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カウンセリング
消えた兄の行方
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しばらくして約束の時間ちょうどにインターフォンのチャイムが鳴った。
「一ノ瀬です……」
インターフォンの画面に一ノ瀬里沙の不安そうな表情が写る。理恵が「どうぞ」と言って玄関の自動ロックを解除し、里沙をマンションに招き入れた。
どちらかというと細身で清楚な雰囲気の若い女性が、うつむき加減で事務所に入ってきた。少し丸い顔は堀が深く端正な顔立ちだがあまり顔色は良くない。
「こんにちは。一ノ瀬さんですね。一花から話を聞いています」
裕也は里沙の顔を見ながら応接室のドアを開いて「どうぞ」と手招きした。理恵に目配せをする。理恵はうなずいてお茶を出す準備を始めた。
応接室には、大きめのローテーブルと二脚のソファが置かれていて、テーブルの上には花瓶に季節の花が挿してある。
里沙は目を伏せてため息をつきながらソファに座った。理恵がお茶の入った湯呑を持って応接室のドアをノックする。
裕也は初回面接用の用紙を手にソファに座り、改めて里沙を見た。下を向いているので切りそろえたセミロングの前髪が顔の半分を隠している。
「桐谷裕也です。これからあなたの状況をお訊きして、今後のカウンセリングのスケジュールを決めていきたいと思います」
ソファに深く腰を下ろした里沙は「はい」と答えながらスカートの裾を気にしている。
「お兄さんのことでご相談とのことですが、状況を詳しく教えてもらえますか?」
裕也はペンを持って用紙に書き込む準備をした。応接室の窓からは、朝の明るい光が差し込んでいる。ようやく春の穏やかな陽気が体を包む季節になってきた。
「兄は今北海道の大学に通ってるんですけど……一か月近く前から連絡が取れないそうなんです」
里沙の消え入りそうな小さな声に、裕也の眉がピクリと動く。
「大学とお兄さんの間での連絡が取れない……。ということですね?」
「そうです――捜索願いは出したらしいんですが……見つからないようで……。警察は諦めた方が良いと言ってるようなんです」
身内の失踪事件と判断した裕也は一度メモを取るペンを置いた。警察が介入する案件は今まで受けたことがない。事件の解決が最も有効な治療になる症例が多いのでカウンセリングには限界がある。
――この案件は事件解決までの精神的なケアに絞って進める方が良さそうだな。
「警察の対応についてどう感じましたか?」
「警察が言っていることには納得できません……。兄は生きています。私にはそう感じるんです……」
里沙が顔を上げ、刺すような視線で裕也を見た。悔しい思いが顔に出ている。
「その――あなたがお兄さんの生存を信じている理由を訊いても良いですか?」
「それは……。特に根拠はありません……でも、兄は生きています」
里沙はそう言って視線を落とし、メモを取る裕也の手元を見ていた。
「そうですか……」
裕也はソファの背もたれに身を預けた。この先話をどう進めるかを考えている。
「実は……」
里沙が顔を上げて、心細い視線を裕也に向けた。
「兄の行方がわからなくなってから……変な予感や身体の変調があるんです」
身体の変調という言葉を聞いて裕也がソファから身を起こした。
「どんな症状でしょう?」
「突然寒さを感じて震えが出るんです。五感が鋭敏になっているのかもしれません。身体の不調ではないので……原因がわからなくて不安になります」
里沙の仕草や話し方には繊細で神経質な性格が感じられる。
「寒さや震えはいつごろからですか?」
「最初に感じたのは、一か月くらい前です」
「そうですか。お兄さんがいなくなられた時期と一致しますね」
「ええ……兄の失踪と何か関係があるような気がして……」
里沙の表情は硬い。人の声が聞こえることもあるという。
「寒さはどんなふうに感じましたか?」
「氷水の中に落とされたみたいな……最初はショックが大きくて動転しました。それからは何度か同じ寒さを感じて震えがきて……」
「他に身体の症状はありませんか? 夜眠れないとか、頭痛や耳鳴り、イライラや不安感などですが」
「……はい。耳鳴りや頭痛もあります。イライラして眠れない夜も続いています……」
裕也はペンを止めた。典型的な自律神経系の症状だ。重くなると暑さや寒さを感じることもある。
「お兄さんのことで、不安な状態が続いていることが原因かも知れませんね」
膝の上の里沙の両手が小刻みに震えた。不安と緊張が表情ににじみ出ている。
「一ノ瀬さん。大丈夫ですよ。ゆっくりお話を訊かせてください。ところで、先ほど変な予感と言われましたが?」
裕也がテーブルに置かれたお茶をすすめると、里沙は湯呑を手に取り一気に飲み干してため息をついた。震えを感じたときのことを思い出そうとしている。
「実は……兄の件がわかったときのことなんですが……大学から連絡が来る直前に『兄がいなくなった』って閃いたんです。兄の夢を見た日の朝のことでした。目が覚めた瞬間にすべてが頭に浮かんできて……。胸騒ぎがして大学に電話したら『ちょうど今、家族に連絡しようとしたところでした』って言われました」
里沙は、そこまで話し終わって訴えるような目つきで裕也を見た。握りしめた手が膝の上で微かに振動している。
「まるで、お兄さんの身に起きたことを予言したみたいですね。そのときはどう感じましたか?」
裕也がゆっくりと問いかけた。間を置いて話すよう心がけている。
「……目が覚めて瞬間的に頭が覚醒したみたいな……いつもの目覚めとは全然違って、やるべきことが瞬時にわかったんです。気がついたら電話してました」
裕也は記憶をたどった。同じような現象が書いてある本を読んだことがある。
「その日に見たお兄さんの夢の内容を憶えていますか?」
「夢の内容ですか?」と言って里沙は首を傾げた。
「いつもの夢より輪郭がはっきりしていたとか、色がついてたとか──」
「──はっきり兄とわかりました。カラーのムービーを見ているような感じで……」
裕也はペンを持つ手をあごの下に置いて考えた。予知夢の可能性が大きいが、夢にはメッセージ性を持つものや過去の記憶が形を変えて出てくることもある。
「私は……どうなったんでしょう? おかしくなってしまったのでしょうか?」
「気にすることはありませんよ。一ノ瀬さんのような体験をする方は大勢いらっしゃいます。少し思い当たる節があるので事例があるか調べてみましょう」
面接用紙の備考欄に里沙の話を要約して書き始める。少し間が空いて里沙がハンカチを取り出し口元に当てた。
裕也はペンを置くと話を切り替えた。
「――ところで、声が聞こえると言われましたが? お知り合いの声ですか?」
「わかりません。何を言っているのかが聞き取れなくて……」
少しずつ里沙の言葉の輪郭がはっきりしてきた。
「幻聴かもしれませんね。知らない人の声とか動物の鳴き声を無意識に想像して聞こえてしまうこともあります」
「幻聴? そういえば耳に聞こえるんじゃなくて、頭の中に響く感じです」
そこまで言うと、急に里沙が頭を抱えて震え始めた。
「一ノ瀬です……」
インターフォンの画面に一ノ瀬里沙の不安そうな表情が写る。理恵が「どうぞ」と言って玄関の自動ロックを解除し、里沙をマンションに招き入れた。
どちらかというと細身で清楚な雰囲気の若い女性が、うつむき加減で事務所に入ってきた。少し丸い顔は堀が深く端正な顔立ちだがあまり顔色は良くない。
「こんにちは。一ノ瀬さんですね。一花から話を聞いています」
裕也は里沙の顔を見ながら応接室のドアを開いて「どうぞ」と手招きした。理恵に目配せをする。理恵はうなずいてお茶を出す準備を始めた。
応接室には、大きめのローテーブルと二脚のソファが置かれていて、テーブルの上には花瓶に季節の花が挿してある。
里沙は目を伏せてため息をつきながらソファに座った。理恵がお茶の入った湯呑を持って応接室のドアをノックする。
裕也は初回面接用の用紙を手にソファに座り、改めて里沙を見た。下を向いているので切りそろえたセミロングの前髪が顔の半分を隠している。
「桐谷裕也です。これからあなたの状況をお訊きして、今後のカウンセリングのスケジュールを決めていきたいと思います」
ソファに深く腰を下ろした里沙は「はい」と答えながらスカートの裾を気にしている。
「お兄さんのことでご相談とのことですが、状況を詳しく教えてもらえますか?」
裕也はペンを持って用紙に書き込む準備をした。応接室の窓からは、朝の明るい光が差し込んでいる。ようやく春の穏やかな陽気が体を包む季節になってきた。
「兄は今北海道の大学に通ってるんですけど……一か月近く前から連絡が取れないそうなんです」
里沙の消え入りそうな小さな声に、裕也の眉がピクリと動く。
「大学とお兄さんの間での連絡が取れない……。ということですね?」
「そうです――捜索願いは出したらしいんですが……見つからないようで……。警察は諦めた方が良いと言ってるようなんです」
身内の失踪事件と判断した裕也は一度メモを取るペンを置いた。警察が介入する案件は今まで受けたことがない。事件の解決が最も有効な治療になる症例が多いのでカウンセリングには限界がある。
――この案件は事件解決までの精神的なケアに絞って進める方が良さそうだな。
「警察の対応についてどう感じましたか?」
「警察が言っていることには納得できません……。兄は生きています。私にはそう感じるんです……」
里沙が顔を上げ、刺すような視線で裕也を見た。悔しい思いが顔に出ている。
「その――あなたがお兄さんの生存を信じている理由を訊いても良いですか?」
「それは……。特に根拠はありません……でも、兄は生きています」
里沙はそう言って視線を落とし、メモを取る裕也の手元を見ていた。
「そうですか……」
裕也はソファの背もたれに身を預けた。この先話をどう進めるかを考えている。
「実は……」
里沙が顔を上げて、心細い視線を裕也に向けた。
「兄の行方がわからなくなってから……変な予感や身体の変調があるんです」
身体の変調という言葉を聞いて裕也がソファから身を起こした。
「どんな症状でしょう?」
「突然寒さを感じて震えが出るんです。五感が鋭敏になっているのかもしれません。身体の不調ではないので……原因がわからなくて不安になります」
里沙の仕草や話し方には繊細で神経質な性格が感じられる。
「寒さや震えはいつごろからですか?」
「最初に感じたのは、一か月くらい前です」
「そうですか。お兄さんがいなくなられた時期と一致しますね」
「ええ……兄の失踪と何か関係があるような気がして……」
里沙の表情は硬い。人の声が聞こえることもあるという。
「寒さはどんなふうに感じましたか?」
「氷水の中に落とされたみたいな……最初はショックが大きくて動転しました。それからは何度か同じ寒さを感じて震えがきて……」
「他に身体の症状はありませんか? 夜眠れないとか、頭痛や耳鳴り、イライラや不安感などですが」
「……はい。耳鳴りや頭痛もあります。イライラして眠れない夜も続いています……」
裕也はペンを止めた。典型的な自律神経系の症状だ。重くなると暑さや寒さを感じることもある。
「お兄さんのことで、不安な状態が続いていることが原因かも知れませんね」
膝の上の里沙の両手が小刻みに震えた。不安と緊張が表情ににじみ出ている。
「一ノ瀬さん。大丈夫ですよ。ゆっくりお話を訊かせてください。ところで、先ほど変な予感と言われましたが?」
裕也がテーブルに置かれたお茶をすすめると、里沙は湯呑を手に取り一気に飲み干してため息をついた。震えを感じたときのことを思い出そうとしている。
「実は……兄の件がわかったときのことなんですが……大学から連絡が来る直前に『兄がいなくなった』って閃いたんです。兄の夢を見た日の朝のことでした。目が覚めた瞬間にすべてが頭に浮かんできて……。胸騒ぎがして大学に電話したら『ちょうど今、家族に連絡しようとしたところでした』って言われました」
里沙は、そこまで話し終わって訴えるような目つきで裕也を見た。握りしめた手が膝の上で微かに振動している。
「まるで、お兄さんの身に起きたことを予言したみたいですね。そのときはどう感じましたか?」
裕也がゆっくりと問いかけた。間を置いて話すよう心がけている。
「……目が覚めて瞬間的に頭が覚醒したみたいな……いつもの目覚めとは全然違って、やるべきことが瞬時にわかったんです。気がついたら電話してました」
裕也は記憶をたどった。同じような現象が書いてある本を読んだことがある。
「その日に見たお兄さんの夢の内容を憶えていますか?」
「夢の内容ですか?」と言って里沙は首を傾げた。
「いつもの夢より輪郭がはっきりしていたとか、色がついてたとか──」
「──はっきり兄とわかりました。カラーのムービーを見ているような感じで……」
裕也はペンを持つ手をあごの下に置いて考えた。予知夢の可能性が大きいが、夢にはメッセージ性を持つものや過去の記憶が形を変えて出てくることもある。
「私は……どうなったんでしょう? おかしくなってしまったのでしょうか?」
「気にすることはありませんよ。一ノ瀬さんのような体験をする方は大勢いらっしゃいます。少し思い当たる節があるので事例があるか調べてみましょう」
面接用紙の備考欄に里沙の話を要約して書き始める。少し間が空いて里沙がハンカチを取り出し口元に当てた。
裕也はペンを置くと話を切り替えた。
「――ところで、声が聞こえると言われましたが? お知り合いの声ですか?」
「わかりません。何を言っているのかが聞き取れなくて……」
少しずつ里沙の言葉の輪郭がはっきりしてきた。
「幻聴かもしれませんね。知らない人の声とか動物の鳴き声を無意識に想像して聞こえてしまうこともあります」
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