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真実
なせること
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夜になると、家の中は静寂を取り戻す──二人は帰ったし、ノゾミが寝た後なんて、特に静かだ。
色々なことに驚かされ、正直頭は容量限度を超えていた。何から悩んで、解決していけばいいのかも分からない。
ひとまず……余りにも体力が落ちていることに気付かされた今日。一番身近な問題で、かつ解決しやすい事案だろう。せめて家の中をうろうろして、体力回復を試みようと思った。
そこで、気付く。
「……何これ」
あちこち、家の造りが変わっている。それこそ階段なんて段差が部分的に消されていて、意図が全く読み取れない。
ひとまず一階へ降りると──人の気配を感じた。
「カズエ兄さん?」
「ん?」
部屋には……何だかいい匂いが充満していた。
「なんだ、こんな時間に」
「ちょっと……筋力落ちてるから、うろうろしてた」
「ああ。階段昇降とかで少しずつ戻せばいい」
声は元より冷たい音質だが、気を遣ってくれる優しさ。昔の印象と変わらないなと、また温かい気持ちになった。
「そういえば、あの階段なに? なんだか家の中あちこち変わってない?」
「ああ、あれか。ミキがバリアフリーだと言って勝手に改装してる」
「ばりあ……?」
「俺が車椅子でも移動出来るようにだと」
車椅子──あの車輪がついた椅子の名前だろう。ということは、これもアイツの改造だろう。
「……そんな顔するな。ミキはお前が思っているほど悪い奴じゃない」
顔に出ていたようで、先を読んだ兄さんから軽い叱責を受けた。
兄さんへの配慮なら許せるが……やはり前の一件は許せない。あの時の冷たい目付きは忘れられない。
──あれは、僕の無知への蔑み。
今となれば思い当たる節も推測出来た。端から見たら、温室育ちで何も知らない僕は滑稽で愚か……それでいて綺麗事を並べる様は苛つかせただろう。
そう思えば奴の態度もある程度は当然なのだろう。変わらず口は気に入らないが、最近の害は特にない。けれど……やはり打ち解ける気にはなれなかった。
兄さんの向かいの席に腰掛ける。少しドキドキしたが、特に拒否もされないのでそのまま居座ることにした。
「それ、何? いい匂い」
香ばしい匂いが兄の手元からだと分かり、のぞきこむと黒い液体が見えた。
「珈琲だ」
「こーひー……」
「政府からの特別配給品だ。貴重だから、たまにしか飲めない」
物欲しそうな顔をしていたのか、兄さんは笑いながら差し出してくれた。
嬉しくてすぐに受け取り、口をつけるが……。
「──にっが!」
想定外の味に思わず大きな声を出してしまう。兄さんは気分を害した様子もなく笑ったままだったので、代わりに訝しげな視線を返す。
「これ、美味しいの……?」
「俺は好きだな。お前も、ミキと同じで飲めない質(たち)らしいな」
まさしく苦い顔のまま、恨めしそうに黒い液体を見る。アイツと一緒にされるのは腹立たしいが、これに関しては兄さんの好みが理解出来なかった。
不貞腐れていると……車椅子を一人でゆっくり動かして、何やら違う容器を運んでくる。
「お前はやっぱりこっちだな」
「……牛乳! よくあったね、懐かしい!」
「カンナちゃんの差し入れだ。明日礼を言っておけ」
飲める白い液体に年甲斐もなくはしゃいでしまう。自分の分に口をつけた。
何よりも──こうして時間を共有出来ることが嬉しかった。
「……これ入れると甘くなるぞ」
そう言って、白い砂をさらさらっと僕のカップに入れる。
「甘い! なにこれ美味しい!」
「お前、絶対ミキと同じ舌だな。これはアイツのだ」
名前を聞いた瞬間、反射的にまた顔をしかめてしまう。
面白そうに、でも少し苦笑いも浮かべながら兄さんは僕を見た。僕は……カップの中を見る。
「なんで兄さんは、あんな奴と仲が良いのさ……理解出来ないよ」
甘くなった牛乳を一口飲んでから呟く。食べ物に罪はないので、これはこのまま頂くことにした。
ふっと笑うカズエ兄さん。
「そうだな……付き合いも長くなってきたし、価値観も近いしな」
「価値観? 絶対そんなことないでしょ。兄さんとアイツが同じ思想なんて考えられない、有り得ない」
「お前……そんなに頑固だったか?」
そう指摘を受けるのは何だか恥ずかしくて、少しうつ向いた。
「そうだな。あとは……肩の力を抜けるってところかもな」
「肩? それ、どんな関係なの?」
「気の置けない仲ってやつだな──お前とカンナちゃんはどうだ。そういうのとは違うのか」
突発的な質問に首を捻る。
「僕とカンナ……?」
確かに、慣れてきた最近は緊張することもなくなった。けれどやはり所々は素っ気なく、冷たく感じる。たとえ同じ近所の幼馴染だとしても、オトナシといるのとは訳が違う。
「うーん、違うと思うけど」
「……そうか」
兄さんは静かに珈琲をすすった。
まるで昔に戻ったようで──。
足をぷらぷらさせながら飲む。
──あ、足……。
「あのさ……僕の足……」
「ん? ああ、大事に使ってやってくれ」
さらりと平然のように言う様は、兄さんの気持ちを代弁しているように感じられた。
「うん……ありがとう」
それ以上、兄にとやかく言うのは止めようと思った。
「色はともかく、傷は全然分からないや……凄いね」
「お前に関しては俺だけじゃなくて、前の人形師も一緒にオペ入ったからな」
「へぇ。兄さんも器用だと思うけど、その人も凄いんだね。どんな人?」
「腕はいいが……凄まじいマザコンだな」
「え」
「……あ」
自分で言った癖にあからさまに、しまったという顔をする兄さん。僕も聞くんじゃなかったと後悔して、目線を反らした。
──お母さん、か。
「ねぇ、兄さん」
「なんだ」
「他にも……聞いていい?」
「俺が答えられる範囲ならな」
聞きたいことは沢山あったが、ひとまず思い浮かんだ姿を声に出す。
「母さんは──」
懐かしい面影……だけど輪郭はもう思い出せない。その存在が温かいものだったという覚えだけが残っていた。
カズエ兄さんは目を伏せる。一口飲んでから話し始めた。
「処刑のあと……お前を俺達に預けてから帰ってこなかった。凄い剣幕で飛び出していったから、恐らく政府へ抗議に行ったんだと思う」
「抗議?」
「あの人ならやりかねない。肝っ玉母さんって感じだったからな──でも、それっきりだ」
兄さんは悲しそうに、それでいて懐かしんだのか……珍しく少し嬉しそうにも笑った。
「……兄さんは」
「ん?」
「この世界……悲しくない?」
静寂の中、静かな口調のまま、僕等は気持ちを汲み交わす。
「──笑うことは確かに減ったな」
「そんなの……」
「だけど、嫌なことばかりじゃない。楽しいことも沢山あったさ」
あったと──全てが過去形になっているのを兄は自覚しているのだろうか。
カップを握る手を強くする。
──僕には、何が出来る。
知識を得た今になっても、気持ちは変わらない。
──大切な人達が悲しむところを見たくない。
カップの中の白い水面を見つめながら、想いを巡らせた。黙ったままの僕に気を遣ったのか、兄さんもその後は沈黙を守り……二人で静かな時間を過ごした。
「あ、僕洗うよ!」
使った食器を片付ける。兄さんは習慣で未だに地下の部屋を使っているそうなので、一人で上に戻ろうとすると──。
「センチ。俺からも……一ついいか」
背中から呼び止められて振り返る。何かと思うも、カズエ兄さんは僕ではなく……天井を見つめていた。
「アイツが──オトナシが、お前の手に執着していたのは本当だ」
兄さんから彼女の名前を切り出されるとは思いもしなく、内心はドキリと驚く。極力顔に出ないように意識して、耳を傾けた。
「……うん」
ようやく分かった、彼女から僕への過保護と執着と、世間からの隔離の正体──どんな気持ちで僕の傍に居続けてくれたのか……推し測れない。
「けれどそれだけじゃない──お前自身と恋仲になったのも事実だ。アイツはお前達と一緒にいる時は……心底穏やかな顔をしていた」
重く重く、言葉が心にのし掛かる──慰めかもしれないが、彼女と僕を想う気持ちは充分に伝わってきていた。
「──ありがとう」
「早く寝ろよ」
「うん……お休み」
扉を後ろ手に閉めて、部屋への階段を昇る。兄と二人きりで穏やかに話すなんて本当に何年振りだっただろう。
ただ、一番聞きたかった──オトナシの最期のことはとても聞けなかった。
マリオネットや当時の状況に関わった全ての人が、いかに傷付ついてきたのかを知った……味わった。
部屋に戻り、一度はベッドに腰掛けるが、そのまま上半身を後ろへ倒す。
手を空に伸ばせば──細く白く、長い指。
「この世界は、なんなの」
幼い頃は全てがキラキラして見えていたはず。誰かと遊ぶのが楽しくて、兄の真似をして走りたくて……あまり覚えてはいないけど、ただ毎日が楽しかったはず。明日はどんな一日だろうと、これから何が起こるだろうと。
「これが……その答え?」
掲げた手を握り締める。
「情けない……」
愚か。まさしく愚者だと思った。何も知らずに狭い世界で生きてきた──そうしてとうとう、こうなった。
起き上がって、覚悟を決めて……ずっと近付けなかったそれへ歩み寄る。
──カプセル。
あの日から、机の上に鞄ごと放置したままだった……蓋を開けて、震える手で、恐る恐る中のものを取り出す。
「オトナシ」
面影など微塵もない。言われなければこの中に彼女がいるなんて分からなかった。言われたところで、正直納得も出来ていない。
だけど……繋がった時に聞こえる歌声は、紛れもない彼女の証。
『レクイエム……って?』
小さなピアノの鍵盤を叩く僕に彼女が話す。最初こそは器用に足の指で弾いて教えてくれたが、最近はもっぱら伴奏に合わせて歌うばかりだった。
その日も彼女が持ってきた楽譜を奏でるが、流れる音は物悲しい。
『鎮魂歌……死んだ人を弔うための音楽だよ』
『とむらう?』
慣れない言葉に、聞き返した。
『死んでしまった人がね……次は幸せになれますようにって、送ってあげるの。魂が迷わないように』
『魂? ここにいちゃいけないの?』
『魂は、人の心。いつかは空に帰って、次の命へ繋がるの』
『オトナシもいなくなってしまう?』
『皆いつかはね──悲しみが終わることを祈って、弔うんだよ』
彼女は儚げに微笑んだ。
──悲しみが連鎖する世界。
ガラスに触れて、触れられるはずのない肌を想う。
「オトナシ……ごめんね、時間が掛かって」
人形の存在を理解し、自身のことも知れた今……やっと彼女を受け止める心積もりが出来た。ここへ至るまで時間が掛かってしまった。その間、暗い鞄の底で待たせたことを申し訳なく思う。
──誰が、犠牲になったのだろう。
中枢神経系は彼女。他の臓器や、この個体に関しては四肢の筋までつけられているそう。
彼女を始めとするこの人形を前にして、今更何が出来る訳でもない。全ては保存液と金属に遮られ、触れることすら叶わない。
「人形を嫌っていた本当の理由がやっと分かったよ……君は知っていたのに、ごめんね。腕をくれた君をそんな姿にさせてしまった」
固定された組織の中でも、悲しい思考は続くのだろうか──?
「……僕は、何がしたいだろう」
彼女は辛い想いをして、僕の傍にいてくれた。外の常識から隔離してくれたのは──諸刃の剣だ。
けれど……だからこそ、分かる。
「おかしい」
彼女が守った世界で生きてきたからこそ、これがおかしいと思える。
オトナシ達がくれた動ける体で、僕は何をなしたいのかを考えながら眠りについた──。
色々なことに驚かされ、正直頭は容量限度を超えていた。何から悩んで、解決していけばいいのかも分からない。
ひとまず……余りにも体力が落ちていることに気付かされた今日。一番身近な問題で、かつ解決しやすい事案だろう。せめて家の中をうろうろして、体力回復を試みようと思った。
そこで、気付く。
「……何これ」
あちこち、家の造りが変わっている。それこそ階段なんて段差が部分的に消されていて、意図が全く読み取れない。
ひとまず一階へ降りると──人の気配を感じた。
「カズエ兄さん?」
「ん?」
部屋には……何だかいい匂いが充満していた。
「なんだ、こんな時間に」
「ちょっと……筋力落ちてるから、うろうろしてた」
「ああ。階段昇降とかで少しずつ戻せばいい」
声は元より冷たい音質だが、気を遣ってくれる優しさ。昔の印象と変わらないなと、また温かい気持ちになった。
「そういえば、あの階段なに? なんだか家の中あちこち変わってない?」
「ああ、あれか。ミキがバリアフリーだと言って勝手に改装してる」
「ばりあ……?」
「俺が車椅子でも移動出来るようにだと」
車椅子──あの車輪がついた椅子の名前だろう。ということは、これもアイツの改造だろう。
「……そんな顔するな。ミキはお前が思っているほど悪い奴じゃない」
顔に出ていたようで、先を読んだ兄さんから軽い叱責を受けた。
兄さんへの配慮なら許せるが……やはり前の一件は許せない。あの時の冷たい目付きは忘れられない。
──あれは、僕の無知への蔑み。
今となれば思い当たる節も推測出来た。端から見たら、温室育ちで何も知らない僕は滑稽で愚か……それでいて綺麗事を並べる様は苛つかせただろう。
そう思えば奴の態度もある程度は当然なのだろう。変わらず口は気に入らないが、最近の害は特にない。けれど……やはり打ち解ける気にはなれなかった。
兄さんの向かいの席に腰掛ける。少しドキドキしたが、特に拒否もされないのでそのまま居座ることにした。
「それ、何? いい匂い」
香ばしい匂いが兄の手元からだと分かり、のぞきこむと黒い液体が見えた。
「珈琲だ」
「こーひー……」
「政府からの特別配給品だ。貴重だから、たまにしか飲めない」
物欲しそうな顔をしていたのか、兄さんは笑いながら差し出してくれた。
嬉しくてすぐに受け取り、口をつけるが……。
「──にっが!」
想定外の味に思わず大きな声を出してしまう。兄さんは気分を害した様子もなく笑ったままだったので、代わりに訝しげな視線を返す。
「これ、美味しいの……?」
「俺は好きだな。お前も、ミキと同じで飲めない質(たち)らしいな」
まさしく苦い顔のまま、恨めしそうに黒い液体を見る。アイツと一緒にされるのは腹立たしいが、これに関しては兄さんの好みが理解出来なかった。
不貞腐れていると……車椅子を一人でゆっくり動かして、何やら違う容器を運んでくる。
「お前はやっぱりこっちだな」
「……牛乳! よくあったね、懐かしい!」
「カンナちゃんの差し入れだ。明日礼を言っておけ」
飲める白い液体に年甲斐もなくはしゃいでしまう。自分の分に口をつけた。
何よりも──こうして時間を共有出来ることが嬉しかった。
「……これ入れると甘くなるぞ」
そう言って、白い砂をさらさらっと僕のカップに入れる。
「甘い! なにこれ美味しい!」
「お前、絶対ミキと同じ舌だな。これはアイツのだ」
名前を聞いた瞬間、反射的にまた顔をしかめてしまう。
面白そうに、でも少し苦笑いも浮かべながら兄さんは僕を見た。僕は……カップの中を見る。
「なんで兄さんは、あんな奴と仲が良いのさ……理解出来ないよ」
甘くなった牛乳を一口飲んでから呟く。食べ物に罪はないので、これはこのまま頂くことにした。
ふっと笑うカズエ兄さん。
「そうだな……付き合いも長くなってきたし、価値観も近いしな」
「価値観? 絶対そんなことないでしょ。兄さんとアイツが同じ思想なんて考えられない、有り得ない」
「お前……そんなに頑固だったか?」
そう指摘を受けるのは何だか恥ずかしくて、少しうつ向いた。
「そうだな。あとは……肩の力を抜けるってところかもな」
「肩? それ、どんな関係なの?」
「気の置けない仲ってやつだな──お前とカンナちゃんはどうだ。そういうのとは違うのか」
突発的な質問に首を捻る。
「僕とカンナ……?」
確かに、慣れてきた最近は緊張することもなくなった。けれどやはり所々は素っ気なく、冷たく感じる。たとえ同じ近所の幼馴染だとしても、オトナシといるのとは訳が違う。
「うーん、違うと思うけど」
「……そうか」
兄さんは静かに珈琲をすすった。
まるで昔に戻ったようで──。
足をぷらぷらさせながら飲む。
──あ、足……。
「あのさ……僕の足……」
「ん? ああ、大事に使ってやってくれ」
さらりと平然のように言う様は、兄さんの気持ちを代弁しているように感じられた。
「うん……ありがとう」
それ以上、兄にとやかく言うのは止めようと思った。
「色はともかく、傷は全然分からないや……凄いね」
「お前に関しては俺だけじゃなくて、前の人形師も一緒にオペ入ったからな」
「へぇ。兄さんも器用だと思うけど、その人も凄いんだね。どんな人?」
「腕はいいが……凄まじいマザコンだな」
「え」
「……あ」
自分で言った癖にあからさまに、しまったという顔をする兄さん。僕も聞くんじゃなかったと後悔して、目線を反らした。
──お母さん、か。
「ねぇ、兄さん」
「なんだ」
「他にも……聞いていい?」
「俺が答えられる範囲ならな」
聞きたいことは沢山あったが、ひとまず思い浮かんだ姿を声に出す。
「母さんは──」
懐かしい面影……だけど輪郭はもう思い出せない。その存在が温かいものだったという覚えだけが残っていた。
カズエ兄さんは目を伏せる。一口飲んでから話し始めた。
「処刑のあと……お前を俺達に預けてから帰ってこなかった。凄い剣幕で飛び出していったから、恐らく政府へ抗議に行ったんだと思う」
「抗議?」
「あの人ならやりかねない。肝っ玉母さんって感じだったからな──でも、それっきりだ」
兄さんは悲しそうに、それでいて懐かしんだのか……珍しく少し嬉しそうにも笑った。
「……兄さんは」
「ん?」
「この世界……悲しくない?」
静寂の中、静かな口調のまま、僕等は気持ちを汲み交わす。
「──笑うことは確かに減ったな」
「そんなの……」
「だけど、嫌なことばかりじゃない。楽しいことも沢山あったさ」
あったと──全てが過去形になっているのを兄は自覚しているのだろうか。
カップを握る手を強くする。
──僕には、何が出来る。
知識を得た今になっても、気持ちは変わらない。
──大切な人達が悲しむところを見たくない。
カップの中の白い水面を見つめながら、想いを巡らせた。黙ったままの僕に気を遣ったのか、兄さんもその後は沈黙を守り……二人で静かな時間を過ごした。
「あ、僕洗うよ!」
使った食器を片付ける。兄さんは習慣で未だに地下の部屋を使っているそうなので、一人で上に戻ろうとすると──。
「センチ。俺からも……一ついいか」
背中から呼び止められて振り返る。何かと思うも、カズエ兄さんは僕ではなく……天井を見つめていた。
「アイツが──オトナシが、お前の手に執着していたのは本当だ」
兄さんから彼女の名前を切り出されるとは思いもしなく、内心はドキリと驚く。極力顔に出ないように意識して、耳を傾けた。
「……うん」
ようやく分かった、彼女から僕への過保護と執着と、世間からの隔離の正体──どんな気持ちで僕の傍に居続けてくれたのか……推し測れない。
「けれどそれだけじゃない──お前自身と恋仲になったのも事実だ。アイツはお前達と一緒にいる時は……心底穏やかな顔をしていた」
重く重く、言葉が心にのし掛かる──慰めかもしれないが、彼女と僕を想う気持ちは充分に伝わってきていた。
「──ありがとう」
「早く寝ろよ」
「うん……お休み」
扉を後ろ手に閉めて、部屋への階段を昇る。兄と二人きりで穏やかに話すなんて本当に何年振りだっただろう。
ただ、一番聞きたかった──オトナシの最期のことはとても聞けなかった。
マリオネットや当時の状況に関わった全ての人が、いかに傷付ついてきたのかを知った……味わった。
部屋に戻り、一度はベッドに腰掛けるが、そのまま上半身を後ろへ倒す。
手を空に伸ばせば──細く白く、長い指。
「この世界は、なんなの」
幼い頃は全てがキラキラして見えていたはず。誰かと遊ぶのが楽しくて、兄の真似をして走りたくて……あまり覚えてはいないけど、ただ毎日が楽しかったはず。明日はどんな一日だろうと、これから何が起こるだろうと。
「これが……その答え?」
掲げた手を握り締める。
「情けない……」
愚か。まさしく愚者だと思った。何も知らずに狭い世界で生きてきた──そうしてとうとう、こうなった。
起き上がって、覚悟を決めて……ずっと近付けなかったそれへ歩み寄る。
──カプセル。
あの日から、机の上に鞄ごと放置したままだった……蓋を開けて、震える手で、恐る恐る中のものを取り出す。
「オトナシ」
面影など微塵もない。言われなければこの中に彼女がいるなんて分からなかった。言われたところで、正直納得も出来ていない。
だけど……繋がった時に聞こえる歌声は、紛れもない彼女の証。
『レクイエム……って?』
小さなピアノの鍵盤を叩く僕に彼女が話す。最初こそは器用に足の指で弾いて教えてくれたが、最近はもっぱら伴奏に合わせて歌うばかりだった。
その日も彼女が持ってきた楽譜を奏でるが、流れる音は物悲しい。
『鎮魂歌……死んだ人を弔うための音楽だよ』
『とむらう?』
慣れない言葉に、聞き返した。
『死んでしまった人がね……次は幸せになれますようにって、送ってあげるの。魂が迷わないように』
『魂? ここにいちゃいけないの?』
『魂は、人の心。いつかは空に帰って、次の命へ繋がるの』
『オトナシもいなくなってしまう?』
『皆いつかはね──悲しみが終わることを祈って、弔うんだよ』
彼女は儚げに微笑んだ。
──悲しみが連鎖する世界。
ガラスに触れて、触れられるはずのない肌を想う。
「オトナシ……ごめんね、時間が掛かって」
人形の存在を理解し、自身のことも知れた今……やっと彼女を受け止める心積もりが出来た。ここへ至るまで時間が掛かってしまった。その間、暗い鞄の底で待たせたことを申し訳なく思う。
──誰が、犠牲になったのだろう。
中枢神経系は彼女。他の臓器や、この個体に関しては四肢の筋までつけられているそう。
彼女を始めとするこの人形を前にして、今更何が出来る訳でもない。全ては保存液と金属に遮られ、触れることすら叶わない。
「人形を嫌っていた本当の理由がやっと分かったよ……君は知っていたのに、ごめんね。腕をくれた君をそんな姿にさせてしまった」
固定された組織の中でも、悲しい思考は続くのだろうか──?
「……僕は、何がしたいだろう」
彼女は辛い想いをして、僕の傍にいてくれた。外の常識から隔離してくれたのは──諸刃の剣だ。
けれど……だからこそ、分かる。
「おかしい」
彼女が守った世界で生きてきたからこそ、これがおかしいと思える。
オトナシ達がくれた動ける体で、僕は何をなしたいのかを考えながら眠りについた──。
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