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第一章 幸せな今
初めての恋
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思い返せば私の記憶は、三年前に樂斗さんと出会ったところから始まる。
ガス灯に浮かび上がる、緑の屋根に白い壁の洒落たカフェ。閉まったばかりの店の横に立つ白い服の女――それが私だ。銀糸の入った青い制服の青年が、私に近づく。
「君、こんなところでどうした。そんな恰好で何を?」
彼の腰に下がった刀を見て、とっさに「逃げなければ」という思いが頭に浮かび、身を翻す。でも疲れ切っていたのか、身体に力が入らない。つまずいて倒れる寸前、伸びてきた彼の腕が私を支えた。
「危ない! いや、怪我もそうだが、いろんな意味で。若い女性が夜道に一人、しかも薄着一枚では危険だ。ほら」
青年は、当然のように自分の上着を脱いで私に着せかける。その時初めて顔を上げ、私は彼をじっくり眺めた。
藍色のサラサラした髪、精悍で整った顔、優しい光を湛える空色の瞳は誠実そうだ。
本能で彼を信頼できると感じた私は、その腕の中で気を失った。
目覚めた私は、お店の二階にある和室で布団の上に寝かされていた。驚くことに、私は自分のことを何一つ覚えていない。……いえ、正確にはたった一つ『鷹花』という名前だけは、すぐに答えることができた。
私が気を失っている間に、側にいた女性が汚れた私の身体を拭いてくれたそうだ。彼女はその時、太ももの内側にある痣に気づいたと言う。
「痣……ですか?」
それすら記憶になかった私は、ためらいもなく着せられていた浴衣の裾をめくる。
「あ、本当ですね」
ちょうどその時、誰かがふすまを開けた。
「なっ……。いったい何を!」
私を助けた青年が、驚き固まる。
私は浴衣の裾を下ろすことも忘れて、彼をポカンと見つめた。
――背の高い彼とこの女性は、ご夫婦かしら?
初めはそんなことを考えた。
後から二人が姉弟だとわかり、私はなぜかホッとする。
青年は『樂斗』と名乗り、「君を保護したのは俺だから、回復するまで面倒をみる」と宣言した。「記憶がないなら、取り戻すまでここにいていいよ」とも言ってくれる。
優しい言葉に目頭が潤んだ。
でも、私が最近面倒をかけているのは、姉の芽衣子さんのような気が……。
*****
「……花、鷹花」
樂斗さんの声で我に返る。
いけない、名前を呼ばれていたみたい。
「はい、なんでしょう?」
「明日は店も休みだし、俺も非番だ。たまにはどこかへ行くか?」
「いいですね! 芽衣子さんはどこがいいですか?」
「あたし? もちろん遠慮しておくわ。馬に蹴られたくないもの」
「馬ですか? この辺にいるとは思えませんが……」
「人の恋路を邪魔するやつは、馬に蹴られて……ってね?」
「???」
帝都は都会で、お金持ちは新しくできた「車」というものに乗るようになった。そのため馬が怖がって、この辺はめったに馬車が通らない。
首をかしげる私と、肩をすくめる芽衣子さん。樂斗さんは困ったような顔をしていた。
あくる日、私は樂斗さんと一緒に帝都近くの河原に来ていた。二人とも着物姿だけれど、樂斗さんは着流し姿もよく似合う。
「本当に、こんなところで良かったのか?」
「はい。ずっと気になっていました」
カフェの常連、典雅さんがこう教えてくれたから。
『釣りをしなくても、川は見るだけでもいいぞ。水には心を癒す効果があるらしい』
『そうなんですね。いつか行ってみたいです』
『いつとは言わず、今からでも……』
『ほらほら鷹花、他のお客様がお呼びよ。それからあなた、この子にデートの誘いなんて百万年早いわよ』
百万年後は、誰もいないと思うの。
芽衣子さんはたまたま機嫌が悪かったらしく、私は早々に追い払われてしまった。
その日の話はそれで終わり。
けれど川には、いつか行ってみたいと思っていたのだ。
樂斗さんが笑いながら、河原に真っ白なハンカチを広げてくれる。
「どうぞ、お嬢様」
お嬢様という言葉を聞いて、頭の隅に何かが浮かぶ。でもそれは、煙のようにあっという間に消えてしまった。
「どうした? 遠慮せず、座るといい」
「ありがとうございます」
赤い生地に白い小花柄の着物は、芽衣子さんに借りたもの。汚したくないので、正直助かる。帯は淡い亜麻色、帯紐は浅葱色を合わせていた。私より背が高い彼女の着物にしては、丈や袖の長さが私にぴったりだ。
私は樂斗さんが用意してくれた白いハンカチの上に座り、彼の横で川をボーッと眺めた。
吹く風は優しく、時々聞こえる鳥の声。
自然の中にいると、自分がちっぽけな存在に思えてくる。過去を忘れた悩みなど、大したことがないような。建物に遮られない空は広く、抜けるように青い。
ふいに樂斗さんが立ち上がり、川に近づく。
彼が石を投げ入れると、あら不思議。ただの石が、水面をピョンピョン跳ねていく。
興奮した私は、彼に走り寄る。
「すごいです! どうすればそんなふうにできるのですか?」
「簡単だ。平らな石をこう握って、回転させれば……」
彼の大きな手が、私の手を包んで石を握らせた。ただそれだけのことなのに、近づく距離に胸が苦しい。そのため、私は――。
「すみません。石を握り潰してしまいました」
「そっちの方がすごいな」
せっかく握らせてくれたのに、平らな石は私の手の中で砕けてバラバラに。
緊張すると、なぜかこうなってしまうのだ。
力が強すぎて、私は彼に嫌われた?
唇を噛みしめて、泣くのを必死に我慢する。
「たまたまだろう。気にするな」
姉の芽衣子さんから事情を聞いて知っているはずなのに、彼はどこまでも優しい。
「それよりこれを。今度は強く握らないでほしい」
樂斗さんが袖のたもとから取り出したのは、桃色のリボンがついた金色の鈴だった。彼はそれを私の手のひらの上に置く。
「これは?」
「街で手に入れた。可愛い音を聞いた時、鷹花を思い出したんだ」
熱くなった頬をごまかすように、私は金色の鈴を顔の前で振ってみた。
「本当ですね! 綺麗な音です。ありがとうございました」
返そうとする私の眼前で、樂斗さんが首を横に振る。
「持っていてほしい。鷹花のために買ったんだ」
「あ……ありがとうございます」
私は贈り物の鈴を握らないよう、手の平でそっと包む。
「すでに察しているとは思うけど、俺は君が好きだ。このままずっと側にいてほしい」
突然の告白に、私の心臓が早鐘を打つ。
驚きと喜びがごっちゃになって、顔がますます熱くなる。
けれど――
「過去を思い出せない女など、気持ち悪くはないですか?」
「どうして? 鷹花は鷹花だろう。一生懸命頑張る姿と笑顔が好きだ」
「私にはなんの取り柄もありません。だから、笑うしかなくて……」
「明るい君に癒されている者は大勢いる。だが、つらい時には無理して笑わなくていいんだ。俺はそのままの君がいい。これからは、俺に君を支えさせてくれ」
「樂斗さん……」
夕日に輝く水面を眺めながら、私は優しい人の優しい言葉を胸中で反芻する。
本当はもう、とっくに気づいていた。
彼の姿を見るだけで、心がときめくわけを。
彼の声を聞くだけで、顔が綻ぶ理由を。
「私もあなたが好きです」――素直にそう言いたい気持ちを、私の中の何かが押しとどめた。
ガス灯に浮かび上がる、緑の屋根に白い壁の洒落たカフェ。閉まったばかりの店の横に立つ白い服の女――それが私だ。銀糸の入った青い制服の青年が、私に近づく。
「君、こんなところでどうした。そんな恰好で何を?」
彼の腰に下がった刀を見て、とっさに「逃げなければ」という思いが頭に浮かび、身を翻す。でも疲れ切っていたのか、身体に力が入らない。つまずいて倒れる寸前、伸びてきた彼の腕が私を支えた。
「危ない! いや、怪我もそうだが、いろんな意味で。若い女性が夜道に一人、しかも薄着一枚では危険だ。ほら」
青年は、当然のように自分の上着を脱いで私に着せかける。その時初めて顔を上げ、私は彼をじっくり眺めた。
藍色のサラサラした髪、精悍で整った顔、優しい光を湛える空色の瞳は誠実そうだ。
本能で彼を信頼できると感じた私は、その腕の中で気を失った。
目覚めた私は、お店の二階にある和室で布団の上に寝かされていた。驚くことに、私は自分のことを何一つ覚えていない。……いえ、正確にはたった一つ『鷹花』という名前だけは、すぐに答えることができた。
私が気を失っている間に、側にいた女性が汚れた私の身体を拭いてくれたそうだ。彼女はその時、太ももの内側にある痣に気づいたと言う。
「痣……ですか?」
それすら記憶になかった私は、ためらいもなく着せられていた浴衣の裾をめくる。
「あ、本当ですね」
ちょうどその時、誰かがふすまを開けた。
「なっ……。いったい何を!」
私を助けた青年が、驚き固まる。
私は浴衣の裾を下ろすことも忘れて、彼をポカンと見つめた。
――背の高い彼とこの女性は、ご夫婦かしら?
初めはそんなことを考えた。
後から二人が姉弟だとわかり、私はなぜかホッとする。
青年は『樂斗』と名乗り、「君を保護したのは俺だから、回復するまで面倒をみる」と宣言した。「記憶がないなら、取り戻すまでここにいていいよ」とも言ってくれる。
優しい言葉に目頭が潤んだ。
でも、私が最近面倒をかけているのは、姉の芽衣子さんのような気が……。
*****
「……花、鷹花」
樂斗さんの声で我に返る。
いけない、名前を呼ばれていたみたい。
「はい、なんでしょう?」
「明日は店も休みだし、俺も非番だ。たまにはどこかへ行くか?」
「いいですね! 芽衣子さんはどこがいいですか?」
「あたし? もちろん遠慮しておくわ。馬に蹴られたくないもの」
「馬ですか? この辺にいるとは思えませんが……」
「人の恋路を邪魔するやつは、馬に蹴られて……ってね?」
「???」
帝都は都会で、お金持ちは新しくできた「車」というものに乗るようになった。そのため馬が怖がって、この辺はめったに馬車が通らない。
首をかしげる私と、肩をすくめる芽衣子さん。樂斗さんは困ったような顔をしていた。
あくる日、私は樂斗さんと一緒に帝都近くの河原に来ていた。二人とも着物姿だけれど、樂斗さんは着流し姿もよく似合う。
「本当に、こんなところで良かったのか?」
「はい。ずっと気になっていました」
カフェの常連、典雅さんがこう教えてくれたから。
『釣りをしなくても、川は見るだけでもいいぞ。水には心を癒す効果があるらしい』
『そうなんですね。いつか行ってみたいです』
『いつとは言わず、今からでも……』
『ほらほら鷹花、他のお客様がお呼びよ。それからあなた、この子にデートの誘いなんて百万年早いわよ』
百万年後は、誰もいないと思うの。
芽衣子さんはたまたま機嫌が悪かったらしく、私は早々に追い払われてしまった。
その日の話はそれで終わり。
けれど川には、いつか行ってみたいと思っていたのだ。
樂斗さんが笑いながら、河原に真っ白なハンカチを広げてくれる。
「どうぞ、お嬢様」
お嬢様という言葉を聞いて、頭の隅に何かが浮かぶ。でもそれは、煙のようにあっという間に消えてしまった。
「どうした? 遠慮せず、座るといい」
「ありがとうございます」
赤い生地に白い小花柄の着物は、芽衣子さんに借りたもの。汚したくないので、正直助かる。帯は淡い亜麻色、帯紐は浅葱色を合わせていた。私より背が高い彼女の着物にしては、丈や袖の長さが私にぴったりだ。
私は樂斗さんが用意してくれた白いハンカチの上に座り、彼の横で川をボーッと眺めた。
吹く風は優しく、時々聞こえる鳥の声。
自然の中にいると、自分がちっぽけな存在に思えてくる。過去を忘れた悩みなど、大したことがないような。建物に遮られない空は広く、抜けるように青い。
ふいに樂斗さんが立ち上がり、川に近づく。
彼が石を投げ入れると、あら不思議。ただの石が、水面をピョンピョン跳ねていく。
興奮した私は、彼に走り寄る。
「すごいです! どうすればそんなふうにできるのですか?」
「簡単だ。平らな石をこう握って、回転させれば……」
彼の大きな手が、私の手を包んで石を握らせた。ただそれだけのことなのに、近づく距離に胸が苦しい。そのため、私は――。
「すみません。石を握り潰してしまいました」
「そっちの方がすごいな」
せっかく握らせてくれたのに、平らな石は私の手の中で砕けてバラバラに。
緊張すると、なぜかこうなってしまうのだ。
力が強すぎて、私は彼に嫌われた?
唇を噛みしめて、泣くのを必死に我慢する。
「たまたまだろう。気にするな」
姉の芽衣子さんから事情を聞いて知っているはずなのに、彼はどこまでも優しい。
「それよりこれを。今度は強く握らないでほしい」
樂斗さんが袖のたもとから取り出したのは、桃色のリボンがついた金色の鈴だった。彼はそれを私の手のひらの上に置く。
「これは?」
「街で手に入れた。可愛い音を聞いた時、鷹花を思い出したんだ」
熱くなった頬をごまかすように、私は金色の鈴を顔の前で振ってみた。
「本当ですね! 綺麗な音です。ありがとうございました」
返そうとする私の眼前で、樂斗さんが首を横に振る。
「持っていてほしい。鷹花のために買ったんだ」
「あ……ありがとうございます」
私は贈り物の鈴を握らないよう、手の平でそっと包む。
「すでに察しているとは思うけど、俺は君が好きだ。このままずっと側にいてほしい」
突然の告白に、私の心臓が早鐘を打つ。
驚きと喜びがごっちゃになって、顔がますます熱くなる。
けれど――
「過去を思い出せない女など、気持ち悪くはないですか?」
「どうして? 鷹花は鷹花だろう。一生懸命頑張る姿と笑顔が好きだ」
「私にはなんの取り柄もありません。だから、笑うしかなくて……」
「明るい君に癒されている者は大勢いる。だが、つらい時には無理して笑わなくていいんだ。俺はそのままの君がいい。これからは、俺に君を支えさせてくれ」
「樂斗さん……」
夕日に輝く水面を眺めながら、私は優しい人の優しい言葉を胸中で反芻する。
本当はもう、とっくに気づいていた。
彼の姿を見るだけで、心がときめくわけを。
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