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アノーレ国とブブ

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 傾斜の強い三角屋根の家が狭い感覚で建ち並ぶ。石畳の路面に面した家のほとんどは、個人の家ではなく商店だ。多種多様な看板がぶら下げられた商店街は賑やかで、無数に行き交う人々は慣れた様子で譲り合って歩く。
 時折子供たちが走り回って人の間をすり抜けていくのは、見ていて少しだけハラハラする光景だ。一人の子供は途中で大人にぶつかって、結局尻餅をついて泣いてしまった。
「あーあ……」
「あーあ、じゃないのよ。ノア、次はこれを運んでちょうだい」
「わっ、ブブ。ごめん」
 ノアはぼんやりと眺めていた窓の外から意識を戻し、渡された皿を慌てて受け取った。
「ぼんやりするのは、お客さんがいない時だけにしてちょうだいよ」
 この飲食店のオーナーでありシェフのブブは、自由になった太い腕をムンと曲げて筋肉をアピールする。つるりと禿げた頭に光が反射して眩しい。女性のような口調だが、これでいて愛妻家で人が良いのだ。
 得体の知れないノアを自分の店で雇う程度には懐が深い。
 ノアがここ人間の国、アノーレ国に来て一週間が経つ。竜人の村があった山を下りるまでも紆余曲折あったが、どうにか下山しきったところでノアは疲れと空腹で倒れてしまい、それを助けてくれたのがたまたま新婚旅行帰りだというこの店主、ブブだった。
 ノアは知らなかったが、暮らしていたあの山は神々が住まう山として人間たちの信仰の対象だったそうだ。聖なる山の麓でで出会った縁だからと、ブブはこうして行き場のないノアを受け入れてくれている。
「ほんとゴメン! 三番テーブルだね、行ってくる」
 昼食の時間もすっかり終わり、まばらな客席をノアは見渡した。そして言われたとおりに注文の皿を盛っていくと、客の男はじっとノアの顔を見つめた。
 その視線に、ノアは首を傾げる。確か何度も来てくれる男だった。ノアよりも少し色の白い、そばかすの目立つ人間の男。
 この国に暮らす人々は、竜人のように目の周囲に煌めきがない。爪もおおよそ短く、少し長い人間でも丸く整えられていた。街にいるのは誰もが自分と似たような肌色で、雑踏に混じればノアも群衆に交じれる気がした。
 この男もノアと同じだ。それがノアは嬉しくて、思わずにっこりと最上級の微笑みで客に応えた。
「なにかありました?」
 視線を合わせたまま、そう問いかける。料理が違ったのだろうか、それともノアが別の失敗をしたのだろうか。山育ちのノアは人間の、この国の常識に疎い。単純にそう思い聞いたものの、男は何も言わず顔を赤くした。
 そして思い詰めたような表情で、ノアの手を両手で掴む。
「あ、あのさ。よかったら、仕事のあと俺と――」
 上擦った声で話しかけられた瞬間、いつの間に近くにいたのか、ブブの手が男の両手をバシンと叩いた。
「はーいはい、うちの店は店員お触り厳禁! 触って良いのはアタシの僧帽筋だけよ!」
「んなっ、お、俺はそんなつもりじゃ。ほ、本気で」
「はいはい、ノアに見た目で惚れるやつはみんなそういうのよっ。ほらぁ、腕を触らないならアタシ自慢の料理を平らげてよぉ。アタシの料理になら、なんぼでも惚れてもいいんだからねっ。あっ、心と体は奥さんだけのものだから、ごめんなさいねえ」
「いや、おっさんに興味ねぇからっ! ったく。ブブには叶わないぜ」
 ブブはいや~んと笑って男の背中をバシバシと叩く。不思議と許してしまえる雰囲気になるから不思議だ。客の男も苦笑しながらもフォークを持ち、食事を開始した。
 目配せを寄越すブブに苦笑しながらも、ノアはありがたくキッチンの方へと下がった。こうして客に絡まれるのにもすっかり慣れてきてしまったし、そのたびにブブがフォローしてくれるのだからありがたい。
 だが、どうしてノアは自分だけこれほど声をかけられるのか、その本質は理解していない。
「田舎者だって、バレてるのかな。それとも、簡単に騙せるように見えてる?」
 キッチンにある小さな鏡を覗き込んでも、そこにあるのはノアにとって平凡な容姿の男がいるだけだ。ノアの周りにいたような、美しい竜人たちのような顔ではない。
 ノアは最初の時点でブブと奥さんにだけ、自分が竜人たちの村で暮らしてきた事実を軽く話した。だけどそのことは決して周囲に言わないようにブブに念押しされている。どうしてかと聞いても、そんなことを言っては変な目で見られるからとしか言われていない。
 だけどどうにも、ノアは冗談で言っていると捉えられているようだ。
 とはいえずっと小さな村で暮らしていたノアは、人間の常識に疎いことは自覚していた。優しいブブがそう感じたのなら、きっとノアが竜人村にいたことは、それだけ突拍子もない話なのだろう。
 自活のため一人で家を出てきたというノアの言葉は、せめて信じてくれていると思いたい。
 旅に出るといって聞かないノアを、自分の店に引き留めてくれたのもブブだ。この店の接客を通して、ブブにはノアに足りない常識を折に触れて教えて貰っている。
 鏡を覗き込み、右に首を傾げ、左に首を傾げてもノアにはブブとノアの差は毛髪と筋肉量くらいにしか感じていない。だからノアはどうして自分だけ声を掛けられるのか、未だ理解できていないのだ。
「うーん。至って平凡な顔だけど、何が違うんだろ」
「あんたが自分の容姿を自覚しない限りは、わかんないと思うわよぉ」
 いつの間にか戻ってきたブブが、鏡に向かうノアにそう呆れた声をかけた。
 まるでノアが声を掛けられるのは、ノア自身に魅力があるせいだと言っているようにも聞こえる。だがそれは間違いだとノアは強く断言できる。
「僕はちゃんと自覚してるよ。僕みたいな容姿、どこにでもいるでしょ」
 だからいつもこうして主張するのに、ブブはやれやれと言った態度で両手を挙げる。
「ノアは可愛い顔をしてるのに、妙に無自覚なのよね。そのキラキラした目で見つめられると、アタシでさえなんか変な気分になっちゃう。これだけ何回も言い寄られてるんだから、そろそろ自覚して自重して欲しいワ」
 自覚しろと重ねて言われてるが、いつもノアにはよく分からない。容姿が優れているという言葉は、あの村の人々にこそふさわしいと思っているからだ。
 肌も生白く体つきも貧相で、目ばかり大きくてバランスが悪い。だから何をどう自覚したらいいのかずっと理解できないが、いい加減ブブに何度も同じ注意をさせてしまうのも申し訳なく思っていた。
 だがノア本人は気付いていないだけで、ノアは十二分に美しい。中性的で美しくも可憐な容姿は人目を惹き、その大きな瞳で真っ直ぐに見つめられると心を乱される。常連の間では魔性だとすら囁かれているほどだ。本人だけは基準が桁違いに美しい竜人であるため、自分の容姿は平凡かやや醜いのではとすら勘違いしているのだ。
 ブブの言葉に傾げそうになる首を気合いで持ち直し、ノアは「そうだね?」と頷くとブブは安心したように笑った。
「ほんとに、山の麓でこんなカワイコチャンが行き倒れてるんだから、拾って正解だったわ。新婚のアタシと奥さんじゃなかったら、奴隷市場に売られても文句は言えないんだからね」
「うん。本当に二人には感謝してるよ」
 助けてもらい仕事と寝る場所を与えてくれたブブには感謝してもし足りない。だからそう素直に言葉にしたのに、ブブは唸って頭を抱えて身体を捩る。
「んもおおおお! そういうところなのよ、そういうところ! じっと見つめないでちょうだいっ! 可愛く微笑まないでちょうだいっ! あんたって子は、アタシの言うこと絶対理解してないでしょ!?」
 図星をさされたノアはサッと視線を逃がすと、ブブは「あんたは~~」と男声を出して睨んでくる。そう言いながらもブブの目は優しくて、それが冗談半分なのだと分かっている。本当にノアはいい人に拾って貰えたものだ。
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