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1章 暗く仄かな風の匂い

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 先程の彼は意外にもすぐそこにいた。二階は傭兵達の宿泊施設なのだろうか。壁には扉が並んでおり、彼はその廊下の窓を開けて煙草を燻らせていた。

「何度頼まれても引き受けんぞ」

 こちらを向きもせず、彼は窓の向こうの朝焼けを見つめている。それなら、とジストは一歩彼に近づいた。

「私に青の国までの道のりを教えてくれないか?」
「青の国?」

 そこでようやく彼はこちらを見る。

「あぁ、そうだ。聞けば、君はそろそろ青の国に渡るそうだな? となれば、行き方を知っているはずだ。私はどうしても、今すぐカレイドヴルフに向かわなくてはならない。だが、夜通し歩いてようやく辿り着けたのはここまで。ましてや、自国の領地を抜けて隣国へ至るなど、一筋縄ではいかないだろう。せめて行き方だけでも教えてはもらえないだろうか?」
「王子やろ? 城の馬でも何でも使えばいい。なんでわざわざ」
「もう城を頼る事はできない。……ミストルテイン城は、落ちた。私は今、たった一人なのだ」
「落ちた? あの王都が? 聞いてへんぞ。それに、今日は生誕祭って……――」
「その主役が、ここにいるのだ。事情は察してくれたまえ」

 男はしばらくじっとジストを見つめていた。次の言葉を探すように再び窓の向こうを見つめる男は、また一口の煙を吸う。

「カレイドヴルフ、な……。あそこへ行くんなら、この街の南門から出て湿原を通り抜ける必要がある。死ぬで、ホンマ。冗談抜きに」
「湿原?」
「あそこは魔物の巣みたいなもんや。素人が乗り込んだらすぐに食われる。前は馬車が通れる林道があったんやけど、雨期の雨で土砂崩れが起きて使い物にならん」
「君は本当に詳しいのだな……」
「遠出する傭兵の常識やて」

 で、と彼は続ける。

「お前、その腰に下げとるご立派な剣は使えるんか?」
「う、うむ……。一応、城の流儀は物にしている、が……」
「斬った事はない、と」

 お見通しとばかりに言い当てられた不服で、ジストは思わず噛み付くように身を乗り出す。

「素人ではないつもりだ! すぐに死ぬ事はない!」
「そうやって調子乗る馬鹿が死ぬんやけどね」
「ば、馬鹿……だと……」

 むっとしたジストは、ついに右手の拳を男の前に突き出した。

「先程から黙って聞いていれば、坊主だの馬鹿だの、好き放題言ってくれるな! 私は王族、この緑の国を治めるアクイラ家の嫡子だぞ?! 見よ、これがその証だ!」

 彼女の右手に光る王家の指輪。――目の前の男の目が見開いた。

「それ……っ!」

 思わぬ反応に、あれ?と拍子抜けする。

「今更そんなに驚くのか? ほほう、さては、ようやく私の高貴な出自を認め……――」
「アホ! その指輪を軽々しく見せんなや!!」

 予想外の返しに目を白黒させる。

「どういう意味だ?」
「そのまんまの意味や。王子なら、そいつを見せびらかす意味もわかるやろ?」
「何かいけないのか? この指輪が私の身分を証明するからか?」
「……ほんまに、何も知らんで見せたのか。あーあ……」

 男は脱力したように目を細めると、また一服、煙草を口にする。

「その指輪……。これまで誰に見せてきた?」
「誰、と言われても……。この街の門にいた兵士と、ロシェと、君だけだ」
「そうか。……節介焼くのは性に合わんけど、言っとく。その指輪、今後は気軽に他人に見せんな。王家の指輪やろ、それ? 目にする奴が増えれば増えるほど、そいつは危機に晒される。そして、知らんかったとはいえワイにそれを見せたお前は、こっちの予定を狂わせた」

 男は深々と、窓の向こうに煙を吐き出した。

「つまり、その指輪を見てもうた以上、ワイはヘタを打てなくなった。もしその指輪に何かあれば、真っ先に疑われるのはその指輪を見た事のある連中。ここでお前をほったらかしてもしもの事があれば、面倒な事になるってわけや。高くつくでぇ」
「き、君、まさか……」
「……不本意やけど、しゃーない。えぇよ。特別に、後払いで、護衛の話……乗ったる。法外な金額を吹っかけたるからな、覚悟せぇよ」
「ありがとう!!」

 ジストは手放しで大喜びだ。男の手をひったくり、硬い握手で握りしめた手を何度も上下に振る。

「しかし、君は傭兵だろう? 王家の指輪について知っているとは、一体」
「そいつは聞くな。……反吐が出る」

 彼の顔色が変わる。深く詮索してはいけないようだ。慌てて話題をすり替える。

「君の名はメノウだと聞いた。私は先の通り、この国の王子であるジストだ。宜しく頼む。それと……これから行動を共にする君にだけは、伝えておこう」
「まだなんかあるんか」

 ジストは廊下に人がいない事を確認すると、背伸びをして目の前の彼に耳打ちした。

「私は、実は女性なのだ」
「お、女……?」

 煙草の先から灰の塊がポロリと落ちる。

「だから、先程の呼び名は訂正してもらおうか? 18の娘に『坊主』はないだろう?」
「自分で言うか、それ?」

 はっはっは、とジストは笑った。
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