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少女と夏

2.生物

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 同一の感情を持てとは言えないけれど、何か、少しくらいは思うところがあるものではないのか。どうして、と彼女の脳は焦燥感に焼かれながら疑問符を浮かび上がらせる。

「餌よりもゴミの方がずっと多くて、どうしたってゴミが口に入ってしまって。
 昔のプラスチックは溶けて自然に還ったりしないから消化もできなくて、体に詰まって、そのまま、何も食べることも、出すこともできなくなって」

 技術が発達した今でさえ、還ることのできない物質は数多存在し、海や山は汚染されている。
 浄化ができるようになっただけマシと言えばそれまでかもしれないけれど、ポスターの中に描かれた魚のように苦しみ、死んでいく生物は少なくないだろう。
 自然のために、今の豊かな生活を捨てろと言われても受け入れることはできない。しかし、共存を望み、より良い方向へ世界が進むことを望むことはできる。

「なるほど」

 つくづく感心した、とでも言いたげにシオンが言葉を零す。

「ホーリーさんには芸術の才能があるんじゃないかな」
「えっ?」

 マリユスの言葉にホーリーは目を見開く。
 彼女は特別絵が上手いわけではなく、工作の類も壊滅的ではないが上手とも言えぬレベルだ。どう贔屓目に見たところで才能があるとは言えない。

「感受性が豊かじゃないか。
 こんな絵一枚でそこまで考えられるなんて」

 ニコニコと笑うマリユスに小さな違和感。

 教科書には絵に対する解説は書かれていない。翻訳や使われたであろう画材については記載されているが、それだけだ。
 見る者の感性に全てを委ねているのか、この教科書を作成した人間すら解説を載せることができなかったのか。ホーリーは不安に襲われる。

 定期的な浄化があるおかげで、取り返しのつかぬ環境汚染は無くなった。そのため、人々は過去の時代に比べ、世界を汚すという行為に対して強い意識を割かなくなってしまっている。
 ポスターに書かれた言葉が胸に刺さらないのは、周囲の意識という背景があるのかもしれない。

 いや、だとしても、だ。
 ゴミと死んだ異様な魚。愚直なまでにストレートな言葉。
 感受性の問題だろうか。あのポスターに込められた意味を汲み取ることができたのは。

「おーい、もうチャイムが鳴るぞ」
「っと。んじゃ、また次の休み時間に!」

 生物を担当しているイリネイが教室に入ってきた。
 時計を確認すれば、あと数分でチャイムが鳴る時間だ。

 エミリオ達はホーリーに一声かけると、自身の席へと帰って行く。
 余談であるが、エミリオの席は先頭の列のど真ん中がライノによって指定されており、何度の席替えを経ても動くことのない特等席として据えられている。

「それでは今日の授業を始める」

 チャイムの音が鳴り響くと同時に、イリネイは壁に設置されているスクリーンに蝶とネズミの絵を表示させた。

「前回までは植物と生物の定義についてやってきた。
 今日からは動物についての話になる」

 彼は蝶とネズミの下に、無脊椎動物、脊椎動物という単語を付け加える。
 それぞれに関する簡単な説明が行われ、分類や特徴についての説明がスクリーンに映し出された。生徒達は各々、電子ノートに図を書き写し、文字を入力していく。
 イリネイの授業はテンポが速いのが特徴で、無駄なお喋りが非常に少ない。教室も静かなもので、不真面目というわけではないのだが、どうしても騒ぎがちなエミリオでさえ彼の授業では静かなことが多かった。

「ヒトには六つの生理的欲求が存在している。
 さて、誰に答えてもらおうか……」

 ぐるりと教室を見渡し、教室の隅にいるマリユスへ目を向ける。

「マリユス君。
 わからなくてもいいから何か一つ答えて」
「えっと……。
 食欲、ですか?」
「正解」

 モニターに食欲、という単語が付け加えられた。

「次はエミリオ君」
「はいはい!
 性欲!」
「正解。でも、そんな大声はいらなかったね」
「性欲ねぇと子孫残せねぇもんな!」
「私の話を聞いていないのかな?」

 わざわざ席を立ったうえの大声だ。
 思春期の男子生徒にありがちな行動とはいえ、こうも明け透けにやられればため息も出る。ノリの良い教師であれば話はまた違っていたのだろうけれど、イリネイはジョークを好む性質ではない。
 答えそのものは正解であるし、生物としての本能である「性欲」に恥じらいを感じる必要はないけれど、時と場合というものが存在していることを、エミリオには一刻も早く理解してもらう必要があるだろう。

 イリネイの言葉を聴いているのかいないのか。エミリオは平然と席に座り、前のモニターを見ている。
 彼にこれ以上の注意をしても無駄だろう。イリネイは気持ちを切り替え、次の生徒、次の生徒と指名していくが、残りが中々上がらない。

「そうだね。じゃあ一つヒントを上げよう。
 生理的ってというのはね、身体が勝手にしてるってことなんだ。
 食欲や性欲は意識できる部分だけど、それだって胃が動いて消化して、栄養を体に取り込んで、っていうところまでは私達も意識してないだろ?
 だから、生きるためには何が必要か、ってのを考えるといいかもね」

 彼の言葉に頭を働かせてみる者、ノートにメモする者、思考を放棄する者、とそれぞれが己にあった行動に出る。しばしの間それを眺め、生徒に猶予を与えたイリネイは、再び名指しで指名していく。

「……息?」
「正解。呼吸も欲求の一つだね」
「えっと、おトイレ、とか?」
「そうだね。排泄も大切な欲求だ」

 またしばしの間が開き、ヒントを経て体温調節と飲水欲求が出た。
 これにより、六つの生理的欲求が出揃ったことになる。

「はい。これの六つがヒトの持つ欲求の主流。
 でも、もう一つ……」

 イリネイの目が動く。適当な生徒を探しているのではない。ただ一人、お目当ての存在を探す動きだ。

「ホーリー君、わかるかな」
「あっ」

 名を呼ばれ、小さな声が漏れ出る。
 答えがわからないわけではない。勤勉な彼女は、短い自由時間の中で毎日の予習復習を欠かさず行っており、今日の授業も万全の状態で受けている。否、そうでなくとも、ホーリーならば答えがわかって当然なのだ。

「――睡眠」

 か細い息が漏れるような答えだった。
 機械やヒト、それと極一部の生物だけが睡眠を不要としている。
 鳥類、哺乳類、爬虫類、両生類、魚類。その他の無脊椎動物達。睡眠を必要としない種は少なく、生物全体として見れば、睡眠を不要とするヒトは少数派であった。

「正解。一年の最後でもやるけど、昔はヒトにもその欲求があった。
 今じゃすっかり失われ、ホーリー君だけにその特性が残っている」
「そう、ですね」

 言葉は細かく途切れてしまう。

「ん? あ、もしかして答えたくなかったかな。
 配慮が足りなくてすまない」
「いいえ、別に、そういうわけじゃなかったんですけど」

 答えたくなかったわけではない。
 ただ、口にすると、改めて自分を認識してしまうだけだ。

 血の繋がった両親とも、クラスメイトとも、教師達とも違う。ヒトと同じ姿形をして、同じように生きているはずなのに、見過ごすことのできない部分が大きくずれてしまっている。
 周囲はホーリーを受け入れてくれ、将来のために手助けをしてくれている大人も多い。
 受けとめきることができていないのは、当の本人だけなのだ。

 大好きな人達と違う自分が、本当にヒトであるのか。
 何度も何度も答えを出し、諦め、受け入れてはまた悩む。同じこと性懲りもなく繰り返してしまう。

「なら話を続けよう。
 ヒト以外の生物には睡眠というものが残っている。
 何故、現代まで彼らが進化の中で睡眠を残し続けてきたのか。睡眠の有無によってもたらされるものは何か。
 すべては謎のままだ」

 高度な文明と科学を得た現代においても、不明瞭な事象というのは山のように存在している。
 神の領域とでもいえばいいのか。答えなど存在しない偶然の部分であるのか。どちらにせよ、人間がこの先を見ることはないだろう、と学者も政治家も、誰もが口を揃えていた。

「進化の全てが合理的であるわけではない。
 一説によれば、ヒト意外の生物は体内時計を用いて時間の管理を行うため、定期的なリセットが必要となる。その役目を睡眠が担っているらしい」

 そこまで話したところで、授業の本筋である動物の体の構造や進化の過程の説明へと戻っていく。スクリーンには生物としての特徴や細胞の図が映し出されていた。
 ホーリーはどこか落ち着かぬ気持ちを抱きながらも、首を軽く横に振り、授業へ集中できるよう努力する。

 テンポの速い授業は彼女の思考から余計な不安を追い出すのに最適であった。
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