【架空戦記】蒲生の忠

糸冬

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(二十七)唐橋の急報

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 八月六日。
 先日に賢秀率いる軍勢を送り出し、ひと気の少なくなった中野城で早めの朝餉を終えた賦秀の元に、転がるようにして譜代の臣・音羽左馬允が飛び込んできた。

「申し上げます! 瀬田の唐橋を明智勢が押し渡り、瀬田城が攻められておりまする」

「なにっ、唐橋を奪われたと申すのかっ! 喜内はなにをしておった」

 賦秀は半ば反射的に左馬允に怒鳴りつけるが、油断は彼自身にもあった。

 自ら瀬田の守りに赴くでもなく、守備を家臣にまかせたまま中野城で無為に時間を過ごしていたのは事実だった。

「気づいた時には眼前まで迫っており、焼き落とす暇もございませなんだ。敵の数は一万を超えておる模様。主計助殿は瀬田城にて、最後の一兵まで明智勢を引きつけて戦うと申され、それがしを送り出したのでござりまする」

 左馬允が平伏したまま慟哭する。

 賦秀は先日瀬田城に足を踏み入れたばかりである。

 城の規模からいって、一万の敵を退けることは不可能だと直感した。

 上野田主計助は今頃はもう、討たれている可能性もある。

(なんたることだ。もし、主計助が逃げ延びておらねば、あたら忠臣を逝かせてしもうたことになる)
 賦秀は内心で呻き、がっくりと肩を落とした。

「……しかし、なぜ一万を超える明智勢が瀬田に来る。丹後から若狭に入ったのではなかったか」

 左馬允に気遣いする余裕もないまま、賦秀は自問のつぶやきを漏らす。

 ふと、明智勢の若狭討ち入れの話が伝聞に過ぎなかったことに気づく。

 いつしか握りしめていた拳に、一層の力がこもる。

「あの話は陽動であったか。いかん、完全に明智の手中にはまっておるではないか」

 丹後から東進する明智勢が越前に抜ける丹後街道に入らず、熊川を経て琵琶湖西岸へと出る若狭街道を用い、西近江街道を南下すれば瀬田に至る。

 おそらくその道筋をとったのであろうと、今更ながら即座に理解できた。

 さらに、状況は単に瀬田を突破されただけでは済まないことにも思い至った。

「よもや、このまま安土を狙うつもりか。くっ、父上にはこの話、まだ伝わっておらぬと考えねばならぬ。こちらから急使を出さねばなるまい」

 賦秀の思考は目まぐるしく回転する。今この状況にあって何が出来るか、懸命に考えていた。

 だが、既に主立った兵を送り出した後であり、打てる手は限られていた。

 背後から敵が迫っていることを賢秀に伝えるべく、急使を出すのが精一杯だ。

 安土城の近くで一晩を過ごしたとすれば、明智勢に奇襲を受ける恐れもあった。

「父は再び安土城に入って戦うであろうか。此度は前の時のようには、うまくいくまいの」

 なにしろ相手の兵数が違う。
 加えて一万を超える敵となると、光秀が直接率いている可能性がたかい。

 前回の失敗に懲りて、同時に日野にも兵を入れてくる恐れがあった。

「殿……」

 いつの間にやってきたのか、冬姫が心配そうな顔で賦秀の横顔を覗き込んでいた。

「どうやらしくじったようだ。三介殿のことを笑えぬわ」

 そこに、足音も高くロルテスが飛び込んできた。

 だが、冬姫が先に来ていることに気づき、ぎょっとなって足を止める。

「おう、聞いたか。……ではないな。お主、なぜここにおる。万鉄斎殿の陣に加わらなんだのか」

「はっ。マンテツさまとは喧嘩したね。若旦那のように好きにさせてくれないんでね。そんなことより、また戦さですな」

 ロルテスは冬姫の視線を気にして、しどろもどろになりながら話題を本筋に戻す。

「若旦那はやめろ。戦さは戦さだが、当城には兵がおらぬ。此度ばかりは戦いようがないわ」

 今更の苦言を口にする賦秀に、ロルテスは冬姫を横目でみやってから、例によってにやけた顔の笑みを大きくする。

「なんの。兵はかき集めれば五百は揃いましょう」

 ロルテスは賦秀の前にどかりとあぐらをかき、身を乗り出す。

「それだけ数が集まるのか」

 いつもの安請け合いではないのか、と賦秀は胡散臭げにみやるが、ロルテスは動じる様子もみせない。

「こういう言い方をしていいのか判りませんが」金髪を束ねた後頭部の下あたりをかきながらロルテスが言う。

「マンテツさまには申し訳ないが、若旦那自に惹かれた者も少なくありませんで。そういう連中は、まだ城下に残ってお声掛かりを待っておる次第でさ」

「先の安土の籠城の折のごとくに、うまくやれると思うか」

 その問いに、ロルテスより先に左馬允が声を上げて応じた。

「それがしもお連れくだされ! このまま一矢報いずにはおられませぬ!」

 先を越されたロルテスが肩をすくめる。

「まあ、ここは若旦那の故郷です。うまくやれば、安土で一戦つかまつる間に、御味方の後詰もあるのではないですかい」

 楽観的なロルテスをもってしても、安請け合いは出来ない情勢だった。

「……ならば、行くか」

「勝算はおありで」

「そんなもの、あるはずなかろう。ともかく安土まで走り、左馬允が申すとおり、一矢報いる以外にない」

 どちらにしろ勝ち目のある戦いではないのなら、己の所領にしがみつくよりも、なんとしてでも安土城を守るために戦うことを選びたかった。

「すまぬ。約束は果たせそうにない」

 賦秀は、それまで黙って男同士の会話を聞いていた冬姫に頭を下げた。

 織田家の者の覇業を助けるか、天下人の器にあらずとみれば自ら名乗りを上げる、冬姫の願いは叶えられそうもなかった。

「どうか、御武運を」
 事情を察した冬姫は、それだけを言った。



 明智勢が中野城の城下に迫った場合には、守る兵のいない城は容易に占拠されてしまう。

 最悪の事態に備え、城下からは早々に住民が逃げ出し始めていた。

 城中ですら、伝来の宝物などを運び出す準備が女御衆によって急がれている。

 そんな喧噪の中、城内の馬場に集まったのは四百ほど。

 ロルテスが安請け合いした五百には満たない人数だった。

「致し方なし。死地に赴く将に、銭雇いの者が敢えて命運を託す義理はない」

 顔ぶれを見回して苦笑いした賦秀は、むしろこのような状況にあっても顔を揃えてくれた者のことを頼もしく思っていた。

 佐和山城や長浜城を奪った際に手勢に加えた者がその中にいることに、申し訳なさと嬉しさが同居する。

 配下の前に立った賦秀は、顔を上げて声を張り上げた。

「我らは日野川沿いに北上し、東山道を進んで安土に向かっているであろう明智勢の目をかすめていち早く安土城に入る。我らが一刻でも二刻でも時を稼げば、その間に三介殿も兵を返して安土を守るであろう」

 数は少なくても戦局に寄与できるのだ、との賦秀の言葉に、悲壮感を漂わせていた将兵の間に精気が宿り始めた。

「皆の者、行くぞ!」

 賦秀はまなじりを決して、北の方角を睨んだ。



 一方、賢秀率いる蒲生勢は、賦秀の予測よりも早い段階で、瀬田における異変を知った。

 急襲を受けた陣城が攻め落とされる直前、守将の上野田主計助は日野に音羽左馬允を送り出した後、安土に向けても危難を告げる使者を走らせていた。

 この急使が、安土城近辺に差し掛かっていた蒲生勢を偶然発見し、主君である賢秀に仔細を告げたのだ。

 行軍が予定より遅れていたことが、結果的にいち早く事態を把握する要因となった。

「殿、急ぎ安土城に入りましょう。今からなら、どうにか間に合うかと存じまする」

 譜代の臣・儀俄忠兵衛の進言に、賢秀は厳しい表情を崩さない。

「此度はうまくいくまい。なるほど、我らが手勢は前回より多いが、敵もまた以前に倍する兵を連れておるであろうからな」

 そしてなにより、と賢秀は自嘲めいた笑みを浮かべる。「ここには忠三郎がおらぬでな。前と同じようには戦えぬ」

 そうこうしている間に、明智方の物見と思しき数騎の騎馬武者が姿を見せ、蒲生勢の存在を察知した。

 蒲生勢から、すぐさま数倍の騎馬武者が攻めかかる構えをみせたため、明智方の騎馬武者はすぐに退散したが、存在を察知されたことは間違いなかった。

「斯様なところで愚図愚図しておって、城攻めの前の景気づけに攻められても面白くはない。これは安土城に入るほかあるまい」

 進退に窮した賢秀は、安土城に兵を入れて明智勢を迎え撃つ策を選ばざるをえなかった。



 山本山城攻めに出陣している信雄が不在の中、留守居の家臣は蒲生勢の接近を最初は訝しんでいた。

 だが、賢秀が明智勢到来の報を知らせると、慌てて大手門を開いて蒲生勢の入城を許した。

「本腰を入れて攻めかかられては、いくらも保ちませぬな」

 城内の様子を軽く見まわして、関盛信が首を振った。

 信雄は安土城を手中に収めた後、討って出ることばかり考えていたのか、籠城への備えは後回しになっていた様子が見受けられた。

 焼けたままの城下町はともかく、痛んだ城壁や門、構などの修復も、進んでいるとは言い難い。

 信雄が城兵の大多数を引き連れて出陣しているため、残された城内の守備兵はごくわずかであった。

 広大な安土城を守り切るには、蒲生勢を加えてもまったく数が足りない。

 厳しい状況を察してか、関盛信が率いる銭雇いの兵の中には、早くも浮き足だっている者がいる。

「光秀の狙いは、やはりここ安土であろうが、さらに山本山城を後巻きすることも当然、視野にいれておろう。であれば、安土には全力では攻めてこぬやも知れぬ」

 賢秀は自分でもあまり信じていないような展開を口にした。

 虫が良いとは判っていても、一縷の望みにかけての籠城策であった。

 やがて明智勢の物見が安土城下に姿を見せる。

 ほどなく先陣が迫ってくる様子がうかがわれた。

 その様子を安土城の物見櫓から望見して賢秀は顔をゆがめた。

「嫌な奴がきおったわ」

 敵勢に翻る既に、見慣れた旗標を見つけたのだ。

 その旗標は、敵の先鋒を率いるのが明智秀満であることを示していた。
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