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現実
現実
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病院から家に戻ると、しばらく世間は騒がしかった。家のインターホンも頻繁に鳴り、人の影が窓によく映った。
おばあちゃんには安静をとって学校を休むように言われ、しばらく家で大人しくしている時期があった。退屈だったが友人とも連絡はとれたし、一週間もすると今までの静けさに戻っていた。やっと戻れた学校では、久方ぶりの日常を楽しんだ……遅れた授業以外は。
通学の電車の中で、時たま見える雑誌の広告。お昼のワイドショー。ネットのニュース。病院准教授が血痕残して行方不明とか、かつて家庭内暴力の噂があったとか、その妻が行方不明とか好き勝手に書いた記事。けれでも、そんな言葉よりも……認知症の患者が事件に関与か、夜間不審な二人組がコンビニの防犯カメラに……少ないながらも、私にとってはそちらの文字の方が大切だった。あの時間は夢ではないと感じるためにも、誰かのお陰でここにいると思うためにも。
過ぎていく日々の中──新しい出会いが一つあった。
「ただいまー」
学校から帰って早々に、インターホンの音が響いた。自分の部屋からでもおばあちゃんの話し声が聞こえてくる。
このところろくな来訪者はいなかった。やっと静かになってきたと思ったら、またこれだ。どうせすぐに追い返すのだろうと思っていたので……ドアの開く音に驚いた。
着替えて居間をのぞくと──祖母の前に中年の丸みを帯びた男性が座っていた。丸めた背中には哀愁と疲労感を感じた。
音に気づいたのか、男は私に振り返る。どこかくたびれた様子だが、目筋だけは鋭くしっかりしたものだった。
「もしかして、望ちゃん? 大きくなったなあ。僕のこと覚えてる?」
──知らない。
あからさまに嫌な顔をしていたのだろうか、祖母から叱責を受ける。けれども男は私に笑い掛けた。
「覚えてなくて当然だねえ、君がとても小さい時のことだから。突然すまない、ずっと気にしていたんだけど……ニュースを聞いてじっとしていられなくて。君のお母さんから実家の住所は聞いていたから」
──お母さん?
「母のお知り合いですか」
「はは、そうだねえ」
一瞬頭に過るのは、若い男と親しげに話す母の姿──母は私を捨てて、あの男と逃げたとばかり思っていたが、違うとやっと分かった。
「今でもね、君達と仲良くしなければよかったんじゃないかって……そう思ってしまう時があるんだ」
──どういうこと?
首を傾げながら、私に目線を合わせるために背を丸めてくれる。気遣いを感じて、怪訝に思ったことを申し訳なく思う。この人は優しいに違いない。
だけどそれよりも、何よりも、彼のその動作に……私はあの夢の中を思い出していた。
男は語りだす。分かり易いように丁寧に、でも簡潔に。
私と母の近所に住んでいたこと。父親の姿を見ないから母子家庭と思い、気をかけていたら親しくなったこと。母が消える少し前に家庭の事情を聞いたこと。
「君を案じて実家に預けると……その時に一緒にここの住所を教えてもらったんだ。見ず知らずの僕が突然訪ねても困るだろうと躊躇していたんだけど」
「娘から話はうかがっておりました。近所に住む好青年がこの子と遊んでくれると」
「いえ……でもそれを見られたのか……最後に聞こえた口論が今でも耳に残っているんです。それがまさか……」
「貴方が気に病むことはありません。娘を覚えていてくれて有難う」
祖母の口調はさも全てを知っているようなものだった。男は小さく頭を下げる。
「あ、そうだ。写真が残っていたんで持ってきたんだ」
そう言って男は鞄から取り出したものを机の上に置く。
「覚えていないだろうけど、僕と結婚するって言ったんだよ。お土産のくまのキーホルダーもとても気に入ってくれてねえ。いやあ、この頃は僕も若かったからねえ、今より痩せていたし」
写真に映る母の姿は、あの世界で見た姿そのままであった……片目に眼帯をしている以外は。
そして私と手を繋いでいるのは、今の姿からは想像できない容姿で──細身の、すらりとした青年だった。
背丈や、雰囲気、少し丸まったその猫背はまるで──。
おばあちゃんには安静をとって学校を休むように言われ、しばらく家で大人しくしている時期があった。退屈だったが友人とも連絡はとれたし、一週間もすると今までの静けさに戻っていた。やっと戻れた学校では、久方ぶりの日常を楽しんだ……遅れた授業以外は。
通学の電車の中で、時たま見える雑誌の広告。お昼のワイドショー。ネットのニュース。病院准教授が血痕残して行方不明とか、かつて家庭内暴力の噂があったとか、その妻が行方不明とか好き勝手に書いた記事。けれでも、そんな言葉よりも……認知症の患者が事件に関与か、夜間不審な二人組がコンビニの防犯カメラに……少ないながらも、私にとってはそちらの文字の方が大切だった。あの時間は夢ではないと感じるためにも、誰かのお陰でここにいると思うためにも。
過ぎていく日々の中──新しい出会いが一つあった。
「ただいまー」
学校から帰って早々に、インターホンの音が響いた。自分の部屋からでもおばあちゃんの話し声が聞こえてくる。
このところろくな来訪者はいなかった。やっと静かになってきたと思ったら、またこれだ。どうせすぐに追い返すのだろうと思っていたので……ドアの開く音に驚いた。
着替えて居間をのぞくと──祖母の前に中年の丸みを帯びた男性が座っていた。丸めた背中には哀愁と疲労感を感じた。
音に気づいたのか、男は私に振り返る。どこかくたびれた様子だが、目筋だけは鋭くしっかりしたものだった。
「もしかして、望ちゃん? 大きくなったなあ。僕のこと覚えてる?」
──知らない。
あからさまに嫌な顔をしていたのだろうか、祖母から叱責を受ける。けれども男は私に笑い掛けた。
「覚えてなくて当然だねえ、君がとても小さい時のことだから。突然すまない、ずっと気にしていたんだけど……ニュースを聞いてじっとしていられなくて。君のお母さんから実家の住所は聞いていたから」
──お母さん?
「母のお知り合いですか」
「はは、そうだねえ」
一瞬頭に過るのは、若い男と親しげに話す母の姿──母は私を捨てて、あの男と逃げたとばかり思っていたが、違うとやっと分かった。
「今でもね、君達と仲良くしなければよかったんじゃないかって……そう思ってしまう時があるんだ」
──どういうこと?
首を傾げながら、私に目線を合わせるために背を丸めてくれる。気遣いを感じて、怪訝に思ったことを申し訳なく思う。この人は優しいに違いない。
だけどそれよりも、何よりも、彼のその動作に……私はあの夢の中を思い出していた。
男は語りだす。分かり易いように丁寧に、でも簡潔に。
私と母の近所に住んでいたこと。父親の姿を見ないから母子家庭と思い、気をかけていたら親しくなったこと。母が消える少し前に家庭の事情を聞いたこと。
「君を案じて実家に預けると……その時に一緒にここの住所を教えてもらったんだ。見ず知らずの僕が突然訪ねても困るだろうと躊躇していたんだけど」
「娘から話はうかがっておりました。近所に住む好青年がこの子と遊んでくれると」
「いえ……でもそれを見られたのか……最後に聞こえた口論が今でも耳に残っているんです。それがまさか……」
「貴方が気に病むことはありません。娘を覚えていてくれて有難う」
祖母の口調はさも全てを知っているようなものだった。男は小さく頭を下げる。
「あ、そうだ。写真が残っていたんで持ってきたんだ」
そう言って男は鞄から取り出したものを机の上に置く。
「覚えていないだろうけど、僕と結婚するって言ったんだよ。お土産のくまのキーホルダーもとても気に入ってくれてねえ。いやあ、この頃は僕も若かったからねえ、今より痩せていたし」
写真に映る母の姿は、あの世界で見た姿そのままであった……片目に眼帯をしている以外は。
そして私と手を繋いでいるのは、今の姿からは想像できない容姿で──細身の、すらりとした青年だった。
背丈や、雰囲気、少し丸まったその猫背はまるで──。
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