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眠る少女も恋をする

2.挨拶

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「それで付き合い始めた、と」

 ふぅ、と息を吐いたのはシオンだった。
 校門の外側で待ってくれていた彼女とマリユスに、未だ赤いままの顔について説明した後の台詞。

 状況から見ても告白からのお付き合いは疑う余地のないことであったが、何よりも、シオン達はホーリーとエミリオが互いに想いを寄せ合いつつあることに気がついていた。
 そのため、何一つ疑うことなく、頷きと納得を返す。

「本当にいいの?
 後悔しない?」

 心配そうに言ったのはマリユスだった。
 エミリオの性根が良い奴であることに彼も疑いを持ってはいないが、如何せん、女心を解さぬというか、繊細さの欠片もないような男だ。

 どこか儚げな印象を抱かせ、少々特殊な身の上でもあるホーリーの心労にならないと断言することは全くもってできなかった。
 エミリオの友人としては祝福の気持ちを。ホーリーの友人としてはもっと彼女に合った男がいるのではないか、という疑念を抱かざるを得ない。

「……うん」

 小さいけれど万感の思いが込められた優しい頷きに、マリユスは肩をすくめる。
 どうやら、とんだ大きなお世話だったらしい。

「ホーリーはこれからも色々大変だと思う。
 そんな時、オレが支えてやりたい」
「まあ、キミ達が仲良しなのは良いことだよ。
 エミリオ。ちゃんと大事にしてあげなよ」
「おう!」

 馬鹿正直な男の言うことだ。嘘偽りない本心なのだろう。
 マリユスは軽く彼の肩を叩き、激励の言葉を送る。大切な二人の友達が、合わさって大きな幸せを手に入れてくれるのであれば、それが一番良いことだ。

「泣かせたら殴る。
 浮気したらちょん切る。
 いいな?」
「こっわ」

 珍しく顔全体で笑顔を作り上げていたシオンの口から出たのは、何とも恐ろしい宣言だった。表情と違い、声色が真剣に満ちていたのも背筋が凍った理由の一つ。きっと、彼女は有言実行に出るだろう。
 エミリオのような愛情でも、マリユスのような友情でもない。保護欲のような情を彼女はホーリーに向けている。
 いつの日か、エミリオやマリユスがホーリーから離れてしまったとしても、シオンだけは彼女から離れることはない。母親がもたらす無償の愛のようなものがそこには存在していた。

 こうして、二人の交際は友人達へと伝えられ、祝福と忠告を贈られることとなった。
 双方、真剣にお互いを愛し、愛されての関係ではあったが、まだ中学生ということもあり、ホーリーは両親へ自分達の関係を告げる必要はないだろう、と考えていた。今すぐに結婚まで至るわけでもなし、親に恋人を紹介するというのは、思春期の娘として恥ずかしいものがある。

 特に、男親であるボリスの反応を思えば、いずれ、機会が訪れたときでいいだろう、と。
 しかし、エミリオの考えは違っていた。

「こちらが私が今お付き合いしている人、エミリオ君」
「よろしくお願いします」

 とある日曜日。
 父、ボリスが自宅で休みと家族団欒を満喫できるはずであった時間は、娘から持たされた凶報により、緊張と不満の時間となる。

 愛おしい愛娘が、何と中学二年にして彼氏を作ったのだと言う。
 まだ早い、と即座に告げ、妻に叩かれたのは三日ほど前の話。

 ホーリーに連れてきたエミリオにボリスは眉をひそめる。
 何も彼の容姿が歪であったり、不誠実な服装をしているわけではない。むしろ、いつもよりもシンプルで落ち着いた服にエミリオは身を包んでおり、客観的に見れば好感の持てる雰囲気があった。
 現に、マリーは娘が連れてきた彼氏の姿に目尻を緩ませ、嬉しそうに微笑んでいる。

「初めまして。ホーリーの母です」
「…………父だ」

 にこやかに席を勧め、お茶とお菓子を用意しに行ったマリーとは対象的に、ボリスの表情は硬度を保ったまま一ミリたりとも崩れることがない。
 エミリオが小さく深呼吸したことにホーリーは気づく。

 恋人の親と対面しているのだ。緊張は当然のこと。人生経験の浅い中学生となればなおさらのことで、本来であれば、親と顔を合わせることなどなく、仮にあったとしても友人としての紹介で充分だったはずだ。
 同世代の子供達の殆どが取るであろう選択をエミリオは無視し、ここにいる。

「エミリオ君」
「大丈夫」

 ホーリーは不安げに彼の着ている服の裾を引く。
 視線だけで彼女を見たエミリオは、そっとホーリーの手をとって服から細い指を引き離す。

「お父さん。あまり怖い顔しないの。
 チョコレートは好き?」

 見えぬ火花が散る中、マリーがカップを四つとチョコレート菓子を盆に乗せてリビングへと戻ってくる。ティーポットの中身はおそらく紅茶だろう。まだカップに注がれていないにもかかわらず、良い香りがふわりと周囲に漂う。
 テーブルにカップが並べられ、紅茶が入るとマリーは夫の隣に座る。
 続いて、ホーリーがマリーの向かいに座り、エミリオがボリスの前に腰を下ろした。

「度胸は認める。度胸は、な」

 胸の辺りで腕を組み、ボリスは低く言う。
 最近になり、ようやく喉に変化が訪れ始めているエミリオとは違う、大人の声だ。そこには培ってきた経験の重み、深さ、威圧感というものが込められている。

「ボクは」

 紅茶に手をつけず、エミリオは真っ直ぐボリスを見据えていた。
 傍らにいる大切な者を守るかのような姿は、マリーの心を穏やかなものにさせる。

「ボクは、ホーリーさんを幸せにしたいんです」
「中学生の分際で何を言っている。
 まだ自分で金を稼いだこともないだろう」

 エミリオは膝の上で拳を硬く握った。
 ボリスの言葉は正論だ。まだ親の庇護の下でのんきに暮らしている子供に、他者を守る力などありはしない。責を果たせなかったと悔いることすら許されぬ程に無力だ。

 理解している。だからこそ、彼はここへ来ることを望んだ。

「何もできないからと言って、こいつを放っておくことなんてできない」

 この世界は優しい。
 人は情に溢れ、争いは殆どなく、技術も文明も頭打ちに達するほど高度なものだ。異端であるホーリーを排することなく、手を貸し、支え、他の人間と同じように生活させてくれている。

 それでも、全てが事足りるわけではない。
 彼女は他の人々と違う時間を生きるという辛さがある。無意味な負い目を感じ、途方に暮れることもあるだろう。多様なアイディアを生み出す脳はとても繊細で、周囲と己の違いを敏感に感じ取る。

 無力な子供であるからと言って、すぐ傍で傷つき、立ち止まるホーリーの手を取らずにいることはできなかった。容姿も性格も愛おしい彼女だからこそ、エミリオは守りたいと強く願い、そのために隣に居続ける立ち位置を欲した。
 その感情を一言でまとめると、恋というものになっただけの話だ。

「少しでもいい。幸せの助けになりたい。
 オレが隣にいるだけで守れるものもあるかもしれない。
 ……ないかもしれないけど、でも、そうだったらいいと、オレは思ってる」

 感情が前へ前へ出る。
 口調が砕け、いつも通りのエミリオになっていることに彼自身は気づいていなかった。

「ホーリーがいつでも幸せでいるためには、オレとのこと、黙ってるのは良くないんじゃないかって。
 正々堂々、何も隠し事してないってのが幸せの一つだって、オレは思う」

 秘密を抱えるというのは辛いことだ。たとえ、その根本が幸福なものであったとしても、告げることができないという枷が付きまとう。他人や友人に対してであったとしても重苦しいものだというのに、最も近しい両親へとなれば、繊細なホーリーの心は締め付けられ、涙を流してしまう夜もあるかもしれない。
 嘘をつかない。隠しごとをしない。幸せを構築するためのそれらをホーリーの手から離したくなかった。

「そんな風に考えてくれてたんだ」

 ホーリーは恥ずかしげに頬を赤く染める。
 ここまでしてもらわずとも良かったのだが、自分のことを考え、行動してくれたということへの喜びは大きい。告白の言葉よりもずっと重く、真摯な宣言もまた、彼女の心を強く打った。

「優しい子じゃない。
 顔も格好良いしね」

 紅茶を一口飲み、マリーは言う。
 聡明で細かなものを見ることに長けた娘の目を疑う理由はなく、彼氏を連れてくる、と言われた際も特に心配はしていなかった。

 その信頼にホーリーもエミリオもしっかりと報いてくれている。
 新緑を思わせる緑の瞳は物怖じせぬ強さを持っており、考えすぎる気のあるホーリーをしっかりと支えてくれることだろう。

「……私は認めんぞ」
「もう、この人ったら。
 エミリオ君、気にしないでね。ちょっと娘離れができてないだけなの」

 表情も体制も崩さぬボリスに、マリーはため息をつく。
 娘と共に生活する時間が短かった反動か、普通とは違っていることへの心配ゆえか、彼はホーリーを溺れるほどに愛していた。
 あらゆる苦痛から彼女を守るのは自分である、と本気で思っているのだ。

 いつかは別の男にその座を明け渡さなければならないことくらいわかっているのだろうけれど、それは遠い未来の話。娘が成人した後のことだ、と。
 前倒しでやってくるにしても早すぎる。ボリスが娘と生活するようになって、ようやく一年が経過したというのに。納得がいかない。だが、強く反対し、娘を悲しませたくもない。
 彼の心中は非常に悩ましいものであった。

「覚悟はしてました。
 いつか認めてもらえるよう、頑張ります」
「わ、私もお父さんの説得手伝うからね!」
「おっ。頼もしいな」

 ボリスの目の前で二人は顔を見合わせ、ニコニコと笑う。
 大きな接触があるわけではないけれど、いつもよりもゆったりとした甘い声を出すホーリーに、ボリスの脳は恋人、という単語を重く刻み込む。

「いつか一緒に晩御飯食べようね」
「ホーリーの手作りか?」
「練習しておく!」
「じゃあ、今日からお母さんと一緒に夕飯作る?」
「うん!」

 笑みと明るい声に溢れる室内で、ただ一人、ボリスだけがその輪に入ることができなかった。
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