淡き河、流るるままに

糸冬

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(十八)

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 先陣を切った福島勢は中山道の南側、上方勢が布陣しているであろう不破関の眼前まで大きく踏み込み、北西にある天満山に対峙する形で布陣を終えた。
 同じ一番組の筒井定次、田中吉政らも中山道の北に並ぶ。
 藤堂高虎と京極高知は、中山道の南側にある柴井の地を陣と定めた。いずれも福島勢より東寄りに位置する形になる。
 続いて到着した二番組の黒田長政、竹中重門らは笹尾山に対峙する形で丸山に布陣。細川忠興、加藤嘉明、戸川通安らは中山道の北側を走り、敦賀方面に抜ける北国街道沿いに居並んで陣を整える。
 いずれの陣も、福島勢より東側、つまり後方になる。福島勢が最も敵側に食い込んだ形である。
 雨が止んでもなお深い霧が視界を塞ぐ中、家康は本隊三万を南宮山の北西に位置する桃配山の麓に据え、山頂を本陣としたとの報せが家康の使番によって正則の元に届けられた。
 一里ほど西に進んだところには、三番組として家康の四男・松平忠吉と井伊直政、本多忠勝の、織田有楽斎、古田重勝(古田織部とは別人)らが十九女ヶ池、茨原周辺に布陣している。
 その他、身代が小さく、一つの備えを形成できない小身の輩と呼ばれる諸勢がまとめて配置され、徳川譜代の本多忠勝・井伊直政らの指揮下に入っている。
 また、上方勢の毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、そして長宗我部盛親らが陣を構えた南宮山方面の押さえとして、池田輝政、浅野幸長、山内一豊の他、杭瀬川の戦いで兵を損なった有馬豊氏が後陣として垂井付近に回されている。
 西方には、上方勢が中山道を塞ぐ形でいちはやく陣を敷いて待ち構えている筈である。
 否応なく緊張が高まる。

 福島勢では、福島丹波治重、尾関石見守正勝、長尾隼人正一勝という、いわゆる福島家三家老と並び、可児才蔵にも先陣の栄誉が与えられた。
 なお、彼らの手勢には、それぞれ鉄砲衆が割り当てられた。
 才蔵が預かる陣借衆も、先陣の一端を担うこととなる。
「どれほどの大軍が目の前におるのやら」
 源兵衛が西の方角に目を凝らす仕草を見せる。
 頭は兜をつけず、相変わらずの行人包ではあるが、黒金色の南蛮胴のうえに檜皮色の陣羽織を羽織り、まさに戦さに臨む武士の出で立ちである。
 夜の闇に加え、日の出前から霧が濃く立ち込め始めていた。視界は一町どころか五十間も利かないほどだ。
 背後を振り返ってみても、福島正則の所在を示す「銀の銀杏葉」の馬印も、白い霧に覆い隠されて目にすることが出来ない。
 敵の陣容が判らぬこの状態では、戦機が満ちたとは言えないのだろうか、と次郎は思案する。夜が明け、霧が晴れるのを待つのか。
 そこへ、不意に霧に紛れるようにして於寿が乙蔵を伴って現れた。
「正面、天満山に陣取るは、宇喜多勢にございます。先手は白地に花久留子二つの旗印、明石掃部様とお見受けいたします」
「宇喜多家か。大身の大名だな」
 次郎は顎を撫でながらつぶやく。実際のところ、宇喜多勢を率いる宇喜多秀家のことについては、ほとんど知識はない。
「はい。さりながら、先年の騒動により、物慣れた侍大将が多く家を離れたとのこと。人数こそ揃えておりますが、軍勢としてのまとまりは欠くと見ました」
「よう見た。数を恃むだけの相手ならば恐れるに足りずか!」
 次郎の大音声に、別所一党が沸く。
 その中にあって、次郎自身は於寿の身を案じていた。
「その方ら、商人の身でありながら、今までよく尽くしてくれた。されど、これよりは戦さなれば、安全な場所に下がっておるがよい」
 うわさに聞いた安濃津城の女武者のように、戦さ場でも男に引けは取らぬ、などと言い出さないか心配していたのだ。
 しかし、次郎の懸念は杞憂に終わった。
「承知しておりまする。邪魔にならぬよう身を隠しまする。次にお会いするは勝利の後で。御武運をお祈りしております」
 於寿は晴れやかな表情で一礼し、乙蔵の身体に隠れるようにその場を離れる。
 今生の別れになるとも限らない割には、拍子抜けするほどあっさりとしたものだった。
(判っているつもりでも、人の心など簡単に推し計れるものではないか)
 教訓めいた思いが胸をよぎる次郎である。



 辰の刻(午前八時頃)。
「背後より、人馬が迫っております」
 後方から、陣借衆の誰かが才蔵に向けて呼ばわった。
「なんじゃと」
  程なくして、霧の中から赤黒い染みのように現れた一隊が姿をみせた。
「待たれよ! いずこに参られる」
 才蔵が行く手を遮るように飛び出して立ちはだかる。行きがかり上、次郎も才蔵について身構える。
(まさか、敵ではあるまいが)
 手鑓を持参していないことを悔いつつ、目を凝らす。
 近づいてきたのは、家康四男の松平忠吉と、その後見で軍監を勤める井伊直政の率いる赤備えの手勢であった。
「これより敵を物見いたす。道を開けよ」
 兜から伸びる金の天衝の脇立がひときわ目を引く井伊直政は、馬上から才蔵を見下ろして居丈高に言い放った。
「我等は、当軍の先陣つかまつる福島左衛門太夫より先手を命ぜられておる。我等を差し置いて物見など、僭越であろう」
「此度初陣である松平下野守様の後学のためである。無駄に歯向かうたところで、その方らにも、福島殿の為にもならぬと心得よ」
 松平下野守とは松平忠吉のこと。今にも才蔵を馬蹄にかけかねない形相の直政を前に、しばしにらみ合っていた才蔵は、ややあって渋々といった調子で脇に退いた。
 井伊直政と松平忠吉の一団が駆け抜けた後、その場には嫌な沈黙が残された。
「あれは、抜け駆けと申すものではなかろうか」
 ややあってから、次郎が呟く。
 何気ない独り言のつもりだったが、持ち前の地声の大きさが災いしてか、才蔵の耳にも届いてしまう。
 才蔵が次郎を苦々しい表情で睨む。
「お前ね、そういうことは思っても口に出すものじゃないよ」
 徳川秀忠率いる徳川本隊はいまだ戦場に到着したとの報せはない。
 このまま、徳川以外の諸勢ばかりが上方勢を撃破するような事態になるのは、家康にとっても望むところではない。
 故に、せめて一番槍は徳川勢の手で付けなければならない。
 かといって、福島正則としても、面目にかけても陣の持ち場を譲る訳にはいかない。
 井伊直政の突出は、それぞれの思惑の妥協の産物なのだ。
 笹の才蔵と恐れられる武辺者には似つかわしくない説明をくどくどと続けた。
「はっ。不調法者ゆえ事情もわきまえず、申し訳ございませぬ」
 次郎は素直に頭を下げる。
(大身の大名ともなれば、思いもよらぬことに気を回さねばならぬものらしい。難儀じゃものじゃな)
 気まずい空気を打ち払ったのは、霧の向こうから聞こえてきた銃声と、それにつづく喚声であった。
「やはり始めおっか」
 大音声というほどではないが、才蔵の呟きは、風に乗って次郎の耳に届いた。
 抜け駆けに怒り心頭といった風情ではない。物見が前線に出ることを許した時点で、こうなることは予見できていた様子だった。
 既に使番を福島正則の本陣に走らせており、井伊直政の抜け駆けは正則の耳にも届いている筈である。
「撃ち返せ!」
 才蔵の号令一下、配下の鉄砲組が進み出て隊列を形成し、筒先を敵陣に向けて一斉に撃ち放つ。
 もっとも、敵の姿もろくにみえないままの射撃であり、効果のほどは疑わしい。
 前方からも激しい銃声が轟いているが、狙って放たれているものではない。
 近くの空間を鉄砲の玉が空気を割いて飛び去る。その音に次郎は息をのんだ。
 次の瞬間、なにかにぶつかった乾いた音がしたかと思うと、鉛玉が跳ね返って後ろから足元の草地に転がってくる。
「この距離ではさほど怖くはないのか。しかし、凄い音じゃ」
 背後からの声に振りむいた次郎は目をむく。
 馬上にある浅黄色の陣羽織姿の源兵衛が、甲冑の具合を確かめるように右手で撫でていた。
「鉄砲玉が当たったのでございますか」
「うむ。肝が冷えたわ。しかし、今のうちに当たっておけば、悪運を祓ったとも言えよう。これで二度目はあるまい」
 源兵衛もさすがに後から恐怖心が沸いたのか、笑い声が固い。
「いかにも」
 次郎は頷き返し、あらためて身をかがめ気味にして敵陣の方角に目を凝らす。
 依然として敵の姿はおろか、天満山の輪郭すら定かではない。ただ白い霧が、鉄砲の筒口から吐き出される灰色の煙に汚されていくのが視界に入るばかりだ。
 しばらくの間、激しい銃声が轟き続けた。最前列に押し出た鉄砲組の中には、被弾して倒れる者も出始めたが、弾薬にも限りがあり、いつまでも撃ち続けられるものではない。
 鉄砲組の撃ち疲れ、手ごたえのなさ、銃の過熱など、様々な要因の末に、次第に勢いが落ちてくる。
「そろそろ頃合いか。鉄砲組は下がれ。可児才蔵が出るぞ」
 才蔵は小者から鑓を受け取ると、大声でそう宣言しただけで周囲に合図らしき合図も示さぬまま、霧の向こうの敵を目掛けて挑みかかっていく。
 心得た様子で才蔵の馬廻りである家臣はそれぞれの得物を持って後に続く。長柄組も同様に動き出す。
 別所一党をはじめとする陣借衆は、「かかれ」とも「そなたらはしばし待て」とも一言も告げられないままだったため、呆気に取られてその場に取り残される。
(これは、いかぬ)
 次郎は慌てて源兵衛の元に駆け戻った。ここで遅れを取る訳にはいかない。
「殿っ! 出陣の御下知を!」
 源兵衛は既に馬上にあった。
 他の陣借衆のように狼狽えた様子もない。表情こそややこわばっているが、恐怖に震えている訳でもない。
「次郎。此度は儂も行くぞ」
「お待ちくだされ。万余の軍勢同士による大戦さなれば、一刻やそこらでは終わりますまい」
「殿は後方にお控えいただき、まずはそれがしに先手を御命じくだされ」
 副将格である赤松外記と別所隼人の二人も、口をそろえて源兵衛を引き留める。
 長宗我部勢に加わっていた間は、別所一党は淡河勢に擬態していたため、源兵衛は表に立つ機会がなかった。
 従って実質、今回の戦さがはじめて別所家の三つ巴紋を掲げての復活戦となる。源兵衛が意気込むのも無理はなかった。
「その方らに戦わせてばかりでは、気が咎めるのじゃが」
 なんとか押しとどめようとする二人の言葉に、源兵衛は悲し気な目を次郎に向けてくる。
「別所の大将が健在であってこその我等にござる。行けと御命じ下されば、それでよろしゅうございます」
 実のところ、次郎は源兵衛の武技の腕前を知らない。あるいは名だたる豪傑にも引けを取らない可能性もある。しかし、どうあれ逸ったまま前に出させる訳にはいかない。
「皆がそうまで申すのであれば、致し方なし。ここは陣立てとおり、黒白母衣衆のいずれかに采配をあずけると致そう」
 源兵衛もここで不毛な問答をしている場合でないことはわきまえている。
「それがしにお任せくだされ」
 黒母衣の赤松外記と、白母衣の別所隼人が顔を見合わせた後、間を置かず、別所隼人が進み出た。源兵衛が頷き返す。
「左様か。ならば、者ども、かかれい!」
 経読みで鍛えた渋みのある源兵衛の美声が戦場に響く。
「行くぞーっ! 我に続け!」
 白母衣衆を束ねる別所隼人が自らに気合を入れるように、負けじと大音声で応じる。
 実際に別所隼人の指揮に入って前進するのは、馬乗り、徒立ちあわせて三十名ほど。
 赤松外記の黒母衣衆のほか、弓衆と鉄砲衆は加わらず、源兵衛の周りを固めることになる。
(やはり、この陣立てはいささか机上の空論であったやも知れぬな)
 別所隼人の周りに集まる人数を見やりながら、次郎は内心で苦々しく呟く。
 これまでは城攻めに参加するだけであったため欠点が見えづらかった。
 だが、五十名の徒武者のうち二十名を弓衆と鉄砲衆に十名ずつ割り振った結果、いざ敵中に斬り込むとなると槍を携える人数が心許ないことに否応なく気づかされたのだ。
 鉄砲奉行の田中孫右衛門も次郎と同じように感じているのか、妙に渋い顔で馬上の別所隼人を見上げている。
「若殿っ、馬を」
 助七が浮き足立った調子で、後ろから銭波の轡をとって追いかけてくる。
「よしっ。いよいよ大戦さぞ。足がすくんだとて、助けてやれるとは思うなよ」
 次郎は銭波の鞍に跨りつつ、助七に向けて声をかける。
 本当なら、「その方は下がっておれ」といってやりたいところである。
 しかし、馬乗りでありながら小者一人も連れずに戦場に赴けるほど、次郎自身も手馴れてはいない。
 さらに本音を言うなら、まだ馬の扱いも馬上での鑓裁きにも慣れているとは言い難く、徒立ちで臨みたいぐらいである。
 しかし、今は一介の陣借武者に過ぎないとはいえ、別所一党の馬乗り格となれば、えり好みはしていられない
「覚悟のうえで御供致しまする」
 次郎の不安も知らぬげに、気負った調子で助七が応じた。
「ご案じめさるな。鍛錬を重ねた若の鑓の前では、内訌でタガの緩んだ宇喜多の侍など何ほどのこともござりませぬ」
 鉄入斎が、傍らに控えて次郎を頼もしげに見やり、いつものように軽口を叩いた。
「是非、そう願いたいものだ」
 わずかに緊張が緩み、次郎は口元をほころばせた。

 根拠もない鉄入斎の持ち上げも、今は信じたい気持ちだった。
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