【架空戦記】蒲生の忠

糸冬

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(二十二)坂本城の祝宴

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 近江国における明智光秀の居城・坂本城の広間には、明智勢の諸将が集まり、勝利を祝う祝宴が開かれていた。

 無論、今回の戦さにおいては柴田勢を退けただけであって、依然として四方に敵を構えている苦しい現状が大きく変化した訳ではない。

 しかし、一度でも敗北を喫すれば、しょせん謀叛人よとばかり、今のところはなびいている豪族や国衆、そしてなにより公家衆までも、たちまちに掌を返すことも充分に予想できた。

 それだけに、織田家でも屈指の戦力を有する柴田勝家を、ただ一戦で討ち取った事実は、険しい道のりを歩む明智の家にとって大きな一歩に違いなかった。

 本能寺にて信長を討って以降、各所で戦い通しだった将兵を慰労し、これからの戦いに備えてあらためて英気を養う機会が光秀にはどうしても必要だった。

 もっとも、諸将が集う広間にあって明るい表情を見せるものばかりではない。

 明智秀満も、浮かぬ顔をしている者の一人だった。

 秀満は今も、杯に注がれた濁り酒に視線を落としたまま、口もつけずに何事か考え込んでいる。

「酒が進まぬ様子じゃな」

 そう声を掛けられて顔を上げた秀満の前に、光秀の顔があった。

「殿。それがしは」

「いや、それ以上は言わずともよい。謝罪の言葉ならもう何度も聞いたでな」

 柔和な表情で諭すような口ぶりの光秀に、秀満は恐縮して肩を縮こまらせる。

「申し訳ございませぬ」

「仮に弥平次が一万の兵を率いておれば、安土城の大手門を破れたであろう。逆に、我が手勢が五千のみであれば、信孝らを一息で追い散らすことはかなわなんだ。つまりは兵を分けた儂の失策じゃ。弥平次の責ではないぞ」

 近江討ち入れを志願した秀満を一切責めない口ぶりに、かえって秀満は顔も上げられない思いをしていた。

「されど、安土にて祝宴となれば、明智の天下を世に知らしめることも出来たであろうかと思うと、どうにも酔えませぬ」

 かろうじて顔を上げ、思い詰めた表情で秀満は言いつのる。が、光秀は小さく首を横に振って口元を緩めた。

「仮に安土城が手に入っていたとて、今宵の宴は我が居城で開かねば意味がない」
 静かにそう応じた光秀は、ふと周囲を見回した。

 興が乗って不器用な踊りを見せる者がおり、それを哄笑する者がいる。家臣達の様子に、部下思い、家族思いで知られる光秀は満足げな笑みを見せる。

 光秀当人も、さほど酒には強くない。

 それでも、場の空気を白けさせない程度の振る舞いは心得ている。

 光秀の視線が、末席に座る若者に向いたところでふと止まった。

 その視線が誰に向けられているのかに気づいた秀満は、さらに表情を曇らせた。

「武田殿には申し訳なき仕儀にござる」

 末席の若者、武田元明は一度は佐和山城を首尾良く奪取しながら、秀満の呼集に応じて安土攻めに参加した結果、蒲生賦秀に佐和山城を奪い返される失態を犯していた。

 その際、ただでさえ人数が心許ない家臣のうち少なからぬ者を、佐和山にて失う結果となっている。

「若狭の守護の血筋なれば、本領にて再起を計れるようにしてやらねばな」

「はっ」

「……それにしても、この場にいて欲しかった者の顔がいくらか見えぬのは、やはり寂しいことじゃな」
 光秀はぽつりと漏らした。

 秀満はあまり酔いが回っていないこともあって、二人の周囲の者が酒宴の席の話と聞き流すふりをしながらも、ちゃっかりと耳を立てているであろう雰囲気を肌で感じている。

 だが、だからといって光秀からの言葉を制止できようもない。

「組下が揃って参陣となれば、兵数にも余力が出たでありましょうな」
 どう応じてよいものか、と思案しながらも、結局は思ったままに答えるほかなかった。

「殿ぉ! 真に申し訳ございませぬ」

 藤田伝五行政が、突如として大音声を発した。

 酔いに任せ、ふらつく足取りで光秀の傍らまで進み出ると、蹴躓いて転倒したかと見まがうほどの勢いで床に平伏した。

「筒井順慶、首に縄をつけてでも、引っ張ってくるべきところ、役目を果たせず……」

 その後は言葉にならない。

 床に顔を押しつけたまま、泣き声とも呻き声ともつかぬ声が喉の奥から漏れるばかりである。

 大和を治める筒井順慶は光秀の組下でありながら、未だ旗幟を鮮明にしていない。

 此度の柴田勢との合戦においても、言い訳のように家臣の井戸良弘に五百名ばかり預けて参戦させてきているだけだった。

 取次役である行政としては、腹を切って詫びたいほどの事態だった。

 実際、光秀が「命を捨てる気があるのであれば、我が馬前にて励め」と自刃を強く諫めていなければ、死を以て詫びていたところだろう。

「そう気を落とすな。柴田勢を退けたことを知れば、かの御仁の態度もかわろう。手数じゃが、明日には再度向かって貰うぞ」

「はっ。この次は、必ずやお味方につけてみせまする」
 平伏したまま行政が応じる。

「筒井様が同陣されるとなれば、細川様も我らの味方についてくれるやも知れませぬな」
 斉藤利三が横から言葉を沿える。

 やはり皆、酒の席とはいうものの明智勢が打つべき次の手をそれぞれに思案していた様子だった。

 口丹後を任される長岡こと細川藤孝、忠興親子は、奥丹後の一色義定と同じく光秀の寄騎である。

 ただし、一色義定が既に明智側に立つと宣言して兵を興しているのと異なり、今もって光秀の味方をする様子を見せていない。

 光秀としても、細川家はもっとも助力を期待していた存在である。

 しかし、漏れ聞こえる話では「義絶」と称して揃って頭を丸めて信長に弔意を示すにとどめ、どちらの味方でもないとの立場を示していた。

 明智方に与する、と光秀に書状を送ってきた一色義定勢とも本格的な交戦は避けており、現状では織田方とも明智方とも態度を明らかにしていない。

 秀満と細川忠興はいずれも光秀の娘を嫁にしており、つまり二人は相婿の間柄になる。

 丹後の情勢を探らせていた忍びが報せてきたところによれば、忠興の妻・珠は奥深い山中の村に幽閉されているという。

 秀満はその話を聞いたとき、姉妹の憂き目に己の妻がどれほど悲しむかと考え、どうにも言葉がでない思いがしていた。

「本来であれば、儂みずから田辺まで乗り込み、幽斎どのと膝詰で話をしたいところではある。されど、もはや儂自らが説得に乗り込むわけにもいかぬ」

 信長を討ち、一人の大名として先日までの寄騎や同僚を家臣として組み込もうとしている以上、光秀は彼らより一段上の存在としての立ち振る舞いが求められる。

 当然、大名の当主である光秀自らが「使者」として立つことは出来ない。

「であれば、それがしに御命じくだされ。石にかじりついてでも細川様をお味方に付ける役目を果たしてご覧に入れまする」

「そう逸るな。酒の席では込み入った話などできぬ。書状を用意するゆえ、明朝に、弥平次の屋敷まで人を遣る」

「はっ、ありがたき幸せ」

 そう応じた勢いのまま、秀満は手にした杯を煽って一気に酒を飲み干した。

 その直後、思わずげっぷを漏らす秀満をみて、光秀は片頬に笑みを刻んだ。
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