだん青くなった。

「里沙?」
「ここに写ってる男の人、お父さんにそっくりなの……」

 里沙は、家の居間にある仏壇を思い浮かべた。仏壇には父親一ノ瀬純二の写真が立てかけてある。

「そんなはずは……。これも百年以上前って書いてあるよ」と一花が覗き込む。

 鮮明なカラー写真には、豊かなあご鬚を蓄えた男性と頭に鉢巻を巻いた女性、白髪の老人の三人が正面を向いて映っていた。家屋の中で囲炉裏を囲んで座り、にこやかに笑っている。

「お父さんの顔写真はずっと見ていたから間違うはずない!」

 里沙は自分のスマートフォンを取り出し、写真集のページにピントを合わせてシャッターを押した。そのまま奈津美に転送する「お父さんに似ていない?」と簡単なメモも添えた。

「里沙、冷静になって考えようよ。百年も前に里沙のお父さんがいるなんておかしいでしょ?」

 一花は里沙の肩に手をかけて顔を見た。

「きっと、里沙のお父さんにそっくりな人がいただけだよ──」
「そうかな──」

「ひょっとすると里沙の祖先がアイヌだったりしてね……。それだったら、里沙の過去がアイヌと関連してるっていうのも辻褄が合うじゃない」

一花の話を聞きながら里沙はスマートフォンの画面をじっと見ていた。母からの返信を待っている。

「でも……やっぱり気になる」

 そのとき里沙のスマートフォンが震えた。

「あ、お母さん? 写真見た?」
 里沙は黙って母の反応を待つ。

「見たわ! 間違いないわ! 純二さん、お父さんよ! どこで見たの?」 

 奈津美は興奮して「私も今からそっちに行く」と言っている。里沙が慌てる奈津美をなだめた。

「お母さん……落ち着いて……まだ何もわかってないの……。いきなり警察に行ってこの写真の人を捜してるって言っても、誰も信じてくれないでしょ?」

 里沙が冷静な口調で話す横で、一花も「そうそう」と言って目を大きく見開いている。

「ただね、この写真が兄さんの行方を知る鍵になるかもしれない……。何となくそう感じるの。もう少しこっちで調べてみるから、次の連絡を待ってて……ね!」

 電話を終えた里沙の顔は上気していた。一花の顔を見て「さあ、もっと見て回ろう」と先を急ぐ。


文化博物館を出た二人は隣接する沙流川歴史館に入った。閉館時刻ギリギリだったこともあって館内には誰もいない。

歴史館には、沙流川周辺で見つかった数々のアイヌ遺跡が展示されていた。

遺跡は当時のアイヌ人が狩猟に使った槍や、マキリと呼ばれる彫刻された柄と鞘が特徴的な短刀が多く陳列されていた。アイヌ民族が狩猟民族だったことが良くわかる。

二人は足早に次の展示コーナーへ進む。陳列ケースの中にはアイヌ人の生活を連想させる細かい土器の欠片が展示されていた。

「里沙、これはどういう意味なんだろう? アイヌの古い書物みたいだけど…」

 一花がガラス製の陳列ケースを覗き込みながら里沙に声をかけた。

「古い書物って? おかしいわね……。アイヌ文化って文字を使ってないはずよ。それにこれ、ボールペンかなんかで書かれてる─―」

 里沙が歩み寄ってガラスケースを覗き込んだ。二人の目の先には長文の書物が収められている。古代アイヌには文字という概念がなく、風俗や芸能などはユーカラという叙事詩に載せて言葉で伝えられてきた。

「百十以上前か……。江戸時代?」一花が少し上を向いて人差し指をあごに当てた。

「どうだろ、明治以降よ。世の中が一斉に変貌した時代ね……。どれも、その頃のものとは思えないわ」と言いながら、里沙は陳列ケースのガラスに顔をくっつけるようにして「不思議ね」と言った。

 二人は二風谷ダムの歴史が年表のように紹介されているコーナーにやってきた。

「沙流川流域のアイヌ集落がこのダムの底に沈んだのは間違いなさそうね……」

 大きな看板に表示された年表と説明文には、この地域でのアイヌ人の生活が細かく書かれていた。
 
 一花が里沙から少し離れて「沙流川出土品」のコーナーを歩いているとき、突然、視界が薄緑色に覆われた。

「ああ、まただ……」

一度軽く目を閉じ改めて瞼を開くと、薄緑色の膜を背景に古い茅葺かやぶき屋根の家屋の中が見えた。展示館の風景と重なっている。

一人の若い女性が、床に寝ていて、何人かの顔が心配そうに覗き込んでいた。

男性が一人立ち上がって部屋の隅へ行く。

「パキッ」と木材が割れる乾いた音がした。

里沙の部屋で見た美しい女の顔が浮かび上がってきた。

美しい女は視線を斜め下に向けた。

 一花の脳裏に軽い衝撃が走る。思わず目を閉じて陳列ケースに寄り掛かった。
 
──また、あのときと同じだ。
 
徐々に薄緑色の膜が消えていって正常な視界に戻ってきた。

最後に出てきた美しい女は目の前の陳列ケースを見ていたように思える。

「あっ!」女の視線を追ってケースの中を見ていた一花が思わず声を出した。

そこには小さな木片もくへんが展示されている。横の説明書きには「アイヌ文様もんようの木片」と書かれていた。朽ちて炭化していたが彫り込まれた模様だけは確認できる。

「一花?」
 里沙が小走りに歩み寄った。

「ねえ! 里沙が持ってるキーホルダーを見せて!」慌てた声が二人以外誰もいない展示室に響く。

アイヌ文様が彫り込まれたキーホルダーをバッグから取り出しながら、里沙が「どうしたの?」と一花の視線を追って陳列ケースを見たとき思わず息を呑んだ。
 
ケースの中の木片には、鋭利な刃物で切断したような痕があり、明らかに二つに割れた形跡がある。
 
一花が里沙からキーホルダーを受け取り、慎重に陳列ケースのガラスの上に置いた。
位置をずらしながらキーホルダーと展示された木片の一辺を合わせると、一つのアクセサリーのような形になった。模様はアイヌ文様のようだがはっきりわからない。

 二人は顔を見合わせた。と同時に里沙が困惑した表情に心細い声で笑った。

「一花、よくある形だわ。偶然よ……」

里沙の頭の中に生まれたある予感を必死で否定しようとした。

「そうかなあ……」
「そうよ……」
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