2 / 30
(二)安土城の誤算
しおりを挟む
六月四日、卯の刻。
近江国安土城。
信長の居城として天下に名高い安土城において、二の丸の留守番衆を務める蒲生賢秀は、律儀者として世間に知られている。
もともと蒲生家は、かつては六角家の重臣であった。
永禄年間の信長の上洛戦を前に六角を見限り織田に走ったために、律儀者との賢秀の評判には、若干の揶揄も混じっている。
むしろ律儀者との評判は、汚名を晴らしたい一心で信長に仕えてきた結果、生まれたものかも知れない。
だが、昨日の午前のうちに信長の死の報せが届き、続報によってそれが虚報でないと明らかとなった今、彼の存在に注意を払う者は誰もいない。
本丸および二の丸には賢秀の他にも、津田源十郎をはじめとして賀藤兵庫頭や野々村叉右衛門といった信長の馬廻衆や、近郷の出身者である膳所城主・山岡景佐、また吏僚の祖父江秀重など、留守役を命ぜられた者が番衆として詰めていた。
たが、さすがに信長の死の一報の衝撃はあまりにも大きかった。
変事から二日が経ったが、昨晩には、山崎片家が安土の自邸を焼き払って佐和山城近くにある居城・山崎山城へと退転する騒ぎが起こっており、城を守るどころではない状態に陥っている
彼らにできるのは、わずかな番兵や、女衆をなだめるのが精一杯であった。
賢秀が、蒲生譜代の臣・外池甚五左衛門に命じて急ぎ城下を見回らせてみたところ、城下町においても混乱は同様であった。
信長の厚恩もいまとなってはなんの意味もなさず、家財道具を抱えて町から逃げ出す者が後を絶たない。
そんな動揺の中にあって、ただひとり賢秀は騒がずじっと一人の男の来着を待っていた。
(あ奴なら、儂が何を言わずとも、なにをさておいてもこの安土城に駆けつけてくる……。さて、その後は、儂は如何すべきであろうか)
「開門、開門!」
「蒲生対い鶴」の旗印を掲げた一千ばかりの軍兵が整然と隊列を組み、怯え逃げまどう住民をかきわけるようにして安土城下に姿を現した。
大手門の前に進み出て大音声で呼ばわるのは、蒲生賢秀の嫡子、蒲生忠三郎賦秀である。
彼もまた、前日深夜に信長が明智光秀に討たれたとの報に接すると即座に、信長の居城たる安土城が危難に遭うと予見した。
その後、賦秀の行動は素早かった。
幸か不幸か、賦秀率いる蒲生勢は信長の中国遠征には帯同を命じられていなかった。
父祖の地である日野中野にて、次なる戦さに備えて鋭気を養っていたところであり、自由に動ける状況にあったことは大きかった。
蒲生家の所領である日野中野六万石で養える兵数は、多く見積もっても二千あまり。
その半数以上を一度に率いていくとなると、自分の生まれ育った城を半ば空けていく格好になる。
懸念がないといえば嘘になる。
だが、結局はただ己の城に籠もることよりも、織田家の危難に自ら立ちむかう覚悟を決めた。安土城には父もいるのだ。
賦秀は留守を守る兵を家老の稲田左馬助に託し、安土城から信長の縁者を避難させる場合があると見込み、そのつもりで籠城の支度をするよう命じていた。
その上で、「万が一、我らが戻るより先に敵手に攻め寄せられ、守り切れぬ時には城を焼き捨てて伊勢に向かえ」と言い残して馬上の人となった。
安土城と中野城は、直線距離でおよそ六里半。
通いなれた道のりであり、統率の取れた賦秀配下の一千の兵であれば、後先考えずに急がせれば半日あまりで駆けつけられる距離である。
弘治二年生まれの賦秀は、この時二十七歳。
若者らしい溌剌とした立ち居振る舞いの中に、歴戦の中にあって磨かれたある種の老練さを既に漂わせている。
十三歳の頃、信長が当時鶴千代と名乗っていた賦秀をひと目みるや、その眼の力にただならぬ者を感じて小姓に取り立てたばかりか、己の娘を嫁に出したとの逸話は有名である。
信長に将器を伺わせたとされる、賦秀の鋭い眼光は未だ健在である。
信長横死の報を受けて以来、ただ戦々恐々としていた番兵は、信長が目をかけていた女婿の登場に救われたような表情を見せて武者門を開いた。
安土城には幾つか、他に類をみない特異な構造を有しており、その一つが大手門である。
なんと大手には、実に四つもの門が設けられているのだ。
西から商人や町人などの一般向け用、続いて武家専用の武者門、三つめのひときわ大きな門は当主御成門として信長の専用の門であり、東側の門は公家用となっている。
儀礼的な意味はともかくとして、敵からの防衛を考えた場合には四つもの門があることは決して有利には働かない。
むしろ、みすみす弱点を増やしているとしか言えない。
そこには、安土城が防衛拠点として兵火に晒されることとなどありえない、と言わんばかりの信長自負が伺えた。
だが、今となってみればなんとも心もとない。
賦秀は手勢の先頭に立って門をくぐった。
兵の多くを大手門周辺の守備に割り当てると、賦秀自身はわずかな供回りのみをつれて本丸へと向かう。
山頂部へと向かってまっすぐに伸びているように見える大手道は、幅三間あまり、長さは一町半におよぶ。
この長い直線を描く大手道もまた、城の防御の常識からは外れた構造である。
幅の広い石段を、賦秀は早足で駆け上る。
(上様が討たれて心細いのは判らぬでもない。されど、儂が敵手に回っていたらなんとするのだ)
自分に向けられる好意的な視線を感じつつ、賦秀は険しい表情を崩さない。
通常、天守閣と呼ばれる建物は、安土城においては天主閣と称される。
見上げれば目に入る地上六層の天主閣も、今は主を失って威容を竦ませているようにみえた。
(されど、動揺するのは致し方ない。儂とて、まさかこのような事が出来するとは予想もできなんだ)
そう胸中で呟く一方、「いつかこんなことになるのではないかと思っていた」との言葉を内心で否定できない賦秀がいた。
新しい世を築こうとする信長の存在は、それほどまでに強烈で、危険だったのかも知れない。
大手道を上るにつれ、天主閣の姿も間近に迫ってくる。
(天下は、上様の手がすぐ届くところにまで来ていたのだ)
賦秀がはじめて信長と出会ったのは、まだ鶴千代と呼ばれていた頃だ。
永禄十一年。六角家の当主・義賢は、上洛を目指す織田勢の猛攻を受け、枝城を立て続けに攻め落とされたことで戦意をうしない、居城・観音寺城から逃亡した。
当時、賦秀は鶴千代と名乗っており、歳は十三歳だった。
六角家の重臣であった父・賢秀は織田に降ることを決意し、嫡男である賦秀を人質として信長に差し出した。
信長は一目見て賦秀の眼光、面構えを気に入り、人質とは思えぬ破格の扱いをした。
小姓として重用するだけでなく、元服にあたっては弾正忠の名乗りから一字をとり忠三郎の通称を与え、自分の愛娘・冬を娶せることまでしたのだ。
賦秀は、信長の見込み違いだったと言われぬよう、懸命に役目をこなしてきた自負があった。
戦場にあってはたとえ信長自身に止められても、真っ先に敵陣に躍り込んで戦うことを怖れなかった。
およそ武将が身につけておくべき教養や技能はすべて身につける志を持ち、物事にあたってきた。
だが、それでも自分は本当に信長が見込んだだけの働きをしてこられたか。
賦秀は何度もその自問を繰り返していた。
そして、今やその答えを信長の口から聞く機会は永久に失われてしまった。
外敵によってではなく、信長に引き立てられたことで、考えられぬほどの立身出世を果たしたはずの明智光秀の手によって。
ただ前を向いていては石段しか見えないほどの急傾斜の大手道にあって、賦秀は再び顔を上げて天主閣を見据えげた。
(上様が残したものが、ただの城だけであってたまるものか。なんとしても、上様が実現させようとした天下を、我らが引き継がねばならぬ)
何度も自らにそう言い聞かせて、ともすれば萎えそうになる己の心を鼓舞する。
信長以外の他の誰にも、思い描いた天下を再現することなどできないのではないかとの思いは払拭できないが、それは決して表には出せない。
(長らく御傍にて小姓として仕えたこの儂とて、上様の真意が奈辺にあったか、本当に理解しているかどうか判らぬ)
その点では、重臣たる柴田勝家、羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀らとて心許ないとさえ言えた。
信長の嫡男・信忠も討たれたとなれば、連枝衆にも本当の意味で後継者たり得る者はいないのではないかとさえ思われた。
信長の構想を最も理解しているのは誰なのか、そう考えた時、ぞっとするような答えが脳裏に閃いた。
(明智殿、いや、光秀こそが一番の理解者であったやも知れぬ……)
なぜ謀叛を起こしたのか、問いだたしたい気持ちもあれば、今更どんな言い訳も耳に入れたくないとの思いもある。
しかし、「なぜ」はいつまでもつきまとうであろう、との確信めいた予感もあった。
大手道は突きあたって大きく左に折れ、しばらく左、右と曲がってから百々橋口から伸びる道と合流し、黒金門へと至る。
門の番衆とわずかなやりとりの後に賦秀は門の通行を許可され、二ノ丸へと足を踏み入れた。
「よう来た、忠三郎」
そこには、先触れで賦秀の到来を聞いていた蒲生賢秀が待っていた。
近江国安土城。
信長の居城として天下に名高い安土城において、二の丸の留守番衆を務める蒲生賢秀は、律儀者として世間に知られている。
もともと蒲生家は、かつては六角家の重臣であった。
永禄年間の信長の上洛戦を前に六角を見限り織田に走ったために、律儀者との賢秀の評判には、若干の揶揄も混じっている。
むしろ律儀者との評判は、汚名を晴らしたい一心で信長に仕えてきた結果、生まれたものかも知れない。
だが、昨日の午前のうちに信長の死の報せが届き、続報によってそれが虚報でないと明らかとなった今、彼の存在に注意を払う者は誰もいない。
本丸および二の丸には賢秀の他にも、津田源十郎をはじめとして賀藤兵庫頭や野々村叉右衛門といった信長の馬廻衆や、近郷の出身者である膳所城主・山岡景佐、また吏僚の祖父江秀重など、留守役を命ぜられた者が番衆として詰めていた。
たが、さすがに信長の死の一報の衝撃はあまりにも大きかった。
変事から二日が経ったが、昨晩には、山崎片家が安土の自邸を焼き払って佐和山城近くにある居城・山崎山城へと退転する騒ぎが起こっており、城を守るどころではない状態に陥っている
彼らにできるのは、わずかな番兵や、女衆をなだめるのが精一杯であった。
賢秀が、蒲生譜代の臣・外池甚五左衛門に命じて急ぎ城下を見回らせてみたところ、城下町においても混乱は同様であった。
信長の厚恩もいまとなってはなんの意味もなさず、家財道具を抱えて町から逃げ出す者が後を絶たない。
そんな動揺の中にあって、ただひとり賢秀は騒がずじっと一人の男の来着を待っていた。
(あ奴なら、儂が何を言わずとも、なにをさておいてもこの安土城に駆けつけてくる……。さて、その後は、儂は如何すべきであろうか)
「開門、開門!」
「蒲生対い鶴」の旗印を掲げた一千ばかりの軍兵が整然と隊列を組み、怯え逃げまどう住民をかきわけるようにして安土城下に姿を現した。
大手門の前に進み出て大音声で呼ばわるのは、蒲生賢秀の嫡子、蒲生忠三郎賦秀である。
彼もまた、前日深夜に信長が明智光秀に討たれたとの報に接すると即座に、信長の居城たる安土城が危難に遭うと予見した。
その後、賦秀の行動は素早かった。
幸か不幸か、賦秀率いる蒲生勢は信長の中国遠征には帯同を命じられていなかった。
父祖の地である日野中野にて、次なる戦さに備えて鋭気を養っていたところであり、自由に動ける状況にあったことは大きかった。
蒲生家の所領である日野中野六万石で養える兵数は、多く見積もっても二千あまり。
その半数以上を一度に率いていくとなると、自分の生まれ育った城を半ば空けていく格好になる。
懸念がないといえば嘘になる。
だが、結局はただ己の城に籠もることよりも、織田家の危難に自ら立ちむかう覚悟を決めた。安土城には父もいるのだ。
賦秀は留守を守る兵を家老の稲田左馬助に託し、安土城から信長の縁者を避難させる場合があると見込み、そのつもりで籠城の支度をするよう命じていた。
その上で、「万が一、我らが戻るより先に敵手に攻め寄せられ、守り切れぬ時には城を焼き捨てて伊勢に向かえ」と言い残して馬上の人となった。
安土城と中野城は、直線距離でおよそ六里半。
通いなれた道のりであり、統率の取れた賦秀配下の一千の兵であれば、後先考えずに急がせれば半日あまりで駆けつけられる距離である。
弘治二年生まれの賦秀は、この時二十七歳。
若者らしい溌剌とした立ち居振る舞いの中に、歴戦の中にあって磨かれたある種の老練さを既に漂わせている。
十三歳の頃、信長が当時鶴千代と名乗っていた賦秀をひと目みるや、その眼の力にただならぬ者を感じて小姓に取り立てたばかりか、己の娘を嫁に出したとの逸話は有名である。
信長に将器を伺わせたとされる、賦秀の鋭い眼光は未だ健在である。
信長横死の報を受けて以来、ただ戦々恐々としていた番兵は、信長が目をかけていた女婿の登場に救われたような表情を見せて武者門を開いた。
安土城には幾つか、他に類をみない特異な構造を有しており、その一つが大手門である。
なんと大手には、実に四つもの門が設けられているのだ。
西から商人や町人などの一般向け用、続いて武家専用の武者門、三つめのひときわ大きな門は当主御成門として信長の専用の門であり、東側の門は公家用となっている。
儀礼的な意味はともかくとして、敵からの防衛を考えた場合には四つもの門があることは決して有利には働かない。
むしろ、みすみす弱点を増やしているとしか言えない。
そこには、安土城が防衛拠点として兵火に晒されることとなどありえない、と言わんばかりの信長自負が伺えた。
だが、今となってみればなんとも心もとない。
賦秀は手勢の先頭に立って門をくぐった。
兵の多くを大手門周辺の守備に割り当てると、賦秀自身はわずかな供回りのみをつれて本丸へと向かう。
山頂部へと向かってまっすぐに伸びているように見える大手道は、幅三間あまり、長さは一町半におよぶ。
この長い直線を描く大手道もまた、城の防御の常識からは外れた構造である。
幅の広い石段を、賦秀は早足で駆け上る。
(上様が討たれて心細いのは判らぬでもない。されど、儂が敵手に回っていたらなんとするのだ)
自分に向けられる好意的な視線を感じつつ、賦秀は険しい表情を崩さない。
通常、天守閣と呼ばれる建物は、安土城においては天主閣と称される。
見上げれば目に入る地上六層の天主閣も、今は主を失って威容を竦ませているようにみえた。
(されど、動揺するのは致し方ない。儂とて、まさかこのような事が出来するとは予想もできなんだ)
そう胸中で呟く一方、「いつかこんなことになるのではないかと思っていた」との言葉を内心で否定できない賦秀がいた。
新しい世を築こうとする信長の存在は、それほどまでに強烈で、危険だったのかも知れない。
大手道を上るにつれ、天主閣の姿も間近に迫ってくる。
(天下は、上様の手がすぐ届くところにまで来ていたのだ)
賦秀がはじめて信長と出会ったのは、まだ鶴千代と呼ばれていた頃だ。
永禄十一年。六角家の当主・義賢は、上洛を目指す織田勢の猛攻を受け、枝城を立て続けに攻め落とされたことで戦意をうしない、居城・観音寺城から逃亡した。
当時、賦秀は鶴千代と名乗っており、歳は十三歳だった。
六角家の重臣であった父・賢秀は織田に降ることを決意し、嫡男である賦秀を人質として信長に差し出した。
信長は一目見て賦秀の眼光、面構えを気に入り、人質とは思えぬ破格の扱いをした。
小姓として重用するだけでなく、元服にあたっては弾正忠の名乗りから一字をとり忠三郎の通称を与え、自分の愛娘・冬を娶せることまでしたのだ。
賦秀は、信長の見込み違いだったと言われぬよう、懸命に役目をこなしてきた自負があった。
戦場にあってはたとえ信長自身に止められても、真っ先に敵陣に躍り込んで戦うことを怖れなかった。
およそ武将が身につけておくべき教養や技能はすべて身につける志を持ち、物事にあたってきた。
だが、それでも自分は本当に信長が見込んだだけの働きをしてこられたか。
賦秀は何度もその自問を繰り返していた。
そして、今やその答えを信長の口から聞く機会は永久に失われてしまった。
外敵によってではなく、信長に引き立てられたことで、考えられぬほどの立身出世を果たしたはずの明智光秀の手によって。
ただ前を向いていては石段しか見えないほどの急傾斜の大手道にあって、賦秀は再び顔を上げて天主閣を見据えげた。
(上様が残したものが、ただの城だけであってたまるものか。なんとしても、上様が実現させようとした天下を、我らが引き継がねばならぬ)
何度も自らにそう言い聞かせて、ともすれば萎えそうになる己の心を鼓舞する。
信長以外の他の誰にも、思い描いた天下を再現することなどできないのではないかとの思いは払拭できないが、それは決して表には出せない。
(長らく御傍にて小姓として仕えたこの儂とて、上様の真意が奈辺にあったか、本当に理解しているかどうか判らぬ)
その点では、重臣たる柴田勝家、羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀らとて心許ないとさえ言えた。
信長の嫡男・信忠も討たれたとなれば、連枝衆にも本当の意味で後継者たり得る者はいないのではないかとさえ思われた。
信長の構想を最も理解しているのは誰なのか、そう考えた時、ぞっとするような答えが脳裏に閃いた。
(明智殿、いや、光秀こそが一番の理解者であったやも知れぬ……)
なぜ謀叛を起こしたのか、問いだたしたい気持ちもあれば、今更どんな言い訳も耳に入れたくないとの思いもある。
しかし、「なぜ」はいつまでもつきまとうであろう、との確信めいた予感もあった。
大手道は突きあたって大きく左に折れ、しばらく左、右と曲がってから百々橋口から伸びる道と合流し、黒金門へと至る。
門の番衆とわずかなやりとりの後に賦秀は門の通行を許可され、二ノ丸へと足を踏み入れた。
「よう来た、忠三郎」
そこには、先触れで賦秀の到来を聞いていた蒲生賢秀が待っていた。
0
お気に入りに追加
24
あなたにおすすめの小説
毛利隆元 ~総領の甚六~
秋山風介
歴史・時代
えー、名将・毛利元就の目下の悩みは、イマイチしまりのない長男・隆元クンでございました──。
父や弟へのコンプレックスにまみれた男が、いかにして自分の才覚を知り、毛利家の命運をかけた『厳島の戦い』を主導するに至ったのかを描く意欲作。
史実を捨てたり拾ったりしながら、なるべくポップに書いておりますので、歴史苦手だなーって方も読んでいただけると嬉しいです。
土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
鬼嫁物語
楠乃小玉
歴史・時代
織田信長家臣筆頭である佐久間信盛の弟、佐久間左京亮(さきょうのすけ)。
自由奔放な兄に加え、きっつい嫁に振り回され、
フラフラになりながらも必死に生き延びようとする彼にはたして
未来はあるのか?
満州国馬賊討伐飛行隊
ゆみすけ
歴史・時代
満州国は、日本が作った対ソ連の干渉となる国であった。 未開の不毛の地であった。 無法の馬賊どもが闊歩する草原が広がる地だ。 そこに、農業開発開墾団が入植してくる。 とうぜん、馬賊と激しい勢力争いとなる。 馬賊は機動性を武器に、なかなか殲滅できなかった。 それで、入植者保護のため満州政府が宗主国である日本国へ馬賊討伐を要請したのである。 それに答えたのが馬賊専門の討伐飛行隊である。
天竜川で逢いましょう 起きたら関ヶ原の戦い直前の石田三成になっていた 。そもそも現代人が生首とか無理なので平和な世の中を作ろうと思います。
岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。
けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。
髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。
戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!?
夜に咲く花
増黒 豊
歴史・時代
2017年に書いたものの改稿版を掲載します。
幕末を駆け抜けた新撰組。
その十一番目の隊長、綾瀬久二郎の凄絶な人生を描く。
よく知られる新撰組の物語の中に、架空の設定を織り込み、彼らの生きた跡をより強く浮かび上がらせたい。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
朝敵、まかり通る
伊賀谷
歴史・時代
これが令和の忍法帖!
時は幕末。
薩摩藩が江戸に総攻撃をするべく進軍を開始した。
江戸が焦土と化すまであと十日。
江戸を救うために、徳川慶喜の名代として山岡鉄太郎が駿府へと向かう。
守るは、清水次郎長の子分たち。
迎え撃つは、薩摩藩が放った鬼の裔と呼ばれる八瀬鬼童衆。
ここに五対五の時代伝奇バトルが開幕する。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる