その魔女の小指

ツヅミツヅ

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その魔女の小指

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序章

空は茜一色に染まり上がって、薄紫のヴェールを纏う。
徐々に逢魔が刻を迎え、夜の帳が下りる。

部屋には大きな棚に数百はあるだろう、小瓶が並べられ、
その全てにラベルが貼られ、細かな種類が乱れた文字で記される。

大きさの異なる天秤が幾つも机や隅の椅子の上にも置かれ、
何やら多様な種類の花や葉の茂る鉢植え達や、
床に塔の様に積み上げられた書物や、大きさ様々なすり鉢とすりこぎや
ペンにインク、認められた書類などで、乱雑に埋め尽くされ、

生活に必要なものはそういう物の陰に隠れて、すっかり肩身が狭そうだった。

その部屋の主は、
冴え冴えとした銀色の髪が小さな滝の様に膨らみのある胸元まで流れ落ち、踝まである黒衣を身に纏い、
編み上げられたブーツをコツコツとリズム良く鳴らし歩いた。

主の黄金色の瞳が始まったばかりの闇夜に揺らめく。

薄明るい闇の中、日常の習慣の感覚と記憶とを頼りにすんなり探し当てたランプに灯を入れる。

太陽の光を失った部屋に物足りない程の仄かな明かりを与える。

その明るさが闇に慣れ始めた目に染み、不意に目を閉じる。

主の桜色の唇がもう一人いる者に告げる。

「今日は新月。…本当にいいのね?」

主の手のランプがもう一人の者に掲げられる。
その薄明かりの中浮かび上がったのは男。

ちょうど主の頭二つ分の高さ程に人懐こそうな笑顔を浮かべる。
その笑顔は逞しい体格と長身にそぐわない程幼い印象を与える。
この金色の髪の男の青い目が彼女をとらえて離さなかった。

「いいよ。ずっと君のそばにいたいんだ。」

男は更に笑う。

「魔女の君の隣で生きたいんだ」

ーーーーその為なら俺は、怪物にだってなれるよ…

彼女の手の中の明かりが騒めき揺れた。


1

魔女との出逢いは単純なものだ。

この日はたまたま、森に行きたくなった。
家人の凡ゆる要求の中で、息つく間すら長らく持てず、何かに邪魔をされずにただ一人になりたかった。

その気持ちから、供もつけずに俺は森の、普段なら行かない筈の木々生い茂る森の奥へ奥へと進んだ。

突然開けた場所に出る。
深い緑と、幹と枝と地に舞い落ち朽ちかけた木の葉の緑と土色のグラデーションを見続けた目に、突然鏡の様な光を反射してキラキラ輝く光彩が飛び込んでくる。

泉か…。そう口の中で小さく呟いた瞬間、

「誰?」

と問いかける声。

非常に落ち着き払った澄んだ声。
声色の優しさとは裏腹な知性と理性の冷淡な響きのある、印象的な声だった。

その声の主が泉の畔りで屈み込み、真っ直ぐこちらを見据えてた。

「…こんな所まで迷い込んで…。迷子なのかしら?」

世にも珍しい、銀色の髪が頭の後ろで束ねられ、逸れ髪が流水の滴る如く、胸元に流れ落ちている。
もっと印象的な黄金色の丸く少し吊り上がる大きな瞳が、感情の色を見せる事なくこちらを見据える。

それらを引き立たせる、黒の長衣。

一目で、その美しい姿に虜になった。

聞いた事がある。

『銀の髪色は傾国の色』だと。

当然だ。

これだけ美しい色を俺は見た事がない…。
 
「…坊や。迷子なら送り届けてあげるわ。あなたの分かる所までで良ければ。」

その言葉に弾かれる様に俺は正気を取り戻す。

「そうか。とても助かるよ。ぜひお願いしたい。人を避けて森の奥深く来てみたら、迷ってしまって。
でも、お陰でこんなに美しい人に出逢えたよ。道案内のお礼に水汲みの途中なら、手伝わせて欲しい。」

俺は彼女にゆっくり近づきながら、彼女の持つ桶をさり気なく、奪い取る。

「…そう。…じゃあお願いするわ。」


2

男の印象は、一言で言うなら、「人誑し」だった。

人の懐にズケズケと入り込む。

自分の関心と好奇心とに素直で正直。
私がその興味の対象に入った事はわかった。

猫の様に入り込む。

人懐こい笑顔で警戒心を解き、人の心を侵食し、自分の欲しい答えを引き出すまで許さない。

そういう男だ。

この男は真正直だから、男のそういう種類の欲望にも真正直で、
眩しいくらい、真っ直ぐに私に向かってくる。

…嘘など分かる。
この男は道に迷ってなどいない。

笑顔で私に話しかけ、
私との距離を縮め、
私を引き出そうとする。

…私の住処を知りたかったのだろう。

他愛のない話を、水の入った桶を軽々と運びながら続ける。
男の言葉を興味に持てない音楽が流れる様に聴きながら、曖昧な返事をする。

「ありがとう、坊や。私はこの小屋に住っているわ。
人には言えない相談がある時は私の元へいらっしゃい。」

男は察する。

「魔女…なのか?」

私はその男の顔色の変化が面白くて、笑ってしまう。

「ええ。忌み色の銀の魔女よ。不吉と破滅の象徴。」

男は沈黙する。

「さあ、道案内の要らない迷子の坊や。
あなたのお家にお帰りなさい。この水汲みで、貴方の嘘を許してあげる。」

男の驚く顔がやっぱり可笑しくなって、

また笑ってしまった。

3

男はまた、現れた。

それ以外の者が来る事はある。
いつも、大体は主に何やら泣きつく。
泣き腫らした目で、生気を失い、暗い雰囲気を纏う人ばかり。

その話を、主はただ黙って聞いていた。

或る人は、散々話し終えれば主の一言で帰っていき、
或る人は主に頭を下げ、お願いします。と呟いた。

主は話し終えた人にいつも、最後にこう言う。

「…そう。それで、私はその人を呪ってもいいのかしら?」

と。

顔を青くして帰る人が多い。

お願いしますと頭を下げた人は、主から何か小瓶をもらい、使い方の説明を受け、頭を下げて帰る。
見送る時何度も頭を下げる。

…そうして、主は糧を得る様だ。

一度桶の水を運んで以来、
この小屋の他の来訪者達とは違う空気も男は運んできた。

男は喧しかった。
主に尽きる事無く話しかけ、
主の仕事に興味を持ち、
主の事も良く助けた。

主は淡々とその男に応える。
男の情熱に微塵の興味も無さ気に。

他の来訪者があった時は、
男はサラリと身を隠し、
来訪者が小屋を後にしたら、またフワリと現れた。

主はそうした時、柔らかく呟く様に言う。

「…良い子ね…。」

そして微笑む。

そんな日が幾日も続いていた、ある日。

いつもとはうって変わって、
男は浮かない顔をし、静かに黙り込んでいた。

主はそれでも何も聞かず、いつもの調子でいつもの様に、薬草を天日に干して乾燥させる為、縄に繋いでいた。

干して積まれた薪の上に座り込み、上目遣いに主を見ては、溜息をつく。
それでも主はいつもの様に自分の仕事に精を出す。

「…やはり、何も聞いてはくれないんだな。」
男は複雑そうに笑う。
いつも見せる屈託の無い笑顔とは違い、力無い。

主は一瞥もくれず、淡々と繋いだ薬草を軒に吊るしながら、言う。

「人の短い生であれば、まだまだ悩む事もあるでしょう。
私は長い生を生きる魔女だもの。あなたの投げる溜息の理由も、あなたの投げる理解を欲する言葉も、私には何も応えてあげられないわ。

…そうね。

たった一つだけ言えるのは、

『私は誰を呪えばいいの?』

…かしら?」

主はクスクス笑った。
それと対照的に男は哀しそうな顔をする。
それでも軒に背伸びをし縄を吊るす主の横に行き、サラリと手を貸す。

目的の位置に薬草を吊るし終えた男が、
主の肩にそっと手を置く。

「その長い歳月を、君と一緒に過ごす方法を知りたい。」

主はそのまま、
応える。

「私の色は凶事を生む色。貴方も捕まったというのかしら?この禍事に。」

男もそのまま静かに答える。

「…婚姻を結ぶ様、父に言われた。俺は街の一貴族の次男で、街の権威ある家柄の娘の元へ婿へ行けと。

…だが俺は君の色を知ってしまった。
君以上に美しく、賢く、魅力的な女性がいるだろうか?

いる筈がない。

君以上の女性がこの世にいる訳がない。」

今度は主が大きな溜息を大袈裟について見せる。

「私はこう見えてとてもお婆ちゃんなの。だから知ってる事がたくさんあるのよ。
…ねえ坊や?
今の坊やは自分の向き合う現実を、忘れたいだけなのよ?
坊や?可愛い坊やだから教えてあげるわ。
私を征服しても、貴方の心の空洞は消えやしないし、
私に勝った事にはならない。
ましてや、坊やを良い様に扱う人達への復讐にはならないわ。

この思い通りにならない世界で、

坊やの心を全て満たせるものなんて、何もないの。」

男は首を振る。

「違う!本当に君を愛してるんだ!
君の側にいたいんだ!
君と共に生きたいんだ!」

男は主の両肩を掴み、自分の方に向き直らせる。

「君の言葉は一つ一つ俺を刺激し、逆撫で、でも、潤し、安心で満たす。
こんな事は初めてなんだ…。
女でこんなに満たしてくれた者などいない。
他の誰かではダメなんだ…。
君だけが俺を満たすんだ…。

頼む…。

人には言えない相談だ。

『魔女を本気で愛してしまった。ずっと一緒に居られる方法を知りたい。』

頼む…。」

主の両肩に両手を乗せたまま、男は項垂れる。
そのまま、
長らくの沈黙の後、

主がその男の手を取り、小指に小指を絡めた。

「私は坊やを呪えばいいのね?」

と、一言言って、クスクス笑った。

4

「この薬を呷ったらまずあなたは意識のある死を体験するわ。新月の今夜から、3つ目の新月の日にあなた今の貴方と変わらないけれど、長命の貴方になるわ。」

彼女の美しい唇に微笑みが浮かぶ。

「あなたの願いが私と生きる事なら、この3つの新月の間、私を疑わず、理性を失わずに過ごせる筈よ」

ランタンの灯り仄めく。

「貴方が私を愛してるなら、貴方がこの呪いの先にやって来たなら、私は貴方の欲する私を貴方に捧げてあげるわ」

彼女の瞳の奥に妖しい、艶めかしい光が優しく宿る。

「待っているわよ、可愛い坊や」

その妖しい光に俺は応えたい。
その瞳を自分の物にしたい。
彼女を疑ったりするものか。

「必ず、君の元へ戻るよ。愛してる。…ねえ?名前を、君の名前を聞かせてくれないか?」

彼女はその微笑みと妖しい光を宿した瞳のまま、

「帰った後のご褒美にね」

と答えた。

「わかった、楽しみにしてるよ。…もう一度言うよ。愛してるよ。」
彼女が何も答えてくれない事はわかっていたから、俺は一気に手に持っていた彼女が調合し魔力を込めたその小瓶の薬を飲み干した。







途端に身体中の温度が一気に下がり、身体が鉛の様に重くなる。
自分の細胞のひとつひとつが熱を伴う活動を一斉に辞めてしまった事がわかる。
[意識を残したままの死]と彼女が言っていた、その恐怖が心の底から一気に身体の隅々にまで行き渡る。

自分は今確実に死んだのだと、理解した。

5

足元が鉛の様に重い。
冷たく重い体を無理やり動かすと、糸の切れた操り人形の様にカクンと目をやる方へ首が傾いた。
自分の意思では自分の身体を制御出来そうにない。
思考は今までと同じに展開するのに、身体の方がまるでその繋がりを拒むように思い通りにならない。

どんどん青ざめていく身体。
ただ手の平を見つめるという所作ですら、重く、怠い。

視界に僅かに見えた銀色に目をやる。
その所作ですら、一体どのくらいの時間を要しただろうか…

自分をこんなふうにした女は、薬を呷った時と何一つ変わらない。
表情もその立ち位置や髪の流れですらも。

じっと自分を見つめていた様だ。

艶かしく、女の唇だけが動く。

「怖い?」

返事をしようと顎を動かす。
が、
硬直して全く動かない。

そう言われて、一層恐怖が胸に湧き上がる。

「あ…ぅ…ぁ…」
恐怖に焦るが発音がうまく行かない。思考は空転しどう言葉を紡げばいいのかわからない。
「…お…おで…は…しんだ…?」

女はやはりその唇だけを艶かしく動かす。
「そうよ。坊やは死んだわ。
…坊や?私の事を三つ目の新月の日まで憶えていてね?それが呪いを乗り越える唯一の条件よ」

そうだ。
それが条件だ。
俺は元に戻るんだ。

女はくるりと背を向けて、
背後にあった木製の丸椅子に座り、書き物を始める。

背中を向けたまま俺に語りかける。
「坊や?ここにいてもいいし、どこか自分の信じられる場所に行っても構わないわ。坊やの気の済むようにしなさい」

俺は硬直する唇を必死に動かす。
「…おで…こ…こ…いる…」

そう、俺はここにいる。
ここに居さえすればこの女を忘れない。
この女の傍にいるんだ。
絶対に離れない。

女は俺を見もせずにたった一言、
「そう」
と返事して書き物に夢中になった。

女の横に佇む。
ただじっと女を見つめて佇む。
暗闇の中ランタンの灯りが女を照らす。

俺にはそれだけが標だ。

そうしてる内に体が重くなる。
身体の全ての関節が硬直していく。
背中を丸めてその重さに抗うが、とうとう立っていられなくなる。

床にゴロリと転がって、女を見ると丸椅子に座ったまま俺を見下ろしていた。
「人は死ぬとね、硬直するのよ。…怖い?」
顎は少しも動かせず、言葉にならない呻き声だけが口から零れ落ちる。
「…あぁ…う…ぁ…」
「その内硬直は解けるわ。それまでの辛抱よ、坊や」

視界が次第に濁り始める。
乳白色の膜を被った様な物体のハッキリしない世界で女を探す。
薄ぼんやりした灯りが何かを照らしてる事はわかる。
でもそれが何なのかはわからない。あの女な筈だ。
…こんな世界で…理性を失わずに過ごす…?
そんな事が可能なのか?
俺はとんでもない間違いを犯したんじゃないんだろうか?
不安が頭をもたげる。

不安が不安を煽り、俺はよく見えなくなった女を必死に探した。

6

一つ目の新月が過ぎた。
主はゾンビになった男と共に生活していた。
男は主に従い、よく助け、しかし以前の様に喧しくもなくなった。
ただ主に付き従い、後ろに控え、
夜は眠る事の出来なくなった体を抱えて座り込む。
たまに湖にはまり、水浸しになる事があり、その時は主が男を拭いてやっていた。

それ以外は何を変える事なく淡々といつもの生活を送っていた。

主の元にたった1人だけ、毛色の変わった客が来る。
主の作る薬草や回復薬ポーションを買い取りに来る行商人で、歳の頃は30前後。深緑のフードのついた外套を羽織り、茶色い髪にはルーペのついたヘッドバンドをつけた中背の男だ。
「今日は随分と変わった奴がいるんだな。コレはなんだ?」
行商人は男を指差して言った。
「あぁ、それは連れ合い候補よ」
「ははっ!そりゃまた無謀な事をしたもんだ。
えぇっと、薬草が50の、回復薬ポーション30か。
魔女の姐さん、もう少し回復薬ポーション増やせないかね?あんたんとこの回復薬ポーション評判いいんだよ」
「これ以上は増やせないわね」
行商人は薬草の束を数えながら、主と会話する。
「そうかい。とある部隊の偉いさんがまとめて買い取っていいって言ってるんだ、数を増やすのが条件なんだが…」
主は小さく溜息をつく。
「今まで通り小売でいいわ。面倒事はごめんよ」
「姐さんは欲が無いねぇ」
主は薄らと笑って行商人の言葉に答えた。
「欲なら人並みにあるけど、それ以上に面倒事は嫌いなのよ。そのお偉いさんとやら、粘る様なら取引はしばらく無しよ」
行商人は慌てて両手の平をヒラヒラと振りそして主に縋る様に言った。
「わかった!わかりました!今まで通り小売で行くよ。…ホント綺麗な顔して短気だな、姐さんは」
小さな小瓶を数え始めながら行商人は話題を切り出す。
「あ、そうそう。そういや東の街の貴族の次男が行方不明になってるらしいな。
そんでもって、ここんとこ墓暴きがあるらしいぜ?
ここから東の街は近いだろ?一応耳に入れとこうと思ってな」
「…そう。ありがとう」
「確かに30。今回はこれで全部だな。これ代金だ。改めてくれ」
主はテーブルに置かれた硬貨を数える。
銀貨が5枚と銅貨が複数ある。銅貨を一枚一枚数えて確認を始めた。
「確かに」
数え終えると懐の帯に吊るしてある小さな麻袋に硬貨を仕舞う。
「なんかいるもんは無いかい?」
「…外套が欲しい。黒の」
「そりゃ姐さんのかい?」
「ええ、そうよ。そんなに上等でなくていいし丈夫でなくていいわ」
「そうかい。次持ってくるよ。じゃあまたな」
「よろしく」
行商人が主の別れの句を聞き終わると同時に小屋の扉を開けて出て行く。

小屋には静寂が戻る。

「墓暴き…ね…」

主は扉を見つめ、しばらくそのまま佇んでいた。

7

東の街は不穏な空気に包まれていた。
先日から出る墓暴きは金目の物を狙う様なものではない。
まだ葬られて久しい墓を暴き、その遺体の頭をかち割って、脳髄を引き摺り出している。
脳髄は一部を除いて殆どが消失していた。
街の貴族達は現状、自分達に累が及んでいないので我関せずと静観を決め込んでいたが、
しかし、先日高位の貴族の娘が急な病で亡くなった。
もちろん、その娘も埋葬される事になる訳で、初めて貴族達はあからさまに警戒し、警告の触れを出した。

『墓暴きは重罪とし、これを犯した者は串刺しとする』

更に墓暴きを見つけた者には金一封を…となれば、街は疑心暗鬼に沈んだ。

娘の葬儀が執り行われる。
貴族の葬られる墓地に女は葬られた。
通常、こう言った墓暴きは月のある晩に発生するものだ。
満月の夜、厳重な警戒体制が敷かれるが、墓暴きは現れなかった。
月明かりのない、手元すらしっかりとは見えない闇夜に墓暴きは発生した。
それでも墓地周辺は充分な警戒体制を敷いていたが、闇夜に乗じて娘の脳髄はやはり引き摺り出されて、消失していた。

街は恐怖に陥れられていた。

娘の両親の嘆き様は見ていられないほどで、
母親に至っては憔悴しきって病の床につくほどだった。
父親は怒り、墓暴きを捉えるため更に厳重な警戒体制を敷き街は更に物々しい雰囲気を醸した。


主の小屋から一番近い街がそういった塩梅なので、
主の商売は上がったりだった。
行商人は次の新月までには主に外套を売りにやって来た。

「注文の外套を持って来たぜ。
…ありゃ?あの兄ちゃんはいないのかい?」
主は静かに微笑んだ。
「居なくなったわ」
「そうかい。あーいう手合いは何人目だろうね。また住まいを移すのかい?」
「そうね。そろそろここも飽きた頃だったし」
「住まいが決まったら手紙をくれよ」
「わかったわ」



そして、巡る3つ目の新月が来る、数日前。

主は珍しく夜中に外套を羽織り、出かける。
私も主の足元に一度擦り付き、長い尻尾を巻きつけ同行する。

「あら、あなたも来るの?」
主はかがみ込み、私を頭から尻尾まで一撫でする。
私はその手に背中を擦り付ける。
「じゃあ、行きましょうか」

私は主について行く。

8

東の街の墓地は厳戒態勢になってしまい、もう侵入出来ないと悟ったのか、墓暴きは出なくなった。

そういった頃、北の街ではノロノロと新月の闇夜の中を蠢く者があった。
それは墓地に向かい、墓の前で必死に地面を掻く。

魔女は黒猫を伴い、そのノロノロと蠢く者の背後に立った。

「…ねぇ、私の事、覚えてる?」

ノロノロと蠢くそれは返事もなく、振り返る事もなく、
ただただ穴を掘り続ける。
頭に乗る金色の髪色はすっかり艶をなくし、乱れ、ボサボサになっていた。

「…そう。忘れてしまったのね」

蠢く者の所作が止まる。

「…お…おで…だいじ…わすれ…た…
おで、あたま…ば…か…なった…」

魔女はただ黙って、その言葉を聞いた。
風のない、闇夜。墓地には一片の灯りもなく、不気味な静寂だけが二人を包んでいた。

「…おで…おもいだす…。あた…ま…よくなる……人のあたま…たべる…」

魔女は表情を変えず、ただそこに立っている。

「人の脳髄を食べても、賢くなったりしないわよ。
大事な何かを思い出す事もない」

魔女は男に向かい手の平をかざす。
「坊や。あなたは私を忘れてしまったから、もう長命を得る事もないし、元の坊やに戻る事もない。…それはあまりに哀れだから、始末をつけましょう?」

魔女のかざした手の平の前に、火の玉が現れる。
火の玉はぐんぐんと大きくなって行く。
メラメラと炎と呼べる大きさまで育った。

魔女はその炎を男に向けて放つ。
男はその炎を全身に浴びる。
炎は男の体を舐め、全身を這う。
そしてやがては髪や肉の焼ける臭気を放ち始める。

男は炎を纏い、緩慢に踊る様に燃やされて行く。
熱さは感じないはずだ。
男はそもそも、もう肉体的には死んでいるのだから。

炎の熱さも焼かれる恐怖も、男には存在しない。
ただ意識を手放せば、そこで彼の『死』は成立する。

男は思う。

何を忘れてしまったのだろう…

と。

意識に黒い斑点が現れる。
それは最初小さく一つあるだけだったが、二つ目、三つ目…と増えていく。増えれば増える程、倍に増え、増える速度もどんどん速くなる。

そして意識はその黒い斑点達に奪われて、その時には安堵の気持ちで満たされていた。

終章

魔女の住まった小屋は何一つ残さず消え去った。
湖のほとりのその小屋は何一つ痕跡を残さず消え去った。

まるでそこに最初から何もなかったかの様に。

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