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第二部・一章 人界の真実
第七話
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二本の細い指を立てた創世神は、決意が固まったように頷き、ゆっくりと口を開いた。
「あなたの言う通り、人界の民は皆、私や騎士たちが制定した禁書目録を遵守してくれていた」
「それは……喜ばしいことじゃないんですか?」
カズヤの言葉に、創世神は皮肉そうな笑みを浮かべて答えた。
「確かに、人界の秩序と民の幸せを願う私からすれば喜ばしい結果ではある……でも、それは完璧とは程遠い、ユートピアとは真逆の社会を形成する悪しき法だったのよ」
「……どうゆうことですか」
「話は大きく変わるけど、それでも構わない?」
創世神の言葉に、無言で肯定する。
「元々私は、禁書目録なんて法を制定する気なんて全くなかった。人界の民は、そんな法など不要なほどに、奉仕の精神を遵守し、他者を尊敬していたから」
机のカップを見詰める創世神の顔には、過去を懐かしむように、または悲しむような悲愁感に満ち満ちていた。
「ですが、私はそんな彼等の精神を大きく歪ませてしまうものを与えてしまった」
「……力、ですか」
俺の回答に、躊躇いながら肯定した。
「防衛のために与えた力でありましたが、強大な力は人の精神を悪へと歪めてしまうものでした。事実人界は一度、同志である仲間たちを下に扱い、過酷な重労働を与え、自らは惰眠を貪るような真似事ばかりを繰り返していた」
創世神の話を聞いているうちに、自分の胸が痛むことに気付いた。
彼女の言っていることは正しい。過去の俺自身も、力を得たことで自らの技量と実力を過信し、暗黒騎士に挑んでいる。強過ぎる力を得てしまうと、それは間違った自信へと繋がってしまい、平気で他者を下に見るようになってしまう。
「だから私は、民に与えた力を剥奪するために、騎士という存在を作り上げたのです」
「作り上げた……? 召喚の間違いじゃないのか」
創世神の台詞を指摘するも、一切気にする様子もなく続けた。
「私欲を肥やす存在に対して、他者の幸せを願う優しさを持ち合わせた人間こそが、真に力を得るべき存在だと、私は決断しました」
彼女の決断は、確かに正解ではある。誰かのために戦う人間、自らの欲望を満たすためだけに他者を利用する人間、どちらに力を与えるべきかなど一目瞭然だ。
しかしその決断には、一つだけ欠点がある。それは無論、創世神自らも気付いているはずだ。
こちらの考えを察したのか、彼女は両眼に後悔を滲ませながら、淡々と言った。
「優しく清き魂を持つ者ならば、正しい力の使い方をしてくれると信じ、騎士として絶対的な力を与えました。しかしその選択も間違いでした……だって、彼等もまた……」
言葉を途切れさせた創世神に変わって、俺が言葉を続けた。
「私欲を肥やす存在と同じ、善と悪を持ち合わせた人間。例え優しさを強く持っていても、強大な力を与えてしまえば考えが変わってしまう」
「……はい。あなたの言う通りです」
「結論を言ってしまえば、無理なんです。全ての人間は善と悪の両方を兼ね備えた生き物で、全員が全員、力に溺れずに自らの善なる意思を貫き通すのは」
自分の口から出た達者な台詞が図星だったのか、創世神は押し黙ってしまい、何の反論してこなかった。
人界の民は、俺のいた世界の人間と比べれば立派な人間ではある。だがいくら立派であろうが、人間という概念なのは変わりない。二つの感性を持つ生物である以上、どちらにも傾かずに真なる意思を貫くのは不可能なのだ。
それを出来る人間は、過去を捨て去り、決して折れることのない意思を宿した人格を持っていなければならない。
そしてそれこそが、創世神自身が作り出した存在。
「……だからあなたは、天界の騎士を作り上げたのか」
遅かれ気付いた真実に驚愕しながら、俺は恐れ多くも続けた。
「あなたは、優しい精神を持つ民を人界内から選抜し、精神だけを残した人格除去と記憶改変を施した。過去の記憶を無くし、全く別の人格を体に埋め込み、他者への優しさを持ち合わせた都合の良い騎士を作り上げ、人界内に蔓延る害虫を駆除していった……それが、天界の騎士という架空の存在が出来上がった軌跡……というわけだな」
過去の憶測と得られた情報によって導いた結論を述べると、彼女は無言で頷いた。
誰かを救いたい感情、誰かに迷惑を掛けてしまう感情。善なる行動を阻害する余計な感情を除去してしまえば、騎士となった民は一切の迷いも葛藤もなく、正しいと思う感情に従って行動することが出来る。後悔や苦慮などにも苦しむことなく、自分が信じる善だけが正義と信じて。
しかしそれは最早、人間と呼べる生き物なのか?
二つの感性に揺れ動く存在であり、優柔不断な生き物ではあるが、それが人間の良いところとも捉えられる。間違った行為を悔い改めることも、失敗から学ぶことが出来るからこそ、人間は強くなっていくというのに、それすら捨て去ってしまった存在は人間とは呼べない。
精神の揺らぎがあるからこそ、人は精神的に成長し、鋼の意志を得ることが出来る。だが、全てを捨て去り間違いを悔い改めない存在は一つも成長することが出来ない。強くなったと思い込むだけで、本当は一歩も前に進めていないのだ。
過去の記憶を消すことも、自らが同じ民を殺めてしまう思いをさせないための、自らが人界ではなく天界から生まれた存在であると思い込ませ、創世神に対して忠誠を誓い易くさせるための巧妙な罠だということになる。
もし今の考えが正しいのだとしたら、創世神は決して神として行ってはいけない禁忌に手を染めたことになる。
いくら神とはいえ、何人もの及ばぬ力の持ち主だとしても──。
そこに暮らす人々の思い出を、大切な記憶を奪っていい理由にはならない。
如何なる理由があろうと、民を導く存在である神が、民の過去や記憶を都合良く改変することは、決して許される所業ではない。
騎士にされた人々にだって、家族や友人、大切な人が絶対に存在する。その繋がりである記憶を奪い、違う人格と記憶を埋め込むなど。それでは、残された人があまりにも浮かばれないではないか。
だがそれは、本人も承知のこと。自分がしている罪の重さを痛感していながら、過ちを繰り返し行なっている。きっと、それだけの理由と使命があるに違いない。
いや、無ければ困る。もし無かった場合、胸中を掻き乱す怒りが爆発してしまいそうだから。
「あなたの結論は正解よ。私は、特定の人物を選抜し、記憶と人格を抜き取り、別の人格を植え付けた。そのお陰で、騎士となった民はなんの躊躇いもなく、剣を振るうようになった」
「そして、二度と人界内で差別が起きないように、禁書目録なる厳格な法を制定したと」
「そうです。ですがこの法が意味することは、力の剥奪でもあったのです」
「力の剥奪……?」
新たに出てきた議題に首を傾げながら、カップ内に溜まった黒い液体を口に含む。渋みに顔をしかめながら、喉へと流し込んでいく。複雑な思考を繰り返した脳を一度リセットし、言葉の意味を考える。
禁書目録は確かに、武器を持つことを禁ずる項目が多く存在した。特定の職を持つ者以外はまず木剣すら持つことを禁ずるほど、力に関連する項目が多かった。
だがそれだけで力の剥奪というのは言い過ぎな気もする。一部からは奪えたが、衛士や守護隊などの職を持つ者からは奪えずにいる。
「以前の人界は、学園を卒業すればすぐに衛士になれた時代ですが、今は難題な試練をいくつも通過することで衛士になれます。それは、何万もの人間が衛士になれずに剣を捨てることを意味します」
「……成る程。大体理解したよ」
大雑把ではあるが、言わんとしてることは理解出来た。
つまり現状では、人界は過去ほど力に有り余っている状態ではないということになる。過去では他者を虐げるほど力に溢れていたが、今では村や街の自衛目的のためだけに与えられた最低限の力しか持たない衛士は、他者を虐げるだけの力は備わっていない。
衛士という職になれるのを限定しているのは、衛士が増えてしまえば、力を得た人間が増えてしまい、過去の災いが再来してしまう恐れがあるから。その事態を未然に防ぐために、衛士への道を敢えて過酷なものにしたのか。
「あなたは理解が早くて助かります。その甲斐あって、話が円滑に進みますよ」
「下らないお世辞はいいので、話を続けてください」
こんな綺麗なお姉さんに褒められれば嬉しくて気持ちが舞い上がるのだが、今だけはそんな悠長な気分に浸ることが出来ない。
創世神と会談してから早くも三十分経っているが、いつの間にか話の流れが相手側で一方的に流れている。いつしか論点をすり替えられてしまい、転移理由から大幅に逸れている。
だが、ここからの軌道修正はあまり望めない。彼女自身、話が逸れることは事前に告知しているし、俺自身が考えずにはいられなかった。人界の真実……世界の真実についてを。
「限定的な人間のみが力を持つ時代。絶対の法と強大な力を持つ存在による秩序の維持。多くの苦難を乗り越えて得たのが、現状の仮初の平和です」
「仮初……? 今の人界は、あなたが望んだ本当の平和じゃないんですか?」
「……そもそも、何故人界の民は力を得たのでしょうか」
「それは、分断の壁を横断してきた魔界の民に対抗するため、ですよね?」
人界内での文化発展に大きく貢献した大戦によって、人族と獣人族は同じ領土に住むにも関わらず敵対し、多くの人族は同族の汚れた欲望によって衰弱死していった。言い換えれば、大戦が起きたことで、人界は狂ったと言ってもいい。
「しかし、大戦は無事人界が勝利して終わりました。その後は苦難の連続でしたが、大戦中はなんら問題なかった……」
「いえ、問題はあります」
こちらの言葉を遮るように、静かに告げた。
「大戦が起きたこと自体が、大きな問題なのです」
「大戦自体が……そりゃ、大戦で多くの民は亡くなりはしましたね。それでも……」
大戦で得た人界の被害は酷いものではあったが、やはりその後に立て続けに起きた内部崩壊の方が痛手を負ったと感じられる。内部崩壊のきっかけを作り出した大戦は問題ではあるが、それが今の仮初なる平和となんの関係があるのだろうか。
「あの大戦に勝利した後、私は二度と魔界の民が人界に侵入出来ないように、分断の壁を再構築しました。にも関わらず、近年では、分断の壁を横断した魔界の民の目撃情報が相次いでいます」
そうだ。言われてみれば、おかしい。
創世神が二度と横断出来ないと自負している壁を越えて人界に侵入している民を、俺は何度も目にしている。目にするだけじゃなく、実際に剣を交えてもいる。
その時俺は、背筋を走る凍える悪寒を鮮明に感じた。
「……覚悟は出来てる?」
不意の問いに、
「出来てます」
率直に、短く答える。
ここまで知って、今更真実から目を背けるわけにはいかない。最早退けない領域にまで入り込んだのだから、隠蔽されたじんかいの歴史を最後まで知ってみせる。
そんな決意を感じ取ったのか、創世神は唇をほんの微かに緩めてから、すぐに引き締めた。そして、衝撃的な言葉を、口にした。
「あなたに習って、結論から言わせてもらうわ。近い将来、過去の大戦を上回るほどの大戦が再来するわ」
創世神が告げた言葉に、俺は鋭く息を呑んだ。それほどまでに、彼女が宣言した言葉が信じられなかった。
まだ自衛手段が万全ではなかった人界にとって、殺戮のためだけに進化した闇魔術と、邪教神によって闘争本能を植え付けられた魔界の民は、恐怖以外の何者でもなかった。
対抗手段を持たない民は次々と虐殺されていき、女性などの民は何万と魔界へと拉致されてしまい、様々な実験の被験体として無残な死を迎えた。
人界を歪めた発端でもあり、同時に恐怖を人界全土に植え付けた古の大戦であったが、創世神が与えた強大な力によって、侵攻してきた魔界の民を魔界へと押し退けることに成功し、分断の壁を二度と横断出来ないように再構築することで、大戦は終了した。
修復困難な傷跡を人界に残して終結した大戦だというのに、創世神はそれすらも上回る大戦が、近い将来に起きると言った。
そんな馬鹿げた話があるわけがない。すぐに否定しようとしたが、言葉が喉に詰まり発言することが出来なかった。
落ち着いて考え直せば……いいや違う。落ち着く必要がないほどに、心当たりが存在するために、否定することが出来ずにいた。
人界と魔界を隔てる分断の壁。過去の大戦時に大破したことで二度と横断・破壊されないために再構築されたにも関わらず、近年人界内部での魔界の民の目撃情報が少なからず報告されている。
壁から遠い人界の中心部ではあまり知られていないが、最果ての集落では時折、緑色の小人の目撃情報が相次いでいる。
コドールの村でも、過去に何人もの村人が緑色の小人を目撃したとの報告があった。それに、早朝から森へと向かったペックとセレナは、そのゴブリン部隊に襲われてしまい、セレナは一度拉致されている。
ゴブリン隊長を辛うじて仕留め、駆けつけた騎士カムイのお陰で、無事セレナは拉致されずに救出することは出来た。
再構築されてから何百年もの間、一歩たりとも人界への侵入を許さなかったはずなのに、何故ゴブリンは侵入出来たのか、当時は深く考えないようにしていた。単に壁に綻びが出ていたのかもしれないし、ゴブリンが地中に穴を掘ってでもしたのだろうと、自分の中で納得のいくような説を言い聞かせていた。
しかし、そうも言っていられないほど、事態は深刻であることを我が身を持って痛感した。
闇魔術によって誕生した恐れのあるマガツヒと、邪教神の下僕と名乗る暗黒騎士の奇襲。アースリアに壊滅的な損害を与えた暗黒騎士は、魔界への偵察任務から急遽迎撃のために向かった騎士カムイの手によって退けることが出来た。
亜人などの、飛翔の術を持たない低脳生物ならば、偶然の侵入などで納得せざるを得ない。だが高度な知能を持つ騎士ともなれば、事態の深刻さを受け入れる他ない。
そう。何百年もの月日の中で、分断の壁が崩壊している恐れがある。もしくは、魔界の民が壁を破壊する手段を持っている可能性もあり得る。最悪、どちらともある可能性すら……。
奴等とて、長い月日を無駄に過ごしていたわけでもない。大戦時の敗退から学んだ屈辱を知性に変え、闇魔術に更なる磨きをかけていてもなんらおかしくない。知性を得た存在が一個の軍を作り上げ、戦術を知り、統率の行き届いた完璧なる小隊が出来上がっているのは、数多く魔界の民と接触したカズヤは既に知っている。
ゴブリン小隊もだが、牢から脱獄した矢先に出会った、デーモン部隊副隊長を務めるザルザードの存在が、その仮説を決定打にした。
人界は大戦以降、醜い内部争いを繰り広げている間に、魔界では密かに牙を研いでいたことになる。今度こそ確実に、人界の領地を略奪するために。
過去の大戦では、魔界軍の方は統率など全く取れていない野蛮な連中であった。個の力が凄まじい故に、『眼前の敵を殺す』ことだけに執着しているため、作戦など考える必要がなかった。──単に作戦を立てるだけの知性がない恐れもあるが。
だがもし、元々の凶暴性に知性で得た戦術が加わり、連携の取れた軍隊に侵攻されてしまえば、その被害は確かに過去の大戦を簡単に凌駕してしまう。
長い時間を文化発展ではなく、仮初なる平和のために費やした人界と、次こそ全てを奪い取ろうと力を蓄えた魔界では、退けるのは困難を極めるだろう。
俺はそこで一度考察を中断し、創世神に尋ねた。
「……何故、大戦が再来すると言えるんですか」
まだ確実に決まった未来ではないため、あの発言が単なる創世神が恐れる一つの未来図であることを、必死に願った。
しかし、そんな都合の良い未来を期待している自分を蹴落とすかのように、非常なる現実が襲い掛かってくる。
「まず、人界内部への侵入の件。これが第一要素です」
やはり、先程の推測でも挙げられた侵入は、深く関わっていた。これは最初の段階で予想出来ていたため、それほどの衝撃は受けなかった。
衝撃を受けたのは、次なる要素であった。
「次に騎士の報告によると、魔界側での戦力増強が確認されています」
「戦力の増強……? それは、具体的にどれくらいなのですか」
「……五年ほど前、魔界への偵察任務へ赴いた騎士が、瀕死の深傷を負って帰還しました」
「な……!?」
あまりにも信じ難い真実に、思わず絶句した。
無敵に等しい騎士が、偵察任務の最中に瀕死の深手を負うなんて、とてもじゃないが信じられない。だが、やはりこの真実にも、信用するだけの情報はある。
ザルザードの不意打ち。若輩の騎士ではあるが、全く存在を認知できないほどの気配抹消術に死角からの一撃、何より接近戦が不向きなデーモンとは思えない戦闘力。それを見誤ったばかりに、俺は深手を負った。
奴等の力は侮れないほどに強くなっている。亜人であるゴブリンですら、死ぬ恐れがあったのだから。
洞窟内で感じた死の恐怖が鮮明に蘇り、身を震わせる。圧倒的な絶望に屈し、絶望のどん底に陥った感覚は、時間が解決してくれることもなく、時折思い出してしまう。教会にいる時は、セレナが側でずっと励ましたりしてくれたし、事情を知っているサヤも、震えが止まるまで側にいてくれた。
震える右手を左手で覆いながら、恐怖を押し出すように声を出した。
「な……何故騎士は、そんな傷を負ったのですか」
こちらの問いかけに、創世神は数秒間の沈黙の後に答えた。
「…………暗黒騎士です」
「暗黒騎士……邪教神の下僕を名乗っている存在ですか」
アースリアでの戦闘を思い返しながら呟く。
あの時に戦った騎士は凄まじく強かったが、騎士に深手を負わせるほど強いとは思わなかった。逆に、自分が生き残れたこと自体に疑問を持ってしまう。
「その騎士の話によると、暗黒騎士は多数の闇魔術を同時展開した戦法で追い込んできたらしいの」
「……それは、とても厄介ですね。知性と力を持っている敵ほど、迷惑な存在はいませんからね」
「そう。ましてやこれは、今や魔界に複数存在していることになる。それが一斉に侵攻を開始したら、人界は敗北してしまい、多くの民が苦しみながら死んでしまう」
両の拳をきつく握り締めながら言う創世神の顔には、屈辱の色が滲み出ている。そんな顔を見詰めながら、俺は思っていたことを意見した。
「危惧してる暇があるなら、人界全土に現状を報告して、少しでも対抗出来るように鍛え上げれば良いじゃないですか」
「……本来なら、今すぐにでもそうしたい。でも出来ないのよ」
何故だ? 人界に暮らす人々は創世神を心の底から敬愛し、尊敬している。与えられた法を遵守するほどに。
そこでカズヤは、創世神の発言の出所について見当がついた。
「……禁書目録が、それを阻害しているんですね」
その答えに、創世神は無言で頷き肯定した。
禁書目録には、武器を持つことさえ禁ずる項目がある。それを破れば問答無用で監獄送り。決して法を破ってはいけないという考えが定着してしまった民に、いきなり剣を持って戦えと言って素直に従うわけがない。例え騎士が呼びかけようが、創世神を慕う彼等が代行者である騎士の言葉に従うとは到底思えない。
民の秩序を得るために定めた法によって自衛する力を奪い、得ること自体を禁じ、一部の者にのみ力を与えた結果、そこに暮らす者全てが平等に力を蓄える環境下に置かれた者たちに一方的に蹂躙される。
正しいと思って取った行動が取り返しのつかない事態に陥ってしまうとは皮肉なものだ。しかしならば、事態の解決は意外にも簡単なものなのではないのか。
その意見を、なんの躊躇いもなく提案した。
「禁書目録を撤廃し、自主性の徴兵令を出しましょう」
俺の提案に、創世神は信じられない話を聞いたかのように愕然とした。
気持ちは解らなくもない。定められた法を突然撤廃し、己の意思で剣を取れと言われても戸惑うに決まっている。
それに、自らの意思とはいえ剣を持つということは、殺す覚悟と殺される覚悟を持つことになる。それがどれだけ民を苦しめるかなど、俺でも容易に想像出来る。
そんな提案を、民を愛する創世神が承諾するはずもなく、有無を言わさずに否定してきた。
「ふざけないで下さい! 禁書目録は確かに、民から力を奪いました! ですが、それは人界内での内部崩壊を防ぐためにした緊急措置でもあります! 長い間定着していた法を撤廃すれば、長い時間を費やして溜まった欲望が一気に解放され、外敵の侵攻を待たずして内部から崩壊してしまいます! あなたはそれでもいいのですか!」
「だがそれ以外で、人界が生き残る術はない!」
「…………!?」
「このまま何の力も蓄えずに禁書目録に縛られたまま生きていけば、外部からの進軍で滅びゆく! その未来が実現されれば、多くの民は死んだ方がマシな実験の被験者にされてしまう! あんたはそれでも良いのか!」
「……それは」
「今ならまだ間に合うかもしれない……禁書目録を撤廃し、自主性の徴兵令を提示するんだ。突然の出来事で混乱はするだろうが、人界を愛する者は必ずいる。その人達を起点に、きっと多くの人達が人界のために動いてくれるはず。その人達を騎士達が指導していけば、それなりの戦力増強が望める。それが、現状で人界が唯一生存出来る可能性がある選択肢だ」
長々とした説明を終えると、創世神は長い苦慮の果てに答えを導いたのか、苦渋の決断を下した。
「…………分かりました。あなたの提案を…………受け入れ……ます」
「……懸命な判断だと、俺は思います」
人界の民を愛する心を利用してしまったが、民が苦しんで死ぬ姿を見たくない創世神は、俺の提案を飲む以外に選択肢はないと判断した。自分の考えは相手の性格を分析して導いた、絶対に承諾せざるを得ない選択肢を強制的に選ばせた卑怯な行為である。
だが、創世神に対してはそれほど罪悪感は感じなかった。
過去の記憶を奪い去り、偽りの人格を植え込むような真似を、これ以上繰り返してはならない。
人界の民は本心から彼女を慕うので有れば、きっとその思いに応えてくれる。彼女が今まで培ってきた信頼は決して無駄ではないに決まっている。
俺は言葉にはしなかったが、慈愛精神に従順でそこに暮らす人々を本気で思っている、真なる支配者に敬意を表した。
「創世神。俺も出来る限り協力します。提案したのは俺ですし、ある女の子との約束のためにも、まだ人界を滅ぼさせるわけにはいきません」
「……ありがとう。違う世界で生きてきたあなたが、私達の世界のために戦ってくれるなんて、とても嬉しいわ」
「お礼なんて良いです。人界は俺にとって、守るべき場所ですから」
旅をして、世界をこの目で見てから、いつのまにか人界という世界そのものを好きになってしまっていた。好きな世界が滅亡する恐れがあるならば、俺は迷わずに剣を握る。人界に生きる人々を守るために、皆が平等に笑い、未来を自由に選べる世界のために。
話がひと段落ついたところで、俺は創世神に原点の話を振った。
「それで、俺が転移した理由、教えてくれませんか?」
「そうだったわね。いつの間にか、話が大きく逸れてしまってたから、忘れてたわ」
あなたが変えたんでしょ、と内心でツッコミながら、俺は自分が知りたい真実を待ち続けた。
「あなたを転移させた理由、それはあなたが、私が求める人物像としての条件を満たしているからなの」
「創世神自身が求める、条件を満たしているから?」
「来たるべき大戦の時に、人々を率先して導く者が必要と判断した私は、並行世界である地球から、死する運命の者を転移させるようにした。その方が色々と都合が良いからね」
並行世界などという単語に関しては興味はなかった。そんなことを考えていたら話が一向に進む気がしないので、その辺はおいおい聞いていこう。
「転移対象は学生、精神が完全に発達していない者に厳選した。もし成人を転移させれば、人界に害を成す可能性があったから」
まぁ、過酷な社会生活から解放された大人が、法に縛られない世界に迷い込んだら大変なことを仕出かす気がする。
「第一転移者である男性は、事故時と転移時のショックで記憶喪失になってしまい、第二の転移者は、興味本位で魔界に侵入してしまい、デーモンに儀式の生贄とされてしまった。記憶喪失に耐えうる意志と精神力、自己の欲望を抑えることの出来る者を厳選した結果、あなたが選ばれた」
「……何故に俺?」
創世神に過大評価されているのは嬉しいが、自分にそれほどの才能があるとはいかんせん信じ難い話ではある。異世界に転移してから精神や意志に変化は起きたかもしれないが、転移時初期の時点ではそれほど強いとは思えなかった。
俺は、ようやく知ることが出来た真実にそっと胸を撫で下ろす。
長い間解明しなかった謎が解けたことで、心に少しだけ余裕が生まれた。帰還方法とかを聞きたいが、それはやるべきことが全て済んだ後でも遅くはない。
しばらく元の世界のことは忘れよう……今から俺は、もう一つの世界である人界を守ることにだけ集中する。それが、水樹和也という名を捨て、カズヤとして生きた俺自身の、最後の目標だ。
「あなたの言う通り、人界の民は皆、私や騎士たちが制定した禁書目録を遵守してくれていた」
「それは……喜ばしいことじゃないんですか?」
カズヤの言葉に、創世神は皮肉そうな笑みを浮かべて答えた。
「確かに、人界の秩序と民の幸せを願う私からすれば喜ばしい結果ではある……でも、それは完璧とは程遠い、ユートピアとは真逆の社会を形成する悪しき法だったのよ」
「……どうゆうことですか」
「話は大きく変わるけど、それでも構わない?」
創世神の言葉に、無言で肯定する。
「元々私は、禁書目録なんて法を制定する気なんて全くなかった。人界の民は、そんな法など不要なほどに、奉仕の精神を遵守し、他者を尊敬していたから」
机のカップを見詰める創世神の顔には、過去を懐かしむように、または悲しむような悲愁感に満ち満ちていた。
「ですが、私はそんな彼等の精神を大きく歪ませてしまうものを与えてしまった」
「……力、ですか」
俺の回答に、躊躇いながら肯定した。
「防衛のために与えた力でありましたが、強大な力は人の精神を悪へと歪めてしまうものでした。事実人界は一度、同志である仲間たちを下に扱い、過酷な重労働を与え、自らは惰眠を貪るような真似事ばかりを繰り返していた」
創世神の話を聞いているうちに、自分の胸が痛むことに気付いた。
彼女の言っていることは正しい。過去の俺自身も、力を得たことで自らの技量と実力を過信し、暗黒騎士に挑んでいる。強過ぎる力を得てしまうと、それは間違った自信へと繋がってしまい、平気で他者を下に見るようになってしまう。
「だから私は、民に与えた力を剥奪するために、騎士という存在を作り上げたのです」
「作り上げた……? 召喚の間違いじゃないのか」
創世神の台詞を指摘するも、一切気にする様子もなく続けた。
「私欲を肥やす存在に対して、他者の幸せを願う優しさを持ち合わせた人間こそが、真に力を得るべき存在だと、私は決断しました」
彼女の決断は、確かに正解ではある。誰かのために戦う人間、自らの欲望を満たすためだけに他者を利用する人間、どちらに力を与えるべきかなど一目瞭然だ。
しかしその決断には、一つだけ欠点がある。それは無論、創世神自らも気付いているはずだ。
こちらの考えを察したのか、彼女は両眼に後悔を滲ませながら、淡々と言った。
「優しく清き魂を持つ者ならば、正しい力の使い方をしてくれると信じ、騎士として絶対的な力を与えました。しかしその選択も間違いでした……だって、彼等もまた……」
言葉を途切れさせた創世神に変わって、俺が言葉を続けた。
「私欲を肥やす存在と同じ、善と悪を持ち合わせた人間。例え優しさを強く持っていても、強大な力を与えてしまえば考えが変わってしまう」
「……はい。あなたの言う通りです」
「結論を言ってしまえば、無理なんです。全ての人間は善と悪の両方を兼ね備えた生き物で、全員が全員、力に溺れずに自らの善なる意思を貫き通すのは」
自分の口から出た達者な台詞が図星だったのか、創世神は押し黙ってしまい、何の反論してこなかった。
人界の民は、俺のいた世界の人間と比べれば立派な人間ではある。だがいくら立派であろうが、人間という概念なのは変わりない。二つの感性を持つ生物である以上、どちらにも傾かずに真なる意思を貫くのは不可能なのだ。
それを出来る人間は、過去を捨て去り、決して折れることのない意思を宿した人格を持っていなければならない。
そしてそれこそが、創世神自身が作り出した存在。
「……だからあなたは、天界の騎士を作り上げたのか」
遅かれ気付いた真実に驚愕しながら、俺は恐れ多くも続けた。
「あなたは、優しい精神を持つ民を人界内から選抜し、精神だけを残した人格除去と記憶改変を施した。過去の記憶を無くし、全く別の人格を体に埋め込み、他者への優しさを持ち合わせた都合の良い騎士を作り上げ、人界内に蔓延る害虫を駆除していった……それが、天界の騎士という架空の存在が出来上がった軌跡……というわけだな」
過去の憶測と得られた情報によって導いた結論を述べると、彼女は無言で頷いた。
誰かを救いたい感情、誰かに迷惑を掛けてしまう感情。善なる行動を阻害する余計な感情を除去してしまえば、騎士となった民は一切の迷いも葛藤もなく、正しいと思う感情に従って行動することが出来る。後悔や苦慮などにも苦しむことなく、自分が信じる善だけが正義と信じて。
しかしそれは最早、人間と呼べる生き物なのか?
二つの感性に揺れ動く存在であり、優柔不断な生き物ではあるが、それが人間の良いところとも捉えられる。間違った行為を悔い改めることも、失敗から学ぶことが出来るからこそ、人間は強くなっていくというのに、それすら捨て去ってしまった存在は人間とは呼べない。
精神の揺らぎがあるからこそ、人は精神的に成長し、鋼の意志を得ることが出来る。だが、全てを捨て去り間違いを悔い改めない存在は一つも成長することが出来ない。強くなったと思い込むだけで、本当は一歩も前に進めていないのだ。
過去の記憶を消すことも、自らが同じ民を殺めてしまう思いをさせないための、自らが人界ではなく天界から生まれた存在であると思い込ませ、創世神に対して忠誠を誓い易くさせるための巧妙な罠だということになる。
もし今の考えが正しいのだとしたら、創世神は決して神として行ってはいけない禁忌に手を染めたことになる。
いくら神とはいえ、何人もの及ばぬ力の持ち主だとしても──。
そこに暮らす人々の思い出を、大切な記憶を奪っていい理由にはならない。
如何なる理由があろうと、民を導く存在である神が、民の過去や記憶を都合良く改変することは、決して許される所業ではない。
騎士にされた人々にだって、家族や友人、大切な人が絶対に存在する。その繋がりである記憶を奪い、違う人格と記憶を埋め込むなど。それでは、残された人があまりにも浮かばれないではないか。
だがそれは、本人も承知のこと。自分がしている罪の重さを痛感していながら、過ちを繰り返し行なっている。きっと、それだけの理由と使命があるに違いない。
いや、無ければ困る。もし無かった場合、胸中を掻き乱す怒りが爆発してしまいそうだから。
「あなたの結論は正解よ。私は、特定の人物を選抜し、記憶と人格を抜き取り、別の人格を植え付けた。そのお陰で、騎士となった民はなんの躊躇いもなく、剣を振るうようになった」
「そして、二度と人界内で差別が起きないように、禁書目録なる厳格な法を制定したと」
「そうです。ですがこの法が意味することは、力の剥奪でもあったのです」
「力の剥奪……?」
新たに出てきた議題に首を傾げながら、カップ内に溜まった黒い液体を口に含む。渋みに顔をしかめながら、喉へと流し込んでいく。複雑な思考を繰り返した脳を一度リセットし、言葉の意味を考える。
禁書目録は確かに、武器を持つことを禁ずる項目が多く存在した。特定の職を持つ者以外はまず木剣すら持つことを禁ずるほど、力に関連する項目が多かった。
だがそれだけで力の剥奪というのは言い過ぎな気もする。一部からは奪えたが、衛士や守護隊などの職を持つ者からは奪えずにいる。
「以前の人界は、学園を卒業すればすぐに衛士になれた時代ですが、今は難題な試練をいくつも通過することで衛士になれます。それは、何万もの人間が衛士になれずに剣を捨てることを意味します」
「……成る程。大体理解したよ」
大雑把ではあるが、言わんとしてることは理解出来た。
つまり現状では、人界は過去ほど力に有り余っている状態ではないということになる。過去では他者を虐げるほど力に溢れていたが、今では村や街の自衛目的のためだけに与えられた最低限の力しか持たない衛士は、他者を虐げるだけの力は備わっていない。
衛士という職になれるのを限定しているのは、衛士が増えてしまえば、力を得た人間が増えてしまい、過去の災いが再来してしまう恐れがあるから。その事態を未然に防ぐために、衛士への道を敢えて過酷なものにしたのか。
「あなたは理解が早くて助かります。その甲斐あって、話が円滑に進みますよ」
「下らないお世辞はいいので、話を続けてください」
こんな綺麗なお姉さんに褒められれば嬉しくて気持ちが舞い上がるのだが、今だけはそんな悠長な気分に浸ることが出来ない。
創世神と会談してから早くも三十分経っているが、いつの間にか話の流れが相手側で一方的に流れている。いつしか論点をすり替えられてしまい、転移理由から大幅に逸れている。
だが、ここからの軌道修正はあまり望めない。彼女自身、話が逸れることは事前に告知しているし、俺自身が考えずにはいられなかった。人界の真実……世界の真実についてを。
「限定的な人間のみが力を持つ時代。絶対の法と強大な力を持つ存在による秩序の維持。多くの苦難を乗り越えて得たのが、現状の仮初の平和です」
「仮初……? 今の人界は、あなたが望んだ本当の平和じゃないんですか?」
「……そもそも、何故人界の民は力を得たのでしょうか」
「それは、分断の壁を横断してきた魔界の民に対抗するため、ですよね?」
人界内での文化発展に大きく貢献した大戦によって、人族と獣人族は同じ領土に住むにも関わらず敵対し、多くの人族は同族の汚れた欲望によって衰弱死していった。言い換えれば、大戦が起きたことで、人界は狂ったと言ってもいい。
「しかし、大戦は無事人界が勝利して終わりました。その後は苦難の連続でしたが、大戦中はなんら問題なかった……」
「いえ、問題はあります」
こちらの言葉を遮るように、静かに告げた。
「大戦が起きたこと自体が、大きな問題なのです」
「大戦自体が……そりゃ、大戦で多くの民は亡くなりはしましたね。それでも……」
大戦で得た人界の被害は酷いものではあったが、やはりその後に立て続けに起きた内部崩壊の方が痛手を負ったと感じられる。内部崩壊のきっかけを作り出した大戦は問題ではあるが、それが今の仮初なる平和となんの関係があるのだろうか。
「あの大戦に勝利した後、私は二度と魔界の民が人界に侵入出来ないように、分断の壁を再構築しました。にも関わらず、近年では、分断の壁を横断した魔界の民の目撃情報が相次いでいます」
そうだ。言われてみれば、おかしい。
創世神が二度と横断出来ないと自負している壁を越えて人界に侵入している民を、俺は何度も目にしている。目にするだけじゃなく、実際に剣を交えてもいる。
その時俺は、背筋を走る凍える悪寒を鮮明に感じた。
「……覚悟は出来てる?」
不意の問いに、
「出来てます」
率直に、短く答える。
ここまで知って、今更真実から目を背けるわけにはいかない。最早退けない領域にまで入り込んだのだから、隠蔽されたじんかいの歴史を最後まで知ってみせる。
そんな決意を感じ取ったのか、創世神は唇をほんの微かに緩めてから、すぐに引き締めた。そして、衝撃的な言葉を、口にした。
「あなたに習って、結論から言わせてもらうわ。近い将来、過去の大戦を上回るほどの大戦が再来するわ」
創世神が告げた言葉に、俺は鋭く息を呑んだ。それほどまでに、彼女が宣言した言葉が信じられなかった。
まだ自衛手段が万全ではなかった人界にとって、殺戮のためだけに進化した闇魔術と、邪教神によって闘争本能を植え付けられた魔界の民は、恐怖以外の何者でもなかった。
対抗手段を持たない民は次々と虐殺されていき、女性などの民は何万と魔界へと拉致されてしまい、様々な実験の被験体として無残な死を迎えた。
人界を歪めた発端でもあり、同時に恐怖を人界全土に植え付けた古の大戦であったが、創世神が与えた強大な力によって、侵攻してきた魔界の民を魔界へと押し退けることに成功し、分断の壁を二度と横断出来ないように再構築することで、大戦は終了した。
修復困難な傷跡を人界に残して終結した大戦だというのに、創世神はそれすらも上回る大戦が、近い将来に起きると言った。
そんな馬鹿げた話があるわけがない。すぐに否定しようとしたが、言葉が喉に詰まり発言することが出来なかった。
落ち着いて考え直せば……いいや違う。落ち着く必要がないほどに、心当たりが存在するために、否定することが出来ずにいた。
人界と魔界を隔てる分断の壁。過去の大戦時に大破したことで二度と横断・破壊されないために再構築されたにも関わらず、近年人界内部での魔界の民の目撃情報が少なからず報告されている。
壁から遠い人界の中心部ではあまり知られていないが、最果ての集落では時折、緑色の小人の目撃情報が相次いでいる。
コドールの村でも、過去に何人もの村人が緑色の小人を目撃したとの報告があった。それに、早朝から森へと向かったペックとセレナは、そのゴブリン部隊に襲われてしまい、セレナは一度拉致されている。
ゴブリン隊長を辛うじて仕留め、駆けつけた騎士カムイのお陰で、無事セレナは拉致されずに救出することは出来た。
再構築されてから何百年もの間、一歩たりとも人界への侵入を許さなかったはずなのに、何故ゴブリンは侵入出来たのか、当時は深く考えないようにしていた。単に壁に綻びが出ていたのかもしれないし、ゴブリンが地中に穴を掘ってでもしたのだろうと、自分の中で納得のいくような説を言い聞かせていた。
しかし、そうも言っていられないほど、事態は深刻であることを我が身を持って痛感した。
闇魔術によって誕生した恐れのあるマガツヒと、邪教神の下僕と名乗る暗黒騎士の奇襲。アースリアに壊滅的な損害を与えた暗黒騎士は、魔界への偵察任務から急遽迎撃のために向かった騎士カムイの手によって退けることが出来た。
亜人などの、飛翔の術を持たない低脳生物ならば、偶然の侵入などで納得せざるを得ない。だが高度な知能を持つ騎士ともなれば、事態の深刻さを受け入れる他ない。
そう。何百年もの月日の中で、分断の壁が崩壊している恐れがある。もしくは、魔界の民が壁を破壊する手段を持っている可能性もあり得る。最悪、どちらともある可能性すら……。
奴等とて、長い月日を無駄に過ごしていたわけでもない。大戦時の敗退から学んだ屈辱を知性に変え、闇魔術に更なる磨きをかけていてもなんらおかしくない。知性を得た存在が一個の軍を作り上げ、戦術を知り、統率の行き届いた完璧なる小隊が出来上がっているのは、数多く魔界の民と接触したカズヤは既に知っている。
ゴブリン小隊もだが、牢から脱獄した矢先に出会った、デーモン部隊副隊長を務めるザルザードの存在が、その仮説を決定打にした。
人界は大戦以降、醜い内部争いを繰り広げている間に、魔界では密かに牙を研いでいたことになる。今度こそ確実に、人界の領地を略奪するために。
過去の大戦では、魔界軍の方は統率など全く取れていない野蛮な連中であった。個の力が凄まじい故に、『眼前の敵を殺す』ことだけに執着しているため、作戦など考える必要がなかった。──単に作戦を立てるだけの知性がない恐れもあるが。
だがもし、元々の凶暴性に知性で得た戦術が加わり、連携の取れた軍隊に侵攻されてしまえば、その被害は確かに過去の大戦を簡単に凌駕してしまう。
長い時間を文化発展ではなく、仮初なる平和のために費やした人界と、次こそ全てを奪い取ろうと力を蓄えた魔界では、退けるのは困難を極めるだろう。
俺はそこで一度考察を中断し、創世神に尋ねた。
「……何故、大戦が再来すると言えるんですか」
まだ確実に決まった未来ではないため、あの発言が単なる創世神が恐れる一つの未来図であることを、必死に願った。
しかし、そんな都合の良い未来を期待している自分を蹴落とすかのように、非常なる現実が襲い掛かってくる。
「まず、人界内部への侵入の件。これが第一要素です」
やはり、先程の推測でも挙げられた侵入は、深く関わっていた。これは最初の段階で予想出来ていたため、それほどの衝撃は受けなかった。
衝撃を受けたのは、次なる要素であった。
「次に騎士の報告によると、魔界側での戦力増強が確認されています」
「戦力の増強……? それは、具体的にどれくらいなのですか」
「……五年ほど前、魔界への偵察任務へ赴いた騎士が、瀕死の深傷を負って帰還しました」
「な……!?」
あまりにも信じ難い真実に、思わず絶句した。
無敵に等しい騎士が、偵察任務の最中に瀕死の深手を負うなんて、とてもじゃないが信じられない。だが、やはりこの真実にも、信用するだけの情報はある。
ザルザードの不意打ち。若輩の騎士ではあるが、全く存在を認知できないほどの気配抹消術に死角からの一撃、何より接近戦が不向きなデーモンとは思えない戦闘力。それを見誤ったばかりに、俺は深手を負った。
奴等の力は侮れないほどに強くなっている。亜人であるゴブリンですら、死ぬ恐れがあったのだから。
洞窟内で感じた死の恐怖が鮮明に蘇り、身を震わせる。圧倒的な絶望に屈し、絶望のどん底に陥った感覚は、時間が解決してくれることもなく、時折思い出してしまう。教会にいる時は、セレナが側でずっと励ましたりしてくれたし、事情を知っているサヤも、震えが止まるまで側にいてくれた。
震える右手を左手で覆いながら、恐怖を押し出すように声を出した。
「な……何故騎士は、そんな傷を負ったのですか」
こちらの問いかけに、創世神は数秒間の沈黙の後に答えた。
「…………暗黒騎士です」
「暗黒騎士……邪教神の下僕を名乗っている存在ですか」
アースリアでの戦闘を思い返しながら呟く。
あの時に戦った騎士は凄まじく強かったが、騎士に深手を負わせるほど強いとは思わなかった。逆に、自分が生き残れたこと自体に疑問を持ってしまう。
「その騎士の話によると、暗黒騎士は多数の闇魔術を同時展開した戦法で追い込んできたらしいの」
「……それは、とても厄介ですね。知性と力を持っている敵ほど、迷惑な存在はいませんからね」
「そう。ましてやこれは、今や魔界に複数存在していることになる。それが一斉に侵攻を開始したら、人界は敗北してしまい、多くの民が苦しみながら死んでしまう」
両の拳をきつく握り締めながら言う創世神の顔には、屈辱の色が滲み出ている。そんな顔を見詰めながら、俺は思っていたことを意見した。
「危惧してる暇があるなら、人界全土に現状を報告して、少しでも対抗出来るように鍛え上げれば良いじゃないですか」
「……本来なら、今すぐにでもそうしたい。でも出来ないのよ」
何故だ? 人界に暮らす人々は創世神を心の底から敬愛し、尊敬している。与えられた法を遵守するほどに。
そこでカズヤは、創世神の発言の出所について見当がついた。
「……禁書目録が、それを阻害しているんですね」
その答えに、創世神は無言で頷き肯定した。
禁書目録には、武器を持つことさえ禁ずる項目がある。それを破れば問答無用で監獄送り。決して法を破ってはいけないという考えが定着してしまった民に、いきなり剣を持って戦えと言って素直に従うわけがない。例え騎士が呼びかけようが、創世神を慕う彼等が代行者である騎士の言葉に従うとは到底思えない。
民の秩序を得るために定めた法によって自衛する力を奪い、得ること自体を禁じ、一部の者にのみ力を与えた結果、そこに暮らす者全てが平等に力を蓄える環境下に置かれた者たちに一方的に蹂躙される。
正しいと思って取った行動が取り返しのつかない事態に陥ってしまうとは皮肉なものだ。しかしならば、事態の解決は意外にも簡単なものなのではないのか。
その意見を、なんの躊躇いもなく提案した。
「禁書目録を撤廃し、自主性の徴兵令を出しましょう」
俺の提案に、創世神は信じられない話を聞いたかのように愕然とした。
気持ちは解らなくもない。定められた法を突然撤廃し、己の意思で剣を取れと言われても戸惑うに決まっている。
それに、自らの意思とはいえ剣を持つということは、殺す覚悟と殺される覚悟を持つことになる。それがどれだけ民を苦しめるかなど、俺でも容易に想像出来る。
そんな提案を、民を愛する創世神が承諾するはずもなく、有無を言わさずに否定してきた。
「ふざけないで下さい! 禁書目録は確かに、民から力を奪いました! ですが、それは人界内での内部崩壊を防ぐためにした緊急措置でもあります! 長い間定着していた法を撤廃すれば、長い時間を費やして溜まった欲望が一気に解放され、外敵の侵攻を待たずして内部から崩壊してしまいます! あなたはそれでもいいのですか!」
「だがそれ以外で、人界が生き残る術はない!」
「…………!?」
「このまま何の力も蓄えずに禁書目録に縛られたまま生きていけば、外部からの進軍で滅びゆく! その未来が実現されれば、多くの民は死んだ方がマシな実験の被験者にされてしまう! あんたはそれでも良いのか!」
「……それは」
「今ならまだ間に合うかもしれない……禁書目録を撤廃し、自主性の徴兵令を提示するんだ。突然の出来事で混乱はするだろうが、人界を愛する者は必ずいる。その人達を起点に、きっと多くの人達が人界のために動いてくれるはず。その人達を騎士達が指導していけば、それなりの戦力増強が望める。それが、現状で人界が唯一生存出来る可能性がある選択肢だ」
長々とした説明を終えると、創世神は長い苦慮の果てに答えを導いたのか、苦渋の決断を下した。
「…………分かりました。あなたの提案を…………受け入れ……ます」
「……懸命な判断だと、俺は思います」
人界の民を愛する心を利用してしまったが、民が苦しんで死ぬ姿を見たくない創世神は、俺の提案を飲む以外に選択肢はないと判断した。自分の考えは相手の性格を分析して導いた、絶対に承諾せざるを得ない選択肢を強制的に選ばせた卑怯な行為である。
だが、創世神に対してはそれほど罪悪感は感じなかった。
過去の記憶を奪い去り、偽りの人格を植え込むような真似を、これ以上繰り返してはならない。
人界の民は本心から彼女を慕うので有れば、きっとその思いに応えてくれる。彼女が今まで培ってきた信頼は決して無駄ではないに決まっている。
俺は言葉にはしなかったが、慈愛精神に従順でそこに暮らす人々を本気で思っている、真なる支配者に敬意を表した。
「創世神。俺も出来る限り協力します。提案したのは俺ですし、ある女の子との約束のためにも、まだ人界を滅ぼさせるわけにはいきません」
「……ありがとう。違う世界で生きてきたあなたが、私達の世界のために戦ってくれるなんて、とても嬉しいわ」
「お礼なんて良いです。人界は俺にとって、守るべき場所ですから」
旅をして、世界をこの目で見てから、いつのまにか人界という世界そのものを好きになってしまっていた。好きな世界が滅亡する恐れがあるならば、俺は迷わずに剣を握る。人界に生きる人々を守るために、皆が平等に笑い、未来を自由に選べる世界のために。
話がひと段落ついたところで、俺は創世神に原点の話を振った。
「それで、俺が転移した理由、教えてくれませんか?」
「そうだったわね。いつの間にか、話が大きく逸れてしまってたから、忘れてたわ」
あなたが変えたんでしょ、と内心でツッコミながら、俺は自分が知りたい真実を待ち続けた。
「あなたを転移させた理由、それはあなたが、私が求める人物像としての条件を満たしているからなの」
「創世神自身が求める、条件を満たしているから?」
「来たるべき大戦の時に、人々を率先して導く者が必要と判断した私は、並行世界である地球から、死する運命の者を転移させるようにした。その方が色々と都合が良いからね」
並行世界などという単語に関しては興味はなかった。そんなことを考えていたら話が一向に進む気がしないので、その辺はおいおい聞いていこう。
「転移対象は学生、精神が完全に発達していない者に厳選した。もし成人を転移させれば、人界に害を成す可能性があったから」
まぁ、過酷な社会生活から解放された大人が、法に縛られない世界に迷い込んだら大変なことを仕出かす気がする。
「第一転移者である男性は、事故時と転移時のショックで記憶喪失になってしまい、第二の転移者は、興味本位で魔界に侵入してしまい、デーモンに儀式の生贄とされてしまった。記憶喪失に耐えうる意志と精神力、自己の欲望を抑えることの出来る者を厳選した結果、あなたが選ばれた」
「……何故に俺?」
創世神に過大評価されているのは嬉しいが、自分にそれほどの才能があるとはいかんせん信じ難い話ではある。異世界に転移してから精神や意志に変化は起きたかもしれないが、転移時初期の時点ではそれほど強いとは思えなかった。
俺は、ようやく知ることが出来た真実にそっと胸を撫で下ろす。
長い間解明しなかった謎が解けたことで、心に少しだけ余裕が生まれた。帰還方法とかを聞きたいが、それはやるべきことが全て済んだ後でも遅くはない。
しばらく元の世界のことは忘れよう……今から俺は、もう一つの世界である人界を守ることにだけ集中する。それが、水樹和也という名を捨て、カズヤとして生きた俺自身の、最後の目標だ。
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