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もやもやとする日常

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 そよそよと気持ちの良い風が髪の毛を揺らす。
 山裾のその向こうにある、眼下に広がる集落は砂粒よりも小さく見える。雲の切れ間から、時折こうやって地上が見えるのだ。その景色は、この山の上からでは一日見ていても何も変化がない。
 目をこらしても見えないが、同じ空の下で生きている人間たちの暮らしに、ノアは思いを馳せる。目に見えないだけできっと、その集落の中では人々は歩き回り、煮炊きをし、笑っているのかもしれない。
 最近のノアは木陰に座り、日がな一日そうやってあれこれ想像するのが好きだった。
 透き通るような清涼な風を受け、ノアは一人小さく欠伸をした。
「ふあ……」
 ノアのいるこの山の、ここは村はずれの滅多に人の来ない穴場だ。
 雲を見下ろす山にあるこの村は、外との交流がほとんどない。そのためノアは一度もこの山を下りたことがなかった。
 この地域ではノアのいるこの山が一番高く、そこを中心に連峰が東西に広がる。その間、比較的高低差の少ない大地にあるのが、先ほどノアが見ていた砂粒のような集落だ。
 実際あれらは集落ではなく、その大地に住む者は国と呼ぶほどの巨大な地域だ。ノアもそう家族に教わっていたが、どうしてもノアは自分の基準で物事を見てしまう。
 国とは村よりも大きくて、人口もなにもかもが違うらしい。その代わり諍いが多く、その点では特に人間の国は愚かだと聞かされている。
 人間の国の生活に興味があるものの、周囲に比べて背も低く力もないノアには、一人でこの山を下りる勇気もない。
 だがここではない、遠くの暮らしに強く惹かれる。遠くに広がる人間たちの集落に思いを馳せながら、こうして座って眺めるのが最近の日課となっていた。
「おいノア。毎日毎日サボってんじゃねえよ」
 後ろから軽く頭を叩かれて、ノアは思わず唇を尖らせた。誰なのかなど、振り向かずとも分かった。物心がついてからずっと、ノアの隣にいた弟なのだから。
「痛いよコネハ。コネハは力が強いんだから、手加減してよ」
 兄の幼い仕草に、コネハはため息をつく。がっちりとした厚みと長身の男は、華奢なノアとまるで正反対だった。何も知らない者ならば、弟だと言われても嘘だと思うかもしれない。
「まーた人間たちの国を見てるのか? ノアは目が悪いんだから、目をこらしても何も見えねぇだろ」
「うん。でも、想像するだけでも楽しいんだ」
「ふうん……ああ、ほら見てみろ、同族同士で殴り合いをしている。周りも止めもしねぇぜ。だから嫌なんだよ、人間なんてさ」
「そんなの、僕には見えないもの」
 ノアがいくら目をこらしても見えない人間たちの生活だが、弟のコネハは易々と見ることができる。山の遙か向こうにある人々の表情まで読み取れるのだ。
 コネハや両親などは、ここから小さなあの国の人たちの、表情まで読み取れるという。耳をすませば声も聞こえるらしい。曰く、二つ目の耳を開けると言うが、ノアにはその感覚は分からない。もっとも、その耳も聞こえすぎて困るため滅多に開けないという。
 確かにコネハの言う通り、ノアは目も耳も悪い。村の中ですら端から端まで見通せない上、彼らに比べて耳もよく聞こえない。二つ目の耳を開けない彼らよりも劣っていて、だからこうして弟が近くに来ても気づけないのだ。
「それにさぁ、俺ら竜人には一生関わりないだろ、人間なんて。あいつらは同じ種族で争うバカな生き物だよ」
 吐き捨てるコネハの言葉は冷たい。人間は力が弱く、それなのにわずかな富を争って血を流す。村人は皆が家族のように生きるこの竜人村では、些細な諍いはあるものの人間たちのその生態は理解に苦しむ。
 素晴らしいはずのこの村は、だけど不出来なノアにはどこか息苦しい。家族はもちろんのこと、村の全員がノアには優しい。だがその優しさがノアには辛かった。
 その感情を吐き出せる相手がいないことも、辛いのだ。
 だからこの村の外の生活に憧れて、こうして見えもしない集落を見つめているのだ。
「ノアももうすぐ二十だろ? 最近なんか変だぜ。一日ボーッとしてるしさぁ。父さんの跡を継ぐのはノアなんだから、勉強するなり働くなりしてくれよ。毎日日光浴ばっかじゃ、村のみんなに示しがつかねぇ」
 ごもっともなその指摘に、ノアはうっと言葉に詰まる。
 だがそれを素直に謝罪することができない。
「こ、コネハの癖に生意気! お兄ちゃんって呼べって、ずっと言ってるでしょ!」
 息巻くノアの隣に、コネハは長いため息をつきながら腰を下ろす。
 薄いシャツ越しに感じる弟の体温は、心地良いのに居心地が悪い。
「あのな、オニーチャン」
「う、うん」
「オニーチャンはなんで働かないんだって聞いてんの。そりゃ、ノアが仕事しなくても誰も文句は言わないぜ? 俺だってこんなこと、わざわざ言いたくねぇよ? けど少し前までは滅茶苦茶頑張ってたじゃん。みんなを治療してまわってたよな。籠編みも村で一番うまいし。ノアの籠がないと困るってやつもいるんだけど?」
 口は悪い弟だが、これが心配からの言葉だとノアも十分分かっている。
 自分より二つ年下のこの弟は、いつだってノアのことを考えてくれているのだから。
 ノアはチラリと隣を見た。引き締まった褐色の肌、艶やかな銀色の髪の毛、自分と違う筋肉質な肉体は厚みがあって男らしい。身長も、十を過ぎた頃には既にコネハに負けていた。
 スッと切れ長の瞳の縁は、よく見ると砕いた宝石が散りばめられたように輝いている。その容姿は周囲と同じでもあり、周囲よりもとりわけ美しい。ノアよりも二つ年下の十八歳だというのに、威風堂々とした姿を誇っているのが弟のコネハだ。
(それに引き換え、僕は)
 ノアは自分の目元を擦った。だがそんなことをしても、コネハたちのような美しい煌めきは現れたためしがない。身長も、成人済みの村人の中では一番低い。妙に幼く見える顔立ちも、栗色の髪の毛も、生白い肌も、全部自分だけで嫌だった。
 どうしてノアが村の仕事を抜け出すようになってしまったのか。きっとこの出来の良い弟には分からないだろう。
 ため息を吐くノアを、銀色の瞳が見つめている。子供の頃から周囲に一目置かれている自慢の弟であり、ノアのコンプレックスを強く刺激する相手でもあった。
「……籠編みなんかできても、しょうがないじゃん。籠編みが得意な村長なんて、聞いたこともない。僕の爪が役に立たないから、籠を編むしかできなくて……父さんは力が強いから村長をしてるんでしょ。僕なんか」
「そんなことねえって。父さんは父さん、ノアはノアだろ? 村にノアを馬鹿にするやつがいるか? いないだろ。なんで最近そんなに卑屈なんだよ」
 だって。ノアはそう言いかけてやはり口をつぐんだ。ノアの家は代々この村の村長を務めている。それだけ人望がある家とも言えるし、人を統率できるだけの能力が高い。
 だがノアにはそのどちらもないのだと、コネハだって分かっているはずだ。それなのにこの弟は兄である自分が村長をすると信じて疑わないのだ。
 途中で言うことをやめる兄の隣で、コネハはひっそりとため息をついた。
「ほら、オニイチャン」
 ノアが顔を上げると、立ち上がったコネハがちょいちょいと手で誘ってくる。
「最近運動不足でなまってんじゃねえの? だからおかしな考え事しちまうんだろ。な、手合わせしようぜ」
「やだ。どうせ勝てないもん」
 この村の主な産業は、農業と魔獣狩りだ。本来、雲よりも上では雨が降らないため水も手に入らず魔獣も現われない。だがこの村は竜人が暮らす村だ。竜人は個々が特別な力を持っており、水を操る者も少なくない。そのため人間では暮らせないような場所が豊かな土地へと変わり、その豊かさを求めて山に魔獣が住み着いているのだ。
 その魔獣を狩るためにと、この村の子供は小さいうちから戦闘術を学ばせられる。非力なノアも、いやノアが非力だからこそ人一倍入念に体術を覚え込ませられた。だがその小手先の技術では、魔獣はおろか弟一人、倒すことができない。根本的な身体つきが違うのだ、体格が変われば、力も変わる。
 いつからだろう。ノアが怪我をしないように、弟が手加減していると気がついたのは。
 頑ななノアに、今度こそコネハは隠すことなくため息をついた。それから「よし」と明るい声を出す。
「んじゃ、帰ろうぜ? もうすぐ日暮れだから一人じゃ危ねぇし」
 筋張った腕が、当たり前のようにノアの身体をひょいと持ち上げた。こんな風にコネハが甘やかすのはノアに対してだけだ。自分だけなのだと思うと嬉しいような、兄として情けないような、だけどやはり特別な気がして浮かれてしまう。
 少し曲線を描いて伸びるコネハの爪は、この竜人村の人間であれば当然のものだ。だがノアにはそれすらない。コネハのように獣の皮を剥いだりできないし、野菜すら包丁を使わないと切ることができない弱い爪だ。
 包丁だって両親がノアのために、わざわざ獣人の国から仕入れてくれたものだった。不意にそれを思いだし、僅かに浮上した気持ちが再び泥の中へと沈んでいく。
「ん……」
 これ以上深く考えないようにと、ノアがいつものようにその首に腕を回すと、弟はゆっくりと歩き出した。
 自分の最近の情けない悩みは、また誰にも打ち明けることができない。

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