白猫のいない日常

雨足怜

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「結花、今日は部活ないの?」
「あるわ……って違うわよ、掃除当番でしょ。ほら、早く行くわよ」

 いつまで経っても帰り支度をしない私の腕をつかんだ結花が、強い力で私を椅子から引っ張り上げた。
 さすがテニス部。部活で鍛えられた筋肉と、細い腰には感心しかない。
 鍛えているのにただ筋肉質じゃないあたり、きっと結花はひどく気を使っているのだろう。今日の結花のお弁当も、油分と糖分を控えた、野菜多めのヘルシーなものだった。紫大根かラディッシュかわからない野菜とか、京都で見かけそうな黄色とか紫色の人参が、驚くほどの鮮やかさをお弁当に添えていた。

 見た目も中身も完璧なんて、どれだけそこに情熱を注いだのだろうか。
 自分の今日のお弁当の中身を思い出すと、少し悲しくなってきた。

「……あ、ちょっと待ってて」

 鞄に何も入れていなかったことを思い出して、私はあわてて机の中の教科書を詰め込んで、机の横に提げていたお弁当包みを最後に入れ、早くも教室から出ていこうとする結花に後に続く。

 あきれ顔の結花の横に並べば、小さな嘆息が聞こえた。

「そんなもの、置いていけばいいじゃない。重いでしょ」
「でも置き勉は資料集以外ダメだって話だし……」
「はぁ。真面目なのはいいけど、どうでもいいルールを守って馬鹿を見るのはどうかと思うわ」

 別に真面目さを気取るつもりはない。ただ、小心者の気質のせいか、ばれた時に小言を言われるのが怖いのだ。
 その点、堂々と教科書の類を置いていく結花の在り方には内心であこがれていたりするのだけれど……以前本音を口にしたら引かれたから、お口にチャックをしておいた。

「大体、学校に置いて行っていいのが資料集だけだっていうのがおかしいのよ。別に毎日家で使うわけじゃないんだから、分厚い教科書はおいていけばいいのよ。特に国語と社会よ」

 結花の不平不満は止まらない。
 聞いているうちにますます鞄が重くなっていくように感じられた。私の中で、にわかに国語や社会の教科書が存在感を増していた。

「確かに、社会はともかく、国語って使わないよね」
「そうよ。使わないものを持ち運ばせるなんてどうかしてるのよ」

 両手を広げて肩をすくめる結花を見ながら、私は苦笑するばかりだった。
 どうだろう、ここは結花にならって家で使わない教科書を置いていくべきだろうか。

 正直、肩に食い込んだ鞄の持ち手が痛い。対して結花の鞄は軽そうだ。
 まあ、部活用の運動着とかシューズを入れてきている結花の鞄は、教科書を詰め込んだ私の鞄より膨れてパンパンになっているのだけれど。

 重い原因はやっぱり、一年を通して使う国語の教科書だろう。分厚いうえに大判。
 それでいて最近の授業では先生が教科書のコピーを印刷して配布するから、持ってきてもほとんど出番がないのだ。
 教科書の存在意義が失われている気がする。それならいっそのこと電子教科書にすればいいと思うのだけれど、紙媒体で教科書を読むという行為自体は嫌いじゃないから少しためらわれる。

「さすがに中学上がってからは音読の宿題もないしね」

 言ってから思う。音読の宿題って、懐かしい響きだ、なんて。

 中学生になってからは「この範囲を読んできてね」という程度の指示はあったが、「読む」というのだから黙読でいいだろう。まあこの年になって親に音読を聞いてもらうというのは恥ずかしいことこの上ないし、これも成長なのだろう。
 少ししんみりしていると、結花の嘆息が聞こえてくる。

「あたしは音読嫌いだったわ。親が早くに帰ってこなくて聞いてもらえなかったからサインもしてもらえなかっただけなのに、担任がグチグチ文句を言うのよ。ほんと、あのおばちゃん先生、腹が立ったわ」
「ああ、北条先生? あの人、思い込みが激しかったよね」

 ……ああ、結花と仲が良くなったのはこうして小学校の話題を共有できるからかもしれない。同じ小学校出身ではあるし、結花と同じクラスになったこともあったけれど、私は結花とあまり話すことがなかった。グループが違ったのだからそんなものだ。

 もっとも、互いに相手のことを覚えていたから、中学に入ってから同じクラスになって、なんとなく話すうちに一緒にいることが多くなった。
 結花がいなかったら、私は違うグループに所属して学校生活を過ごしていたと思う。

 だからどう、というわけでもないけれど。

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