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儀式

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 ザワザワと広がるさざ波のような音で、ノアは目が覚めた。
「うっ」
 身体の至るところが痛い。どうやら床に転がされていたらしく、後ろ手に縛られている両肩が悲鳴を上げている。ノアがその重いまぶたをどうにか開けるも、うつ伏せになったままの視界にはなにも映らない。
 その代わりに、ノアが目を覚ましたことも周囲には認知されていないようで、ざわつく周囲の声がまっすぐに耳に入った。
「ユネーブ様。神子様にこのようなことをしても本当によろしいのでしょうか」
「大神官長様がいくら神竜派とはいえ、神子様をこのように扱うなど許されません」
 ノアが知らない若い声が、いくつも抗議の言葉を言い募る。
「さて。本物の神子様であれば、神竜様のご加護があるはず。この与えられた窮地でも、難なく脱出されるのではないでしょうか」
 ユネーブは相変わらずのらりくらりと、どうとでもとれる物言いをする男だった。しかしその言葉にはなにか不思議な力があるのだろうか、周囲の神官たちは「それもそうですね」「神竜様のご加護がありますように」と言い、どうやら納得したらしい。そのまま退出の言葉と共に去って行き、室内の空気がシンと静まり返る。
 しかし時折衣擦れが聞こえる。ユネーブだけは、ノアのいるこの場に残っていた。
 睡眠効果の強い香を吸い、倒れてしまったノアを拘束したのはこの男に違いない。コネハだけでも飽き足らず、話をすると嘘をついてノアを罠に嵌めたのだ。
 怒りを通り越すと、人は冷静になる。少しずつ指先に力が入り、香の効果が次第に薄れていくのが分かった。完全に力が戻れば、縄程度ならば引きちぎれる――そう思った時だった。
「ユネーブ!」
 大きな音を立てて扉が開かれ、ドスドスと荒い足音が聞こえた。しゃがれたこの声の持ち主は、大神官長だった。僅かに顔を横にして見ると、怒りで頭まで赤くしていた。
「どうなっておる! 神子と一緒に来たあの獣人が逃げ出しただと! まったく……獣風情がこの神殿で好き勝手しおって生意気な!」
 その言葉にノアは一安心した。ノアがどうなろうと構わないが、コネハがいたぶられることを想像するだけで辛抱ならなかったからだ。むしろこんな所から逃げ出すなんて、よくやったとすら思った。
 コネハの性格を考えると、ノアを探してしまいそうな部分は不安材料だ。
「大神官様、何を慌てていらっしゃるので? 我々の計画に、神子の保護者のようなあの獣人は邪魔な存在でした。むしろ自ら消えてくれたのなら、手間も省けたのでは」
「ええい、五月蠅い! 十五年前もそう言って、あの女神子を取り逃がしたのを忘れたのか! 全く……まさか親から子へと神子の力が受け継がれるとは盲点だったわい。親子共々忌々しい限りじゃ!」
 ノアの耳に聞えてくる声は、あの冷たい目をした大神官とユネーブのものだった。そして鋭い殴打音が聞える。どうやら激昂した大神官が腹いせにユネーブを殴ったようだ。
(親子共々……? 女神子って、僕の母のことなのか?)
 不穏な周囲に目覚めを気取られぬようにして、ノアは必死でぼやけた頭を動かした。大神官長の言葉には、自分の欲しかった答えが含まれている気がするのだ。全ての謎を解く鍵がきっとここにある。
 それなのに飲まされたお茶の影響か、考えはすぐに霧散してどうにも思考がまとまらない。
「まあこの神子が母親の能力を受け継いだのなら、あの女神子もとうに死んだということだな。母親の後を追わせてやるのもまた、神竜様の慈悲……そう思わぬか」
 ノアの顔から血の気が引いた。結局母は死んでしまったのか? 顔も知らない母親の死に心が強く揺さぶられる。この国に来た時に、親の生死は分からなかった。だが母ミナリがノアを育てたという事は、ひょっとしたら産みの親に直接託されたのかもしれない。
 そう冷静に考えるものの、えも言われぬ虚脱感が襲う。
「この世は神竜様のご加護があれば良いのだ。生きた神子など、扱い難うてかなわん。あの女も、神子などと呼ばれて調子づきおって! 大人しく我々の傀儡とり、平民から金を吸い上げればいいものを勝手ばかり!」
 ドン、と大神官長が拳を振り下ろす。
 神竜派、いや大神官長にとっての神子は、己の利権を揺るがす存在なのだ。大神官長は神竜派などですらない。神子はただ金を生み出すと考えているだけの、金の亡者だ。
 ノアの心臓が、嫌な音を立てる。
 コネハが無事に逃げた今、ただここで殺されるのを待つほど弱い人間でもない。少しずつモヤが晴れていく思考を巡らせ、どうやって逃げようかと算段し始めた。
 後ろ手で縄で縛られ、床に転がされているものの、少しずつ揺すれば気づかれず隙間ができるかもしれない。幸か不幸か足は何もされていないため、全員の注意が逸れればこの場所から逃げられる可能性もゼロではない。
 盗み見た窓から見える空は随分高く、どうやら棟の上に運び込まれているようだった。
「十五年前、勝手に逃げてくれたのは良かったがな。辺境で殺したと報告で安心しておったが、まさか同じ顔の息子がこうしてノコノコやってくるとは」
 その言葉に、ノアの身体は固まった。
 自分の母親が神殿の関係者に殺されたと、殺したのだと。ノアの耳に入っているなどと露ほど思わないのだろう大神官は、自らの罪を誇らしげに口にする。
「これも神竜様のご加護じゃ。この者の癒やしの力をこの身に取り込むことができれば、我が唯一無二の存在になれる。神子など煩わしいばかりだと思っていたが、我のための素材と思えば可愛く見えてくるものだな」
 神殿内の地位、派閥、信仰。そんなもののためにノアの母は殺されたのだ。
 癒やしの力を持っていたのだろう母は、ノア同様、自分を治療することもできずに命を落としたのかもしれない。それがどれだけ苦しかっただろうか。恐ろしかっただろうか。
(僕には母の記憶はない。十五年前……僕が五歳の時。母は一体何歳だったんだろう)
 ノアは後ろ手に縛られた己の手のひらを、きつく握りしめた。
 思い出にない、産みの母。だがノア自身がここにいるのは、その母が自分を守ってくれていたお陰なのだろう。命を繋げてくれた、母。その母が今この目の前にいる人間たちの利益によって追い詰められ、何の罪もなく殺されたのだとしたら。
 許せる訳がない。
「さあ、ユネーブ。儀式を始めるとするか。この床に張り巡らされた術で、神子の癒やしの力を儂に移せるのじゃな?」
「ええ。過去にこの方法で奪えたと、禁書にそう記してありました。しかしいいのですか、その代わりにこの神子は命を落としてしまいますが」
「構わん」
 その上この大神官長は、さらに自らの利益のためにノアを殺し、唯一の力を奪い取ろうとしている。この力は私利私欲のために使うものではない。
 そしてそれはごく自然に、きっとノアの母親も同じ考えだったと思えた。神殿に強要され力を権力のために搾取されたくないと、そう考えた逃げたのだろう。
 ノアは自分を落ち着かせるためにゆっくりと息を吸い、そして細く細く息を吐いた。
 それから腹に力を入れ、身体をバネのように使い一気に立ち上がる。
「な……っ、貴様っ……?」
 戸惑うその声は一瞬。ノアはすぐに周囲を見渡し状況を確認した。室内にいるのは大神官長とユネーブだけだ。動揺する大神官長を、素早く蹴りあげる。
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