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眠る少女も恋をする
7.二人と魚達
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さっそくホーリーが本を開いてみれば、そこには写真と共に、素人にでもわかりやすく配慮された文章があった。
「あのキラキラしているお魚はラックス、って種類なんだって。
オスは七色の鱗を持っているのが特徴で、メスは地味な色合い……あ、あそこにいる砂と同化してるのがそうみたい」
「へー。オスかメスかでこんなに変わるもんか」
水族館の職員が今日のためにわざわざこの本を作ってくれたのだろう。シンプルな表紙にはこの水族館の名前が印刷されており、魚の説明が一つ書かれているごとに職員のものと思しき名前が載せられている。
一点ものの本は持ち出しがされぬよう、椅子と紐でくくりつけられおり、手にしたまま水槽に近づくことはできない。だが、その不便を補って余りあるほどに、魚達も本も素晴らしいものであった。
「これは食えんの?」
「情緒がなーい」
水槽の近くを回り、自由に泳ぐ魚達を見ていたエミリオが聞けば、本と実物を何度も見比べていたホーリーは口を尖らせる。
どのような形であったとしても興味を持つということは大切だ。小さなきっかけが、いつか大きな発見に繋がることを誰が否定できようか。
だが、それでも、何事にも時と場合というものがある。
恋人という関係性を得てから数ヶ月。友人としての空気が少なからず残っているとはいえ、デートにはムードを期待していたいところだ。
気の利いたことを言えとまでは言わずとも、美しい魚達を見て食欲を優先させるのはいかがなものか。
「……エミリオ君がそういう人ってのは知ってたけどね」
きょとん、としたエミリオへため息を贈り、ホーリーは手元の本をめくる。
「残念だけど食用じゃないみたい」
「ちぇー」
ここは魚屋ではなく、魚を研究し、適切に飼育するための施設だ。そのような場所で働いている者達が書き記すものといえば、生態に関するものに他ならない。少しでも海洋生物に興味を持ってもらえれば、と考えたのだろうが、彼らもまさか食用か否かに思考が向くとは思っていなかったのだろう。
各生物についての概要欄には人間が口にして良いものかどうかなど殆ど書かれていなかった。
偶然にも、エミリオの目に留まった魚は、硬質な肉が特徴であり、エサを丸呑みすることを前提としている相手でなければ捕食されることはない、との記述がある。そこから、ホーリーは人間の食用に成り得るものではない、との判断を下したのだ。
その後もエミリオは水槽の前を行き来し、ホーリーは本と魚達を見比べていた。
二人きりの空間であった場所に人が一人、二人と入ってくるようになってようやく彼らは場所を移動する。自分達が住まう地方にいる魚が並ぶ部屋。地球の裏側にいるような生物がいる部屋。地図や水質に関することまで事細かに記されており、ホーリーの知識欲はどんどんと満たされていく。
「うわあ、キレイ!」
「おー、すっげぇ」
くらげや、クリオネといった半透明という形状でまとめられた部屋は幻想的で、薄明かりを通す彼らの姿は美しい。ゆらりと揺れるように泳ぎ、沈み、まるで異世界を見ているかのような気持ちにさせられる。
エミリオや他の客達の多くは、生物の体が透けている、という点に大きな関心を抱き、様々な角度から眺めては作り物でないことを確認していた。
「可愛くてキレイで……。
本では見たことあったけど、本当にこんな生き物がいるんだ」
瞳を輝かせ、ホーリーは青い瞳いっぱいにくらげ達を写す。
群れては離れ、また近づき、宝石のようでも羽のようでもある不可思議な生き物に彼女はすっかり魅了されてしまった。
放っておけばいつまでも眺めていそうな彼女の手を引いたのは、数十分という長さに耐え切れなくなったエミリオだ。愛おしい人が楽しんでいるのは良いことではあるが、そう広くもない部屋、それも自身のテンションが上がるようなもののない場所に長時間居続けられるほど、彼の忍耐は強固でなかった。
「なあ、次行こうぜ」
「もうちょっと……」
「さっきもそう言ってただろ」
ショーの時間もある。一箇所で時間を潰し続けることは得策でない。
エミリオが眉を下げて次を願えば、ホーリーは渋々頷いた。時間が有言であることは重々承知しているのだ。
「おーっ! すっげえ!」
「流石の迫力だね」
次に入った部屋は凶暴な生き物が個々に飼育されている空間であった。広々とした各水槽に一匹ずつしか入れられていないところからも、彼らの強さが見て取れる。
素早く泳ぎ回るものもいれば、巨体をじっと潜ませているものもいた。全てが肉食で、油断して飼育にあたれば職員も食べられかねない恐怖がそこにはあった。
説明文を読んで思わず息を呑んだホーリーだが、エミリオは大興奮の様を呈している。
鋭い牙。好戦性を思わせる目。強固なアクリル越しであるというのに、生命の力強さを感じさせる彼らに男という生き物はどうしても惹かれてしまうらしい。
エミリオだけでなく、他の客達も目を見開き、一歩、また一歩と水槽に近づいていく。大きな口が開かれ、真っ赤な舌からその奥、食堂まで見えてしまいそうな光景に、悲鳴じみた歓声があがる。
「なあ! ホーリーも来いよ!」
「わ、私は遠慮しておこうかな~なんて」
「んだよ。ビビってんのかぁ?」
「だって……」
怖いものは怖い。
万が一、そんなことはないとちゃんと研究されているのだろうけれど、何かが起こってしまったら。水が溢れだし、あの生き物達が真に迫ってきたら。
そんなことを考えずにはいられないのだ。
「ったく。しゃーねぇな」
軽く手を引き、ホーリーの抵抗を感じ取ったエミリオは小さく笑う。
呆れでも諦めでも、苦々しいものでもない。優しくて暖かな微笑みだ。
「手、握っててやるからさ。
ちょっとだけ見ようぜ」
我慢ができなくなったらすぐ引っ張ってくれ、と彼は言う。
ホーリーが怖くないよう、自分の存在を間近に与える。それでも怖いというのならば、それはもう致しかたのないことだ。少し残念ではあるけれど、次の場所へ向かえばいい。
「……うん」
青い光に照らされている頬を赤く染め、ホーリーは彼の手を強く握る。
暖かな鼓動が肌から肌へと伝わり、潜在的な恐怖が薄れていくのを感じた。
「格好良いよな」
「私にはよくわからないけど、強そうだな、とは思うよ」
「それが格好良いってことだろ?」
「ちょっと違うような気もするけど……」
大きな体が水を掻き分け、こちらへと向かってくる。
敵意を伴う行動ではないのだろう。おそらく、あちらも様子を窺っている。これ以上、自身のテリトリーに入ってくることはないのか。敵か、エサか。
「――行くか」
思わずエミリオの手を引くと、彼はあっさりと誘いに乗ってくれる。
あまりにも潔く、先ほどまで興奮を瞳に浮かべ、小学生のようにはしゃぎまわりたいのをぐっとこらえていた人間と同一人物であるとは思えなかった。
「あのキラキラしているお魚はラックス、って種類なんだって。
オスは七色の鱗を持っているのが特徴で、メスは地味な色合い……あ、あそこにいる砂と同化してるのがそうみたい」
「へー。オスかメスかでこんなに変わるもんか」
水族館の職員が今日のためにわざわざこの本を作ってくれたのだろう。シンプルな表紙にはこの水族館の名前が印刷されており、魚の説明が一つ書かれているごとに職員のものと思しき名前が載せられている。
一点ものの本は持ち出しがされぬよう、椅子と紐でくくりつけられおり、手にしたまま水槽に近づくことはできない。だが、その不便を補って余りあるほどに、魚達も本も素晴らしいものであった。
「これは食えんの?」
「情緒がなーい」
水槽の近くを回り、自由に泳ぐ魚達を見ていたエミリオが聞けば、本と実物を何度も見比べていたホーリーは口を尖らせる。
どのような形であったとしても興味を持つということは大切だ。小さなきっかけが、いつか大きな発見に繋がることを誰が否定できようか。
だが、それでも、何事にも時と場合というものがある。
恋人という関係性を得てから数ヶ月。友人としての空気が少なからず残っているとはいえ、デートにはムードを期待していたいところだ。
気の利いたことを言えとまでは言わずとも、美しい魚達を見て食欲を優先させるのはいかがなものか。
「……エミリオ君がそういう人ってのは知ってたけどね」
きょとん、としたエミリオへため息を贈り、ホーリーは手元の本をめくる。
「残念だけど食用じゃないみたい」
「ちぇー」
ここは魚屋ではなく、魚を研究し、適切に飼育するための施設だ。そのような場所で働いている者達が書き記すものといえば、生態に関するものに他ならない。少しでも海洋生物に興味を持ってもらえれば、と考えたのだろうが、彼らもまさか食用か否かに思考が向くとは思っていなかったのだろう。
各生物についての概要欄には人間が口にして良いものかどうかなど殆ど書かれていなかった。
偶然にも、エミリオの目に留まった魚は、硬質な肉が特徴であり、エサを丸呑みすることを前提としている相手でなければ捕食されることはない、との記述がある。そこから、ホーリーは人間の食用に成り得るものではない、との判断を下したのだ。
その後もエミリオは水槽の前を行き来し、ホーリーは本と魚達を見比べていた。
二人きりの空間であった場所に人が一人、二人と入ってくるようになってようやく彼らは場所を移動する。自分達が住まう地方にいる魚が並ぶ部屋。地球の裏側にいるような生物がいる部屋。地図や水質に関することまで事細かに記されており、ホーリーの知識欲はどんどんと満たされていく。
「うわあ、キレイ!」
「おー、すっげぇ」
くらげや、クリオネといった半透明という形状でまとめられた部屋は幻想的で、薄明かりを通す彼らの姿は美しい。ゆらりと揺れるように泳ぎ、沈み、まるで異世界を見ているかのような気持ちにさせられる。
エミリオや他の客達の多くは、生物の体が透けている、という点に大きな関心を抱き、様々な角度から眺めては作り物でないことを確認していた。
「可愛くてキレイで……。
本では見たことあったけど、本当にこんな生き物がいるんだ」
瞳を輝かせ、ホーリーは青い瞳いっぱいにくらげ達を写す。
群れては離れ、また近づき、宝石のようでも羽のようでもある不可思議な生き物に彼女はすっかり魅了されてしまった。
放っておけばいつまでも眺めていそうな彼女の手を引いたのは、数十分という長さに耐え切れなくなったエミリオだ。愛おしい人が楽しんでいるのは良いことではあるが、そう広くもない部屋、それも自身のテンションが上がるようなもののない場所に長時間居続けられるほど、彼の忍耐は強固でなかった。
「なあ、次行こうぜ」
「もうちょっと……」
「さっきもそう言ってただろ」
ショーの時間もある。一箇所で時間を潰し続けることは得策でない。
エミリオが眉を下げて次を願えば、ホーリーは渋々頷いた。時間が有言であることは重々承知しているのだ。
「おーっ! すっげえ!」
「流石の迫力だね」
次に入った部屋は凶暴な生き物が個々に飼育されている空間であった。広々とした各水槽に一匹ずつしか入れられていないところからも、彼らの強さが見て取れる。
素早く泳ぎ回るものもいれば、巨体をじっと潜ませているものもいた。全てが肉食で、油断して飼育にあたれば職員も食べられかねない恐怖がそこにはあった。
説明文を読んで思わず息を呑んだホーリーだが、エミリオは大興奮の様を呈している。
鋭い牙。好戦性を思わせる目。強固なアクリル越しであるというのに、生命の力強さを感じさせる彼らに男という生き物はどうしても惹かれてしまうらしい。
エミリオだけでなく、他の客達も目を見開き、一歩、また一歩と水槽に近づいていく。大きな口が開かれ、真っ赤な舌からその奥、食堂まで見えてしまいそうな光景に、悲鳴じみた歓声があがる。
「なあ! ホーリーも来いよ!」
「わ、私は遠慮しておこうかな~なんて」
「んだよ。ビビってんのかぁ?」
「だって……」
怖いものは怖い。
万が一、そんなことはないとちゃんと研究されているのだろうけれど、何かが起こってしまったら。水が溢れだし、あの生き物達が真に迫ってきたら。
そんなことを考えずにはいられないのだ。
「ったく。しゃーねぇな」
軽く手を引き、ホーリーの抵抗を感じ取ったエミリオは小さく笑う。
呆れでも諦めでも、苦々しいものでもない。優しくて暖かな微笑みだ。
「手、握っててやるからさ。
ちょっとだけ見ようぜ」
我慢ができなくなったらすぐ引っ張ってくれ、と彼は言う。
ホーリーが怖くないよう、自分の存在を間近に与える。それでも怖いというのならば、それはもう致しかたのないことだ。少し残念ではあるけれど、次の場所へ向かえばいい。
「……うん」
青い光に照らされている頬を赤く染め、ホーリーは彼の手を強く握る。
暖かな鼓動が肌から肌へと伝わり、潜在的な恐怖が薄れていくのを感じた。
「格好良いよな」
「私にはよくわからないけど、強そうだな、とは思うよ」
「それが格好良いってことだろ?」
「ちょっと違うような気もするけど……」
大きな体が水を掻き分け、こちらへと向かってくる。
敵意を伴う行動ではないのだろう。おそらく、あちらも様子を窺っている。これ以上、自身のテリトリーに入ってくることはないのか。敵か、エサか。
「――行くか」
思わずエミリオの手を引くと、彼はあっさりと誘いに乗ってくれる。
あまりにも潔く、先ほどまで興奮を瞳に浮かべ、小学生のようにはしゃぎまわりたいのをぐっとこらえていた人間と同一人物であるとは思えなかった。
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