契約妃は隠れた魔法使い

雨足怜

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 胸の前で固く握られた手は、ひどく震えている。その拳が、決意と不安を表していた。

 フィナンは、その目で、その顔で、わたしに訴える。わたしに問う。

 今日自分を助けたのは、味方を失わないためか、あるいは――と。

 それはまるで神に救いを求めるようで、だからだろうか、石を飲み込んだように、胸の下あたりが重く感じられるのは。

 ごくりと、喉が鳴る。体から嫌な汗が噴き出すのを感じつつ、気持ちを引き締めるべく深く息を吸い、長く細く吐き出す。

 真摯に、心の中の奥底に眠る本音を掬い上げるために。

「……友人を、守るためよ」

 親友と、そう呼んでいいのかもしれない。けれどきっとフィナンは、親友だなんて表現すれば謙遜してしまうから。
 そうしたらきっと、わたしが伝えたい言葉が、フィナンに上手く届かない気がするから。

 だから静かに言葉を重ねる。心の奥底から現れて出でた言葉を吟味し、けれど脚色することなく、真なる表出を目指す。

「フィナンは知らないでしょう? わたしが、どれほどフィナンの存在に助けられているか」

 フィナンが居なければ――何度、そんなたらればを重ねただろう。

 フィナンが居ない日常。隣に誰もいない空白の日々。
 それは耐え難く、想像するだけで心臓が握りつぶされたように痛む。

 けれど、フィナンでなくてもいいというわけではない。
 わたしたちは、まるでパズルのピースがかみ合うように、今この時まで歩いてこられたのだ。

 他でもないフィナンだったからこそ、孤立無援の王城生活で、わたしは心を壊すことなく「わたし」でいられたのだ。

「私なんて、そんな」

 照れたからか、もじもじと指を突き合わせては離す。そのいじらしい姿に、けれど今は顔をほころばせることはしない。
 まっすぐに、伝えるために。フィナンに、自分の価値を知ってもらうために。

 ――わたしが選んだあなたは、確かに素晴らしい人なのだと、そう胸を張ってほしいから。恐怖なんてたやすく吹き飛ばしてほしいから。

「卑下するのはわたしが許さない。フィナンの存在は大きいの。今でこそ表立った敵はいないものの、使用人たちに心を許せるわけじゃない。ある日突然暗殺者が送り込まれるかもしれないし、ありもしない罪をでっち上げられるかもしれない。……罪の証拠をわたしの部屋に紛れ込ませるみたいに、ね」

 彼女たちは骨身にしみている。
 わたしと敵対すればどうなるのか、を。

 だが、彼女たちは、わたしの使用人である以前に王城に務める使用人であり、そして何より、家に縛られた存在だ。

 例えば本当の主人である国王陛下が黒だと言えば、わたしを黒にするために動く。実家からの要請があれば、そのように動く。

 わたしへの恐怖も、わたしとの仲も、彼女たちの足かせにはならない。

 でも。

「フィナンだけは違う。例え始まりが最悪の形であっても、罪悪感と恩の押し付けから始まる関係であっても、今のフィナンは信用できる。信頼できる。いいえ、こう言いかえた方がいいかもしれない――フィナンになら、裏切られても許せる」

 王城で独りだったわたしに安息をくれた。孤独から救ってくれた。
 時にポンコツな姿を見せてわたしを和ませ、時に暴走馬車のようにわたしを引っ張ってくれた。
 わたしが孤独の殻の中に閉じ籠ることを許さなかった。外とつないでくれた。

 そんなフィナンに裏切られるのなら、仕方が無いと許せる。

 ――けれど、そんなわたしの言葉は、フィナンの怒りに塗りつぶされる。

「私は、絶対に裏切りませんから!」

 固く胸の前で握られたこぶしは、力を入れすぎて肌が白くなっていて、震えていて。
 ただ、それでも届けずにはいられないと、叫ばずにはいられないと、フィナンは言葉を重ねる。

「たとえ何があろうと、家族や国王陛下から命令されようと、私は奥様の……クローディア様の味方ですから!!」

 クローディア――音が、心に染み入る。

 名前を呼ばれた。ただ、それだけの事。
 けれど、それだけ、なんて表現は決してふさわしくないほどに、わたしの心にはぬくもりが満ちていた。

 怒涛のようにあふれる感動、熱は血潮となってわたしの全身に広がっていく。

 いつの間にか、寒さはどこかに吹き飛んでいた。
 吹き抜ける風はむしろ心地よいくらいで、火照った頬の熱を冷ましてくれる。

 それでも興奮冷めやらぬ心のまま、一歩、わたしは大切な彼女のもとへと踏み込む。

「ありがとう」
「っ!」

 強く、強くフィナンを抱きしめる。
 感謝を、感動を伝えるために――他に、方法は取れそうになかった。

 最初こそ嫌々と身じろぎしていたフィナンだけれど、そのうちに動くことは無くなり、わたしの抱擁を黙って受け入れてくれた。

 きっと、今のフィナンは気づいている。
 わたしの体が、震えていることに。
 わたしの目から、とめどなく涙があふれていることに。

 精霊の宿り木の光が千々に乱れる。それはまるで無数の星のようで、瞬きすれば揺らぐ光は、満天の星空が飾る流星群のよう。

 震える腕で、決して離さないように。
 その手の中に感じる確かな熱を強く確かめるように、目を閉じて、彼女の首のあたりに顔をうずめる。

「う、ぁあ……っ」

 もらい泣きしたのか、気づけばフィナンの体も震えていた。

 漏れる嗚咽に宿るのは安堵なのか、喜びなのか、感謝なのか。
 ただ心の中で渦巻く感情のままに、わたしたちは互いの体を抱きしめて、夜の王都の街角で声を押し殺して泣いた。


 特別な人のために流す涙は、ひどく温かくて。

 次第に冷えていく空気に身が震えだすまで、わたしたちを長く、体の芯から温め続けた。
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