淡き河、流るるままに

糸冬

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(四)

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 鉄入斎が己の住処へと戻った後、一人残された次郎は板間に座り、戸口の方向に目を向けたまま改めて己の心に問いかける。
 別所源兵衛の決起に付き従う覚悟はあるのか、と。
 今を逃せば、おそらく二度とこのような機会が向こうから訪れることはないだろう。その点では一も二もなく馳せ参じる以外にない。
 だからこそ、次郎は迷っていた。
(人生の決断を、自らの意思でなく、周囲の状況によって決められてよいものか)
 武士でありたいと願いつつ、母親の意向に気兼ねして、何も決められなかった自分が言えた義理ではない。だが、どうしてもわだかまりは残る。
 しばし黙考していた次郎であるが、腕組みをして考えているだけでは刻の無駄と気付く。
 そこで、腰を上げた次郎は奥の間から持ち出した鎧櫃を開き、兜と甲冑を改めはじめた。
 本拠を焼き捨てて三木城に逃れた後に戦場で父を失い、身一つで讃岐に逃れてきた次郎が、先祖伝来の武具など持ち合わせている筈もない。
 ここにある黒革縅鉄丸胴の甲冑に黒塗の頭形兜は、次郎が形ばかりの元服を迎えるにあたり、鉄入斎がいずこかから一振りの刀と共に入手してきたものだ。
 使い古しの品ではないと聞いているが、いささか古ぼけた意匠にも見える。
 手入れは欠かさなかったため、埃を被っているなどということはなかった。わずかな汚れを磨いてふき取り、緒にほつれがないかを丹念に確かめる。
 とはいえ、実際に自分がこの鎧兜を身に着けて戦場に臨む日が来ることに、実感は沸かなかった。
(元服の折は、程なく初陣を迎えるとぼんやり思っていたか)
 次郎は過ぎ去った往時を思い起こす。
 元服とはいうものの、烏帽子親もいなければ実の親もおらず、名を与えてくれる者はいない身の上である。
 武士として身を立てている訳でもなかったので、前述のとおり、幼名の次郎丸をそのまま次郎と通称に改めるにとどめた。
 幸いというべきか、父・淡河定範の通称も次郎である。亡き父から引き継いだのだと、もっともらしく言おうと思えば言えた。
「諱はいかがなさるのですか」
 ふと、翡翠の声が耳の奥に蘇る。
 元服を終えたと聞いて顔を出した翡翠が、そう尋ねたのだ。
 当時、彼女は一足早く髪結いの儀を終えており、その物言いは次郎には急に大人びて見えていた。
 もっとも、当時そう感じたというだけで、思い返せば年相応だったと気づくのだが。
「そうですね。手柄の一つも立て、ひとかどの武士として認められた暁には名乗ることにしましょうか」
「いけませぬ。次郎様はいずれ名を知られる武士としなるのですから、諱をきちんと名乗らねばなりませぬ」
 はぐらかす次郎に対し、翡翠はそう独り決めをしたものだ。
「とは申せ、名付けてくれる親もおりませぬし」
「ではわたくしが名付けてさしあげます。次郎様は義に篤く、純粋な御方。故に、義に純で義純と名乗られるのがよろしいかと存じます」
 かなり以前から考えていたものだったのだろう。よどみなく口にした翡翠の得意げな顔は今も忘れられない。
「淡河次郎義純。ありがたく名乗らせていただきましょう」
 苦笑しながら次郎は応じた。そう応じなければ、どうにもおさまりが尽きそうにもなかったのだ。
 本当のことを言えば、父に倣い、範の一字を用いたい。それは当時も今も、胸の片隅に残る思いである。
 播州の雄・赤松氏の中興の祖である赤松円心こと赤松則村にあやかり、古くから播磨の武士は「則」または「範」の字を諱に用いることが多い。
 しかし、海を渡った讃岐に暮らす翡翠には、そのようなこだわりなどある筈がなかった。
 この後、翡翠は受領名も勝手に決めようとしたので、次郎は慌てて「民部と名乗ることに決めております」と伝えたものだ。
 私称であるから、あえて「民部少輔」や「民部丞」といった正式な官職名は名乗る必要はない。あくまでも民部は民部である。
 あえて父が名乗った弾正忠を継がなかったのにも深い意味はない。対照的な名乗りのほうが収まりが良いだろうと思ったに過ぎない。
 懐かしい思い出とともに、次郎は兜と甲冑の手入れを終える。
 いつしか、覚悟は定まっていた。
 後は、日頃の鍛錬に用いている手鑓を持参するばかりである。
 次郎は、壁に掛けた手鑓を手に取った。
 こちらは兜や甲冑と異なり、日課として巻藁だの竹だのを突くために手に取らぬ日はなかった。
 実際、数年前には何度も研ぎ直してあまりに寸詰まりとなったため、新しい穂先に交換したほどだ。
 次郎は過去に一度だけ、畑を荒らす猪を突き倒した経験がある。しかし、無論のこと人間を相手に用いる機会はなかった。
 果たして自分に人を討つことが出来るのか。手鑓の穂先を入念に磨きなおしつつ、次郎はそう自問せずにはいられなかった。

 翌朝。朝の日課を急いで片づけた次郎は、勤行を終えた論語先生を呼び止めた。
「お伝えしたいことがございます」
 次郎は、別所源兵衛から御家再興のための誘いがあったことを話し、自分はそれに乗るつもりだと付け加えた。
「左様であるか。そうか、別所の遺児がおったとはのう。けして成算は高くないであろうが、世に出る機会ではあろう」
 論語先生は苦し気な表情を見せ、自分を納得させるようにうなずく。
 今後、寺男として東星寺に残ったところで、次郎が肩身の狭い思いをすることは避けられないと知っている以上、あえて引き留めるつもりはない様子だった。
「急な話となりますが、明日にはお借りしている家屋を引き払うつもりです。その際、両親の位牌など、戦場には持っていけませぬゆえ、勝手ながら身辺が落ち着くまで寺にお預けしたいのですが、お受けいただけましょうや」
「そうじゃな。それぐらいはさせてもらおう。じゃが、預けっぱなしでは困るぞ。戦さが終われば、きっと引き取りに戻ってまいるのじゃぞ」
 論語先生の温かい言葉に、次郎は感極まりながら深く頭を下げた。



 次郎は身辺整理に一日をかけ、出立の朝を迎えた。
 見送るのは論語先生ひとりきりである。
「長らくお世話になりました。御恩は忘れませぬ」
 次郎は深々と頭を下げた。
「なんの。なにかと手の回らぬことの多い中、頼りにしておったよ。此度の決断が、次郎が世に出る良き機会となることを願っておる」
 論語先生は、路銀の足しにでもしてほしい、と次郎に餞別を握らせた。
 お礼の言葉を述べようとした次郎の耳に、総門の方から近づいてくる足音が聞こえた。
 ふと顔を上げると、頬を赤くした翡翠が駆け寄ってくる姿が目に入る。
「間に合ってよかった」
 息を切らせながら、論語先生から次郎が別所一党に加わって戦地に赴くことは聞いていたが、屋敷の外に出るのに時間がかかった、といったようなことを翡翠は早口で述べ立てる。
 確かに、今日はいつもお目付け役のようについてくる年かさの侍女の姿はなかった。
 翡翠の話に耳を傾けつつ、つい先日も同じように駆け寄られたのを次郎は思い出す。あれからわずかの間に、己を取り巻く状況は一変した。
 しばしの間を置き、千種はじっと次郎の目を見つめた。
「次郎様のお声は大きく、よく通りますから、きっと武将として大成なさると思います」
「声が大きいのは、武将向きですか」
「はい。以前に父が申しておりました。戦場で軍勢の駆け引きを指図するためには、声が大きくなければならぬと」
「なるほど。道理ですね。良き事を聞いたな」
「もっとも、小戦さしか知らぬ父の言葉ですが」
 あまりに素直に次郎が納得したことに戸惑ったのか、翡翠は言わずもがなの事を口にする。
「いや、それでも、その言葉一つが励みになります。これまで、大変世話になりました。御恩は忘れませぬ」
「次郎様はもう、この村に戻ってこないおつもりですか」
 翡翠が問うた。
「どうなるか判りませぬ。仕官が叶ったうえで、顛末を知らせに一度戻って来られれば上々でしょうが」
 生きて戻れない可能性もある、とまでは次郎もさすがに口に出来ない。
 だが、言葉にするまでもない自明の理であった。
「結果がどうなろうと、必ずお戻りください。次郎様の口からお聞きしとう存じます」
 翡翠は眉尻をきりりとあげて、睨みつけるような鋭い目線になる。
(この口ぶりを聞くのも、気の強い目を見るのも、これが最後になるかも知れない)
 その思いが去来すると、自然と表情が緩む次郎だった。

 次郎は鉄入斎と連れだって、別所一党が当座の根城としている讃岐国一宮である田村神社に向かう。
 馬など持っていないため、二人とも徒歩である。
 田村神社は源兵衛が婿養子として入った百相城からほど近い。源兵衛にとっては融通が利く場所なのだろう。
 二人は人目をはばかり、讃岐を東西に横断する人通りの多い南海道ではなく、その脇海道を選んで歩いていた。
 次郎は髷こそ武士風に結い直したものの、作務衣のままである。
 これも、下手に武士らしい格好をしてあらぬ疑いをかけられぬことを恐れたためだ。
 もっとも、旅の荒法師といった出で立ちの鉄入斎ともども鎧櫃を背負い、手鑓を肩に担いでいるのでは、その本性は隠しようもない。
 怪しげな二人組として見とがめられては、どうにも言い訳のしようもないだろう。
「貫禄からいえば、わたしはすっかり鉄入斎の従者だな」
 次郎の自嘲を、鉄入斎は例によって笑い飛ばす。
「なんの。九郎判官と武蔵坊弁慶、どちらの図体が大きかったかという話にござるよ」
「源義経公と弁慶かあ。この場合、あまり良き例えには聞こえぬなぁ」
 とりとめもない話に、次郎も笑う。
 鉄入斎の弁慶はともかく、自分が源義経の柄ではないことなど、次郎はよくわかっている。
 だがそれ以上に己の置かれた立場を考える。今、この歩みは居場所を失って余儀なくされた逃避行か。いや、あるべき姿を取り戻すための新たな門出なのだ。
 次郎はふと思いついて来た道を振り返り、飯野山を見上げた。近すぎる場所に住んでいたため、その輪郭を見ることができなかった飯野山は、今は絵に描いたような円錐形をみせていた。
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