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さよなら

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 この世界に暮らす人種は三種類ある。人間と、獣人と、竜人だ。人間は様々な肌色で、それぞれが大小さまざまな集落を作って暮らしている。獣人は獣の顔に人間の身体を持ち、力が強い。そして竜人は、人間とよく似ているが獣人以上の力を持ち、竜に姿を変えることができるのだ。
 獣人と竜人は交流がある。獣人と人間も交流がある。だけど人間と竜人は対等ではなく、人間は竜人を畏れている。人間は争いを好み、同族同士で殺しあう。竜人であればたやすく使える魔力すら、大昔の戦いで消耗してしまい、今はほとんど使える者はいないという。
 ノアは幼い頃にそう教わった。そしてそんな愚かな人間が怖いと言った記憶がある。
「母さんは、困った顔で笑ってたっけ」
 大丈夫よ、この村に人間なんていないから。そう言って小さなノアを抱きしめてくれていた。
 実際ノアは、今まで村で人間を一度も見たことはない。この高い山にある村に訪れるのは、限られた獣人だけだった。彼らも村人の招き入れがない限り勝手に入ってくることはできない。それに安心していた幼い自分の愚かさを、ノアは思わず笑いたくなった。
 先ほど両親の会話も、嘘だと思いたかった。だが今までの様々な出来事をはめ合わせていくと、二人の会話は事実なのだろうと確信できた。
 ノアだけ容姿が醜く、ノアだけ非力で、ノアだけ無能なのは人間だからだ。
 自分が極端に弱いのではなくて、皆が強いのだ。肌の色が違うのは体質ではなく、ノアが違うだけなのだ。皆が使えない治癒力を、ノアだけが持っているのは人間だからだ。
 ノアだけが、か弱くて愚かな人間なのだ。
「……っ」
 よその村の人間ではないかと、そう思ったこともあった。拾われた子なのだろうと薄々は感づいていた。だけどまさか、彼らと種族すら違うなんて誰が思っただろうか。
 竜人よりも劣る人間。竜人が愚かだと言い放つ人間(ノア)を、どうして彼らが受け入れてくれたのかは分からない。そんなノアを慈しんでくれた家族に、もちろん感謝と愛情はある。
 だが。
「人間の僕が、竜人たちの村の村長なんて……無理でしょ」
 ノアの正体が、村内でどこまで知られているのかは分からない。それでも家族が望むような、ノアに村長などは現実的ではないだろう。
 皆と違う理由が明確に分かってしまった今、それは確かなもののように思えた。
「ノア……? ……どうしたんだ……」
「っ、コネハ。ごめんね、起こしちゃった?」
 布団の中であれこれと考えてしまい、もぞもぞとしていたせいか。隣のコネハが寝ぼけたような声を出す。
 慌てて見ればまだ目は開けておらず、まさに夢うつつの様子だった。スリスリとノアの身体に身を寄せる見慣れた姿からは、自分とは違う生き物だと言われてもピンとこない。
 褐色の肌、銀色の瞳。強い力を持った、ノアの弟。
「怖い夢でもみたのか? だいじょうぶ……俺が……ノアをまもるから……」
「うん。うん……ありがと、コネハ」
 いじらしいその言葉に、目頭が熱くなる。昔からコネハは、ノアを大切にしてくれた。ノアだけではない、両親も、村の者たちもだ。
 そっと頭を撫でてやると、安心したように呼吸が深くなった。そしてノアをグッと抱き寄せて、寝息は穏やかなものへと変わる。
 ノアは震える呼吸を大きく吸い、そして吐いた。
 いつまでも可愛いノアの弟は、年上のノアさえいなければ「弟」ではなかったはずなのだ。
 窓に目を向けると、月は随分空高くある。
 コネハの体温を側に感じながら、ノアは一つの決意を固めた。
 この村を、出て行こうと。
 
 それからのノアの行動は、驚くほど早かった。
 絡みつく弟の腕をそっと外し、静かにベッドを下りる。動作音がしないように気をつけながら、普段使っている肩掛け鞄を取り出した。一番大きなこの鞄は、ノアが十八の誕生日に母が贈ってくれたものだ。村内で作られている特別製の鞄には、見た目以上に物が入る。
 下界の気温が分からないため、薄手と厚手の服を二種類、そこへ入れた。手持ちの服の中で一番新しいものは、コネハが選んでくれたものだ。少し明るい黄色のシャツがノアに似合うと、楽しそうにしていたことを思い出す。
 うっかり感傷に浸りそうになった自分を叱責し、首を左右に振って雑念を振り払った。
 それから子供の頃から貯めていたお金を入れた。暮らしの中ではあまり使うことがなかったそれは、麓でどんな価値があるのか分からないがないよりはマシだと考えた。
 身体を拭く大きめの布、万が一の野営を考えて薄手の毛布。それらを次々と放り込み、寝間着から外出着へと着替える。いつもの帽子を被ったところで、弟の言葉を思い出す。
――日差しにあたりすぎたら危ないから。ちゃんと被れって。
 自分は炎天下でも何もしないくせに、本当に過保護なのだ。
 優しい、大切な弟がいたことをノアは忘れないようにしようと思った。鼻をズッとすすって、腕で乱暴に目元を拭った。
 コネハが寝ていることを確認し、ノアは鞄を抱えて扉を開ける。
 両親も既に寝静まっていることを確認して、台所へと入った。食器棚に入っている母お手製のクッキーを大缶ごと失礼して、朝食用のパンも鞄に入れさせて貰う。
「……ごめんなさい」
 テーブルを指でなぞる。ここにはいつも家族四人で使っていた。正面に父、左右に母とコネハと決まっている。朗らかな家族は、いつだって自分を本当の家族のように愛してくれた。
 だけど自分がここにいることで、家族に迷惑がかかる。誰より、愛する弟に一番迷惑がかかるのだ。自分さえいなければ、コネハが父の跡を継ぎこの村を纏めてくれる。コネハには父同様、それだけの能力があるのだ。
 ノアはテーブルに座り、夜から朝へと変わる薄明かりの下で手紙を書いた。
 両親の会話を聞いてしまったこと。弟の未来を自分がいることで狂わせたくないこと。今まで育ててくれた感謝と、勝手に出て行くことへの謝罪。
 目先の目的として、実母の墓がある国へ行くことは書かずにおいた。心配性の家族に追ってこられては困るから。そして文末に「僕を想うなら探さないで」と書き記す。
「真正面から言っても、絶対引き止められるもんね……」
 どうしてどうしてと、慌てふためく家族の姿を想像して、ノアは少しだけ笑った。だがその笑顔はすぐに歪み、瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
「……っ」
 堰を切るようにあふれる涙は、いくら拭ってもただただ袖を濡らすだけだった。
 過ごした時間と同じだけ、思い出のあるこの家を一人で離れる寂しさがこみ上げる。自分勝手に家を出て幻滅されることも怖かったが、それ以上に自分がこの家にいることで家族の未来を潰してしまうことが怖いのだ。
 気がつけば、薄明かりだった外から鳥の鳴き声が聞こえてきた。慌ててノアは鞄から取り出した布で顔を拭う。そうこうしているうちに、人々が起きてきてしまうかもしれない。
 ひとしきり泣いて、カラカラになった喉に水を流し込んだ。
 そしてゆっくりと外へと繋がる扉を開ける。
「……さよなら」
 震える息を吐き、ノアは顔を上げ一歩踏み出した。
 空にはまだ月が白く光っている。
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