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皇国捕虜編
第19話 逃亡戦
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全てが、燃えた。
帝国兵も、街も、そこで暮らす住民も、全てが燃えた。
そこには何一つ残らず、ただ、焼け跡の中でアウローラは呆然と空を見上げていた。
大規模な火災のせいか、上昇気流によって持ち上げられた空気が冷やされ、灰を核として凝結して、静かに雨が降り始めた。
久しぶりの水な気がした。
呆然と空を見上げるアウローラに、炭化した街に、慈雨が染み込んでいく。雨と混じって、涙がアウローラの目から零れ落ちた。
何も、守れなかった――絶望がアウローラの心に広がる。
誰もが死んだ死の世界で、けれどやっぱりアウローラは生きていた。死ねて、いなかった。
自分は死にたいのだろうか――胸にぽっかりと開いた空洞を感じながら、アウローラは己に問いかける。
にじむ空を見つめながら、思い出したのは慈しみに満ちた姉妹、あるいは親子の再会の場面。あの場面を、もう一度見たかった。彼女たちと、もう一度会いたかった。
それから、久しぶり、なんて話をして、あの時助けてくれてありがとうなんて、そんな言葉を聞きたかった。
けれど彼女たちは、もういない。姉妹も、両親も、治療をしたその他大勢の人も、皆が灰となって消えて。自分はただ一人。
けれどその虚無の中で、ありがとう、ありがとうと、少女の言葉が木霊する。
救いたかったと、心が叫び出す。あの日常を、命を、守りたかったと魂が叫ぶ。
守りたかったのだ。アウローラは、彼女たちを守りたかった。
あの日のように、天へと手を伸ばす。そこには、真っ黒な雲に遮られた、地上に等しい死の世界が見えた。
愛しい存在を、慈しむべき存在を、この手で、守りたかったのだと、そう思いながら。
アウローラは伸ばした手で何かをつかむように握りしめた。
淡い緑の光が、アウローラを包み込む。
体を、起こす。気づけば、ぼろきれのような布は、かつてのそれのように、真っ白な回復兵らしい服へと変化していた。
炭と灰の世界にただ一つの、白い服。
腰には、刃渡り十五センチほどのナイフ。かつてアウローラが一人の命を奪った、あのナイフが、燃えることなく変わらぬ姿でそこにあった。
遠くから、足音が聞こえて来た。
おそらくは、かつてのように生き残りを、燃え残りを、あるいは少しでも皇国の魔法の威力調査をするために送り込まれた帝国兵を捕らえるための、皇国の兵士たち。
白煙にかすむ世界に、黒い影が映って。
アウローラは、腰に提げたナイフを抜き放ち、その影へと斬りかかった。
ギィン、と肉を切ったのとは違う音が響く。
「うお⁉」
アウローラが、さらに前へと出る。剣の刃の上を滑るようにナイフを動かして迫る存在を見て、皇国兵がぎょっと目を見開いた。
その懐へと、潜り込んで。
足を伸ばす動きと共に、アウローラは男の顎をナイフを持たない方の拳で打ち抜いた。
男の脳が揺れて、体が倒れる。
殺す覚悟は、できていなかった。けれど、守りたい者のために戦う覚悟はあって。
アウローラは、徹底的に体に叩き込まれた動きを、身を守るために鍛えた観察眼を生かして相方の男へと飛び掛かる。
剣が振りぬかれる。
しゃがんで回避。
頭を上げたアウローラの顔を見て、男が小さく息を飲んだ。彼は、アウローラのことを知っていた。かつて砦破壊の後、アウローラが捕らえられたときに、皇国兵の一人としてその男はいた。
アウローラが今度こそ敵として襲い掛かってきているという事実に飲まれたのは、一瞬のこと。こんな惨状に二度も巻き込まれれば俺だって反旗を翻したくなると、そう心の中で叫びながら、アウローラへと剣を振り下ろす。
その剣を前に、アウローラは突進を選んだ。
アウローラの肩口に、吸い込まれるように剣が近づく。
殺すつもりはなかった男の剣が、わずかにブレる。刃先が逸れ、長剣はただの鈍器としてアウローラに襲い掛かる。
剣が、アウローラの肩を強打して。
激痛に顔を歪めて、けれどアウローラは止まらなかった。
強打された肩の先、手からナイフが零れ落ちる。
地面を踏みしめ、衝撃に堪え。
足を伸ばす動きと共に、アウローラは男の胸に頭突きを食らわせた。
もつれ合うように二人が倒れる。
男の手から剣が飛んでいき。
男にのしかかるような体勢になったアウローラが、拳を振るう。
その拳を、男がギリギリのところではじく。
軽い、拳だった。ろくに食事もとれていなくてやせ細ったアウローラの腕では、男の力で軽くはじかれる程度の膂力しかなくて。
けれど、アウローラは再び拳を叩き込む。
何度も、何度も。
隙をつかれても止めることなく、顔にあざを作り、肋骨を折られながら、とうとう男の顔面に拳を叩き込んだ。
それから、気絶するまで男を殴ったアウローラは、ふらつく足で立ち上がり、一目散にその場から逃げ始めた。
遠くから、皇国兵と思しき者の叫び声が聞こえた。
煙の中から飛んで来た矢が、アウローラの腕に突き刺さった。
痛みで目が滲んだ。漏れそうになる絶叫を、歯を食いしばって押し殺した。
矢を引っこ抜く。
視界がかすむほどの激痛が襲い、それから、アウローラの傷が一気に癒えていく。
アウローラは、走った。
焼け焦げた大地を飛び出して、偶然皇国兵が見張っていなかったその先へと、全力で走った。
そんなアウローラの背中を、遠くの小高い丘から見つめる者が、一人。
真っ黒なマントを身に着け、フードで顔を隠した男。彼は遠見の魔道具で逃げるアウローラを観察しながら、そのフードの奥でゆるりと口の端を吊り上げた。
「さて、君はイエルに導いてくれるかな?……アウローラちゃん」
風が吹く。
舞い上がったマントの奥には、美しい銀の装飾が施された黒い制服があって。
その胸元では、銀の美しい薔薇が一瞬だけ陽光を反射して輝いた。
アウローラが走っていく先は、かつてとある男が逃亡先に選んだだろう方向。すべてを再現した男は、彼とよく似た空気を持つアウローラなら彼の下へとたどり着くのではないかと、そんなことを思いながら、消えていくアウローラの背中を見送った。
「……追跡は頼むよ、ダディス」
御意、と一人の男が漆黒の人物の背後で傅く。
垂れた頭部のフードが風に舞い、その奥からまばゆい金髪が現れる。
顔を上げた男は、光のない碧眼で黒衣の男を一瞥した後、魔法を行使するために目を閉じ、精霊に祈りを捧げ始めた。
帝国兵も、街も、そこで暮らす住民も、全てが燃えた。
そこには何一つ残らず、ただ、焼け跡の中でアウローラは呆然と空を見上げていた。
大規模な火災のせいか、上昇気流によって持ち上げられた空気が冷やされ、灰を核として凝結して、静かに雨が降り始めた。
久しぶりの水な気がした。
呆然と空を見上げるアウローラに、炭化した街に、慈雨が染み込んでいく。雨と混じって、涙がアウローラの目から零れ落ちた。
何も、守れなかった――絶望がアウローラの心に広がる。
誰もが死んだ死の世界で、けれどやっぱりアウローラは生きていた。死ねて、いなかった。
自分は死にたいのだろうか――胸にぽっかりと開いた空洞を感じながら、アウローラは己に問いかける。
にじむ空を見つめながら、思い出したのは慈しみに満ちた姉妹、あるいは親子の再会の場面。あの場面を、もう一度見たかった。彼女たちと、もう一度会いたかった。
それから、久しぶり、なんて話をして、あの時助けてくれてありがとうなんて、そんな言葉を聞きたかった。
けれど彼女たちは、もういない。姉妹も、両親も、治療をしたその他大勢の人も、皆が灰となって消えて。自分はただ一人。
けれどその虚無の中で、ありがとう、ありがとうと、少女の言葉が木霊する。
救いたかったと、心が叫び出す。あの日常を、命を、守りたかったと魂が叫ぶ。
守りたかったのだ。アウローラは、彼女たちを守りたかった。
あの日のように、天へと手を伸ばす。そこには、真っ黒な雲に遮られた、地上に等しい死の世界が見えた。
愛しい存在を、慈しむべき存在を、この手で、守りたかったのだと、そう思いながら。
アウローラは伸ばした手で何かをつかむように握りしめた。
淡い緑の光が、アウローラを包み込む。
体を、起こす。気づけば、ぼろきれのような布は、かつてのそれのように、真っ白な回復兵らしい服へと変化していた。
炭と灰の世界にただ一つの、白い服。
腰には、刃渡り十五センチほどのナイフ。かつてアウローラが一人の命を奪った、あのナイフが、燃えることなく変わらぬ姿でそこにあった。
遠くから、足音が聞こえて来た。
おそらくは、かつてのように生き残りを、燃え残りを、あるいは少しでも皇国の魔法の威力調査をするために送り込まれた帝国兵を捕らえるための、皇国の兵士たち。
白煙にかすむ世界に、黒い影が映って。
アウローラは、腰に提げたナイフを抜き放ち、その影へと斬りかかった。
ギィン、と肉を切ったのとは違う音が響く。
「うお⁉」
アウローラが、さらに前へと出る。剣の刃の上を滑るようにナイフを動かして迫る存在を見て、皇国兵がぎょっと目を見開いた。
その懐へと、潜り込んで。
足を伸ばす動きと共に、アウローラは男の顎をナイフを持たない方の拳で打ち抜いた。
男の脳が揺れて、体が倒れる。
殺す覚悟は、できていなかった。けれど、守りたい者のために戦う覚悟はあって。
アウローラは、徹底的に体に叩き込まれた動きを、身を守るために鍛えた観察眼を生かして相方の男へと飛び掛かる。
剣が振りぬかれる。
しゃがんで回避。
頭を上げたアウローラの顔を見て、男が小さく息を飲んだ。彼は、アウローラのことを知っていた。かつて砦破壊の後、アウローラが捕らえられたときに、皇国兵の一人としてその男はいた。
アウローラが今度こそ敵として襲い掛かってきているという事実に飲まれたのは、一瞬のこと。こんな惨状に二度も巻き込まれれば俺だって反旗を翻したくなると、そう心の中で叫びながら、アウローラへと剣を振り下ろす。
その剣を前に、アウローラは突進を選んだ。
アウローラの肩口に、吸い込まれるように剣が近づく。
殺すつもりはなかった男の剣が、わずかにブレる。刃先が逸れ、長剣はただの鈍器としてアウローラに襲い掛かる。
剣が、アウローラの肩を強打して。
激痛に顔を歪めて、けれどアウローラは止まらなかった。
強打された肩の先、手からナイフが零れ落ちる。
地面を踏みしめ、衝撃に堪え。
足を伸ばす動きと共に、アウローラは男の胸に頭突きを食らわせた。
もつれ合うように二人が倒れる。
男の手から剣が飛んでいき。
男にのしかかるような体勢になったアウローラが、拳を振るう。
その拳を、男がギリギリのところではじく。
軽い、拳だった。ろくに食事もとれていなくてやせ細ったアウローラの腕では、男の力で軽くはじかれる程度の膂力しかなくて。
けれど、アウローラは再び拳を叩き込む。
何度も、何度も。
隙をつかれても止めることなく、顔にあざを作り、肋骨を折られながら、とうとう男の顔面に拳を叩き込んだ。
それから、気絶するまで男を殴ったアウローラは、ふらつく足で立ち上がり、一目散にその場から逃げ始めた。
遠くから、皇国兵と思しき者の叫び声が聞こえた。
煙の中から飛んで来た矢が、アウローラの腕に突き刺さった。
痛みで目が滲んだ。漏れそうになる絶叫を、歯を食いしばって押し殺した。
矢を引っこ抜く。
視界がかすむほどの激痛が襲い、それから、アウローラの傷が一気に癒えていく。
アウローラは、走った。
焼け焦げた大地を飛び出して、偶然皇国兵が見張っていなかったその先へと、全力で走った。
そんなアウローラの背中を、遠くの小高い丘から見つめる者が、一人。
真っ黒なマントを身に着け、フードで顔を隠した男。彼は遠見の魔道具で逃げるアウローラを観察しながら、そのフードの奥でゆるりと口の端を吊り上げた。
「さて、君はイエルに導いてくれるかな?……アウローラちゃん」
風が吹く。
舞い上がったマントの奥には、美しい銀の装飾が施された黒い制服があって。
その胸元では、銀の美しい薔薇が一瞬だけ陽光を反射して輝いた。
アウローラが走っていく先は、かつてとある男が逃亡先に選んだだろう方向。すべてを再現した男は、彼とよく似た空気を持つアウローラなら彼の下へとたどり着くのではないかと、そんなことを思いながら、消えていくアウローラの背中を見送った。
「……追跡は頼むよ、ダディス」
御意、と一人の男が漆黒の人物の背後で傅く。
垂れた頭部のフードが風に舞い、その奥からまばゆい金髪が現れる。
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