仕合せ屋捕物控

綿涙粉緒

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第陸章 風の名残

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「あ、これは北川様。ようこそいらっしゃいまし」

 いつもの場所にいつもの様にあった仕合せ屋には、どことなく何かが欠けている様に見え、北川はしばし遠くから眺めていた。

 湯気の一筋すら、寂しげに見えたのだ。ところが、意を決して入ってみれば、店主利吉は、まったくいつもとかわらない風情で、北川にそう声をかけた。

「お、おう、変わりないか」

「へぇ」

 これまたいつもと何もかわらない、あの、利吉に似つかわしい返事。

 これが、父親ってもんかね。かなわねぇ。

 北川は、心底感心して利吉の顔を眺めた。

「どういたしましたんで、何か変な風にでもなってますんで?」

 じろじろと見つめる北川の視線を気にして、利吉が鼻の頭をこりこりとかいた。何もかもが、いつも通りだ。

「あ、なんでもねぇんだ」

 しどろもどろになる北川に気づかない様に装い、利吉はいつもの様に注文を聞いた。

「蕎麦と……熱燗で?」

「あ、そうだな」

 熱燗。

 それを頼むことが、北川には怖くて仕方なかった。何も変わらないように見える仕合せ屋の、否応もなく変わってしまった部分に触れるのが、恐ろしくてしかたがなかったのだ。

 見たくない現実を、目にする事が、だ。

 しかし、それも利吉の先刻見通しの事らしい。何も言わず、そして、まるで空気のように自然に、北川に熱燗を勧めたその声には、凛とした気が漲っているいるように思えた。

 なんだ、美代みてぇじゃねぇか。

 北川が心でそう呟いたその時、利吉が足下に声をかけた。

「熱燗だ、早くしねぇか」

 そう言われて、ひょいと顔を出したその少女は、間違いなく……。

「お美代、おめぇもう……いいのか」

 美代だった。

 いままで見たどの顔より表情をなくし、そして、いままでのどの時より真っ白に血の気を失った。

 美代が、何も言わずに突っ立っている。

「へぇ、家でふさいでいても仕方ねぇんで、無理矢理に引き摺ってきたんですよ」

 利吉は、すまなそうにそう言って、美代の身体を七輪の方に押しやった。

 美代は、一言もしゃべらない。

 初めて見た時と寸分の違わない、それでいてまったく変わってしまった、白く美しい顔をぴくりとも動かさず、どこでもないどこかをじっと見つめていた。

 北川は目を伏せた。見て、いられなかった。

 やっぱり、もう、そこにいるのは、俺の知ってる美代じゃない……。

 虚空を見つめて、まるで、心のない浄瑠璃人形のようにただ動いているだけの、その娘を眺めながら、北川は胸がひどく痛むのを感じた。利発で、気が強くて、そして少し照れ屋の美代は、もうどこにもいないのだ。その事実が、胸に刺さった。

 そうさ、あの夜確かに、俺の知っている美代は、死んでしまったのだ。

 むりもねぇ。

 俺が、殺したのだから。 




「おおおおおおおお!」

 裂帛の気合いと共に吐き出された怒号が、暗い御堂の中に満ちる。

 あの夜、あの瞬間、北川は全ての決意を形にすべく、渾身の力を込めて白刃を切り上げていた。

 が、振り切ったその刀に、手応えが、ない。

 それもそのはず、北川の渾身の一撃は、疾風の身体を穿つことなく、宙を虚しく斬っただけだったのだ。

 な、なぜだ……あり得ん。

 刀を右手一本で突き上げた格好のまま、北川は我が目を疑った。幻術の様だった。

 けして届かぬ間合いではなかった、いや、何より、北川ほどの腕を持つ人間が、間合いをしくじろうはずがなかった。

「ぬかったねぇ」

 疾風が、ねばつくような声でそう小さく呟く。真っ赤な唇が、にやりとつり上がり、その隙間からしゅうしゅうと白い息が漏れる。

 しまった。

 北川は、その声で全てを悟った。

 これは、幻術なんかではない。もちろん、北川が間合いをしくじったのでも、ない。

 北川の白刃が疾風の身体をとらえるその刹那、疾風の方が、半足後ろに身を引いたのだ。あの瞬き一つの間もない攻防の中、紙一重で北川の剣閃をよけるという神業を、疾風はやってのけたのだ。

 疾風の着物のあわせが、はらりとはだけ、白い肌が覗く。しかし、血の一滴も流れない。

 北川は、全てを読み違えていた。

 疾風が大上段に構えたのは、刀身の重みを剣速に変えたかったからではない。北川の居合いと、早さ比べをするなんて博打に、疾風は乗ったのではなかったのだ。そうではなく、紙一重で北川の白刃を交わすには、身体の前で青眼に構えていたのでは腕ごと持っていかれるからだったのだ。

 北川が、居合いを構えた時から。

 すべては疾風の思惑通りだった。

 疾風の剣の腕の本当の凄みは、身のこなしでも練達の業でもない。もろんそれも凄まじいが、本当の肝は、ここまでさんざん見せられてきた、先読みの力によるものだったのだ。天が与えた、呪われた、妖物の力だったのだ。

「ざんねんだったねぇ」

 疾風はそう言うと、陽動のために半分まで振り下ろした刀をもう一度頭上にもちあげると、にやついたままの表情でふたたび振り下ろす。

 対して北川は、踏み出した右足に全身の力を込め直し、半身をひねって振り返りざまに右手一本で疾風の首を凪ぎに行った。

 しかし、渾身の力で一度振り抜いた刀の重みが、北川の身体に一瞬のためを作る。 

 生死を分けるには、充分すぎる、刹那の制止を。

 斬られる。

 剣客の勘が、その事実が揺るぎない事を告げていた。

 ところが、疾風の刀が北川の身を裂くその一拍前、何を思ったか疾風の動きがガクリと止まった。

 「フッ……そう……」

 疾風は小さくそう呟いた。

 しかし、北川に何が起こったかはわからない。

 ただ、北川が、その一瞬を見逃す事など、あろうはずがなかった。

「疾風!覚悟!」

 怒声と共に、ここぞとばかりに全身で振り抜いたその刀は、正確に疾風の喉笛に食らいつき、ゾクリと不快な音を立てて、一間以上もその首から上を上空に吹き飛ばした。

 ――ブシュゥゥ

 不気味な噴出音と共に、疾風の頭が大きく弧を描き、御堂の梁に当たると床に転がる。

 と、同時に、首から抱え筒の火花の様な鮮血を吹き出しながら、疾風の身体が前のめりに倒れて落ちた。

「が……かはぁ……」

 北川は、乾ききって張りついたような喉からそう一つ息を吐き出すと、ピクピクとうごめく、宿敵の身体を見下ろした。

 みるみるうちに、床に血溜まりが広がる。

 やった……終わった……。

 そう思った途端、急に身体が震えだした。

 なぜだかわからないが、いまここに立っているのは、疾風でなく自分。どう考えても斬り負けると思っていた。転がるのは自分だと思っていた。なのに、転がったのは……疾風。

 俺は……勝ったのか……。

 いや。

 終わっちゃ……いねぇ……。

 北川は、震えと共に訪れた達成感をふりほどき、右手一本で固く握りしめられていた刀の柄に左手を添えると、美代の方に向き直った。

 美代は、うずくまっている。

 疾風の身体に、寄り添うように。

 全身を、返り血で真っ赤に染めて。

 震えている。

 しかし、見逃すわけには、行かない。俺は、この北川正五郎は、火付け盗賊改めなのだ。

「美代、これがお前の選んだ道だ!」

 北川は、その身の内から感情の全てをその一言に乗せて吐き捨てると、疾風の亡骸を大足でまたぎ、美代の身体に向けて踏み込んだ。

 その時。

 ――旦那、早まっちゃいけませんぜ。

 太平の声だ。

 どこからか、確かに、はっきりと、太平の声が聞こえた。

 北川の耳に、間違いなく、届いた。

 と同時に、得体の知れない何かに袖を引かれたような格好で、北川の動きが、ぴたりと止まった。

 そして、美代が、北川の方を見ることなく、北川に話しかけた。 

「お……おじちゃん……あ……あたし……」

 美代は、震えながら呟く。

 どこを見ているともない、焦点の定まらぬ視線をうろうろと泳がせながら。熱に浮かされて、死ぬ寸前の病人のように。

「あ、あたし……母ちゃんを……あたし……」

 ま、まさか……。

 北川は、完全に脱力しきって刀をがちゃりと床に投げ捨てると、美代の手に握られているものとその表情を見て、全てを悟った。

 全てを、その、おぞましい全てを。

「美代、まさかお前……」

 北川がそう言って美代を見下ろすと、美代は、その手から、ちゃりんと涼しげな音を立ててキラキラとしたものを床に転がした。

 半分血に染まったそれが、月の光に照らされて光る。

「そりゃおめぇ……俺がおめぇにやった……」

 かんざしだった。

 秋葉亭の座敷で、美代に北川が贈った、銀のかんざし。

 初めて解決した事件の褒美にやったものと色違いの、薄紅の珊瑚の付いた銀のかんざし。

 血塗れた。

 かんざし。

「おめぇ、まさか、それで、疾風を……」

 北川の声に、美代は、震えながらその顔を見上げた。

 がくがくと震える顔の真ん中で、生気をなくした大きな瞳が見開かれたままで固まり、そして、その縁からなんの感情もなく涙が流れ落ちる。半開きのまま、上手く閉じる事も出来ない口から、細い声が漏れる。

「あ、あたし、わ、わかっちゃったから。疾風が……お母ちゃんが、おじちゃんの刀をよけようとしてるのが……だから……だから……」

 なんてこった。

 北川は、その場にへたり込むように腰を下ろした。

 この、この俺でさえ読み切れなかった事を。おめぇは読み切ったって言うのかい。

「おじちゃんが……斬られるって……わかったから……」

 そこまで言うと美代は、自らの身体を自らの腕で抱きしめ、いままで以上いっそうがくがくと震える身体を力任せに締め上げた。

 そうしていないと、正気を保てないのだろう。やってしまった事の重みに、耐えられないのだろう。

「あたし……お母ちゃんを……殺したんだよね……おじちゃん」

 そう言って美代は、北川ににじり寄り、その着物の袖を、血塗れたその袖を、力の限りに引き絞って叫んだ。

「お母ちゃんを、殺したんだよね。ねぇ!おじちゃん!!」

 北川は、そんな美代を抱きすくめる事も出来ずに放心していた。 

 そう、美代が疾風に飛びついたのは、利吉より疾風を選んだのではない。仕合せ屋より、悪党の跡取りを選んだのでもない。

 そんなはずがない。

 そんなわけ、あるはずがなかった。

 美代は、哀れなその娘は、北川を救うべく、その北川からもらったかんざしで、うつくしい美代の髪を飾るはずだったかんざしで……。

 疾風を刺しに行ったのだ。

 自らの母を、殺しに行ったのだ。

 がくりと一瞬疾風が止まったのは、そのせいだったのだ。

「すまねぇ……美代。すまねぇ……」

 北川は、すがりつく美代に触れる事も出来ずに、頭を抱えてうずくまった。うずくまって、美代と同じように、震えた。

 太平、太平よ。俺はなんてぇ間抜けだ、なぁ、なんてぇぼんくらだぁ。俺の読み違えが、俺のこの冴えねぇ頭が、美代に、こんな小さい娘に、畜生働きをさせちまったよ。母親殺しの、片棒を、担がせちまったよ。

 なぁ、太平。

 俺は、北川正五郎は誰も救っちゃいねぇよ……。

 俺は、美代を、美代の心を、小さな小さな、その、心を。

 斬っちまったんだ。

 なぁ……、太平よ。

 北川は、その場にうずくまったまま、血塗れた床を力任せに殴りつけた。

 ――びちゃり。

 疾風の血が、飛び散って北川の顔にかかる。

 疾風が、あざ笑っているような、気がしていた。

 いや、あざ笑っているに、違いなかった。

 笑われていても、仕方がなかった。
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