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第伍章 吹き溜まり
壱
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「月が……陰って来やがったなぁ」
手紙に書いてあった場所。つまり、桜屋の主が眠っている墓所の、小さな御堂の前で、北川は空を見て呟いた。
先ほどから、雲が出てきたようで、あたりは真っ暗になってしまっている。ここまで先導した利吉の記憶通りなら、そして手紙に書いてある通りなら、今この中に美代と疾風がいる。
そう言う事になっている。
つまり、ここからは、殺し合いは避けられない。
明るい方が……好きなんだがなぁ……。
北川は、刀の柄を握りしめながら、恨めしそうにもう一度空を見た。
ここからは命のやりとりになる、そしてその相手は、あの惚れ込んでしまうような業と腕をもった疾風なのだ。
しかも、疾風は盗賊。夜の住人。
いくら北川が火盗改めとはいえ、暗闇での勝負となれば、あちらに一分の利がある。
……とはいえ、心を決めなきゃなぁ……。
北川は、小さく一度「シッ」っと気合いを吐くと、利吉に小さく声をかけた。
「利吉、行くぜ」
「へ、へぃ」
利吉は、別にここまで来ていながら怖じ気づいたという事ではないのだろうが、やはり初めての修羅場に緊張の色は隠せない。
無理もない事だ、中にいるのは、疾風なのだから。
しかし、あまり怯えられても、困る。足手まといは覚悟の上だが、それでも、美代を取り戻すには必要な人間なのだ。
「しゃんとせんか、ゆくぞ!」
北川はそう利吉をどやしつけると、御堂の小さな階段を一気に駆け上がり、入り口の戸を勢いよく蹴破った。
――バクッ
そう鈍い音がして、戸板が内向きに外れて倒れた。
その途端、埃が煙の如くもうもうと立ち上がるのが闇の中でも見えるようで、辺りにかび臭いにおいが立ちこめる。
中からの反応は、ない。
「火付け盗賊改めである!神妙に縛に……」
北川は、いつものようにそう叫んで、そして、途中で息をのんだ。
その様子に、利吉が声をかける。
「ど、どうしましたんですかい……北川様」
利吉は、しどろもどろになりながらも北川の隣に立つと、御堂の中を見渡した。
その狭い御堂の中は真の闇で、足先三寸も見えない。
「誰も……いないんですか……ね」
利吉はそう言うと、いないと見えるのを良い事に、中の方へ一歩踏み出そうとした。
すると、北川が、慌てて利吉の着物の袖をつかむ。
「ひっ……おでれぇた、北川様、いきなりなんです?」
利吉がおどおどとそう言うと、北川は何も言わず、利吉を睨みつけた。
利吉は、その尋常でない様子に、立ち止まる。
「な……なんです」
「黙れ!」
北川は低くそう言うと、闇の中央に目をこらした。
何も見えない。
真の闇。
しかし、北川は目の先あたり、ちょうど御堂の真ん中、北川の前三間先辺りに間違いのない、人間の気配を感じていた。
いや、違う。北川が、感じたのではない。
その辺りにいるだろう人間から、まるで自分の存在を誇示するかのように、百戦の経験のある北川ですら総身の毛が逆立つほどの剣気が、凍えるほどに冷たく放たれていたのだ。
……これぁ、間違いねぇ……疾風だ。
額に、一気に汗が噴き出した。
北川は、利吉の袖をしっかりとつかんだまま、真横に少し足をずらす。
どうにかして疾風をこの目でとらえようと、わずかでも光の差し込む入り口の前から移動しようとしているのだが、一歩でも前に進む事が出来ない。北川は、まるでそこに見えない壁でもあるかのように、視線の先を中心にして大きく弧を描くように横に進んだ。
北川にはわかっているのだ。
今自分が立っている所が、疾風の間合いの際であると言う事が。これより一寸でも前に進めば、北川は疾風の間合いの内にはいる。
そうなれば、終わりだ。
頭から……バッサリだろうなぁ……。
北川は、いやな想像をして、ごくりとつばを飲み込んだ。
と、その時、にわかに曇っていた空が晴れて、北川の背後の入り口から青い月明かりが徐々に差し込んできた。
しめた……ありがてぇ……。
北川は心の内で喝采をあげた。
こちらは順光、あちらは逆光。
両方とも、見通しは良くないのだが、少なくとも、こちらから程もあちらからの見通しは良くないはずだ。
これで、少しばかりの勝ち目が出てきたというものだ。
北川は低く身を構え、刀の柄を軽く握ると徐々に明らかになる疾風の身体に目をこらした。差し込む青い月の光が、足先から腰を通り、徐々に全身が明らかになってゆく。そして、最後。青い月影に、その顔が露わになった。
「な……なんだと……」
北川は、明らかになった疾風の顔に、息をのんだ。
なんだ……こりゃ……いったい……。
と、その時、北川がつかんでいた利吉の袖が強引に引き抜かれ、北川が止める間もなく前方へ進み出た。
「ま、まて!」
北川は慌てて手を伸ばしたが、届かない。とはいえ、このまま不用意に前進する事など、北川にも出来ない。
北川は、もう一度疾風を見た。
にやり。
目が合うやいなや、疾風はそうゆっくりと微笑んだ。
真っ赤な唇で。
月影に照らされ、まばゆいばかりに光り輝く、真っ白な顔を歪ませて。
と、その時、利吉が場違いなほどの大声で叫んだ。
「お……おめぇ!おけいじゃねぇか!」
……なんと……そう言う事……か……。
北川は、唇を噛みしめた。
疾風は……女だった。
疾風は……桜屋に美代と共に現れた、利吉の妻、おけいだった。
美代の父親ではなく……母親だったのだ。
なんてこった、美代の奴、それを自分の中にだけ閉じ込めてじっと隠してやがったとはな……。
利吉を思って、嘘までついて。
「久しぶりだねぇ……あんた」
そうやさしく言って疾風は柔らかな表情のまま微笑んだ。と、同時に、まばたきよりも早く剣を引き抜くと、白刃を光らせて抜き打ちざまに利吉の腹を凪いだ。
「ぐぼぇぇ」
奇妙な声を上げて、利吉が疾風の右斜め後ろ、北川の左斜め前の壁まで吹っ飛ぶ。
しかし、北川はそんな利吉に目もくれない。峰打ちなのはわかっていた、それに、北川の目は、疾風とその隣に立っているものに奪われていたのだ。
「ふ……いつまで旦那ぶってるんだか……」
そう言って利吉を見下ろす疾風の陰には……美代が立っていたのだ。
表情もなく、市松人形の如く。
……これぁ、瓜二つだ……。
北川は、放心して見とれた。
「北川様だったね……、どうやら、うちの娘が世話になったみたいで」
疾風はそう言うと、手を伸ばして美代の黒い髪を撫でた。
「お礼に……死んでもらうよ」
にやりと笑いながら、そう言った疾風の顔は、まさに美代の生き写し。
それを見るだけで、疑う余地も、その必要もなかった。
今目の前にいるのは、疾風だ。
利吉の妻、おけいだ。
そして、美代の……母親だ。
北川が今から斬らねばならぬのは、美代の本当の母親なのだ。
……信じられねぇ……因果だな……。
北川は、吹き飛ばされた利吉に目をやる余裕もなく、歯ぎしりをして疾風を睨んだ。
斬るしか、ねぇよな、美代の母を。
斬るしか……ねぇんだよな。
北川は、もう一度心に喝を入れ直した。
手紙に書いてあった場所。つまり、桜屋の主が眠っている墓所の、小さな御堂の前で、北川は空を見て呟いた。
先ほどから、雲が出てきたようで、あたりは真っ暗になってしまっている。ここまで先導した利吉の記憶通りなら、そして手紙に書いてある通りなら、今この中に美代と疾風がいる。
そう言う事になっている。
つまり、ここからは、殺し合いは避けられない。
明るい方が……好きなんだがなぁ……。
北川は、刀の柄を握りしめながら、恨めしそうにもう一度空を見た。
ここからは命のやりとりになる、そしてその相手は、あの惚れ込んでしまうような業と腕をもった疾風なのだ。
しかも、疾風は盗賊。夜の住人。
いくら北川が火盗改めとはいえ、暗闇での勝負となれば、あちらに一分の利がある。
……とはいえ、心を決めなきゃなぁ……。
北川は、小さく一度「シッ」っと気合いを吐くと、利吉に小さく声をかけた。
「利吉、行くぜ」
「へ、へぃ」
利吉は、別にここまで来ていながら怖じ気づいたという事ではないのだろうが、やはり初めての修羅場に緊張の色は隠せない。
無理もない事だ、中にいるのは、疾風なのだから。
しかし、あまり怯えられても、困る。足手まといは覚悟の上だが、それでも、美代を取り戻すには必要な人間なのだ。
「しゃんとせんか、ゆくぞ!」
北川はそう利吉をどやしつけると、御堂の小さな階段を一気に駆け上がり、入り口の戸を勢いよく蹴破った。
――バクッ
そう鈍い音がして、戸板が内向きに外れて倒れた。
その途端、埃が煙の如くもうもうと立ち上がるのが闇の中でも見えるようで、辺りにかび臭いにおいが立ちこめる。
中からの反応は、ない。
「火付け盗賊改めである!神妙に縛に……」
北川は、いつものようにそう叫んで、そして、途中で息をのんだ。
その様子に、利吉が声をかける。
「ど、どうしましたんですかい……北川様」
利吉は、しどろもどろになりながらも北川の隣に立つと、御堂の中を見渡した。
その狭い御堂の中は真の闇で、足先三寸も見えない。
「誰も……いないんですか……ね」
利吉はそう言うと、いないと見えるのを良い事に、中の方へ一歩踏み出そうとした。
すると、北川が、慌てて利吉の着物の袖をつかむ。
「ひっ……おでれぇた、北川様、いきなりなんです?」
利吉がおどおどとそう言うと、北川は何も言わず、利吉を睨みつけた。
利吉は、その尋常でない様子に、立ち止まる。
「な……なんです」
「黙れ!」
北川は低くそう言うと、闇の中央に目をこらした。
何も見えない。
真の闇。
しかし、北川は目の先あたり、ちょうど御堂の真ん中、北川の前三間先辺りに間違いのない、人間の気配を感じていた。
いや、違う。北川が、感じたのではない。
その辺りにいるだろう人間から、まるで自分の存在を誇示するかのように、百戦の経験のある北川ですら総身の毛が逆立つほどの剣気が、凍えるほどに冷たく放たれていたのだ。
……これぁ、間違いねぇ……疾風だ。
額に、一気に汗が噴き出した。
北川は、利吉の袖をしっかりとつかんだまま、真横に少し足をずらす。
どうにかして疾風をこの目でとらえようと、わずかでも光の差し込む入り口の前から移動しようとしているのだが、一歩でも前に進む事が出来ない。北川は、まるでそこに見えない壁でもあるかのように、視線の先を中心にして大きく弧を描くように横に進んだ。
北川にはわかっているのだ。
今自分が立っている所が、疾風の間合いの際であると言う事が。これより一寸でも前に進めば、北川は疾風の間合いの内にはいる。
そうなれば、終わりだ。
頭から……バッサリだろうなぁ……。
北川は、いやな想像をして、ごくりとつばを飲み込んだ。
と、その時、にわかに曇っていた空が晴れて、北川の背後の入り口から青い月明かりが徐々に差し込んできた。
しめた……ありがてぇ……。
北川は心の内で喝采をあげた。
こちらは順光、あちらは逆光。
両方とも、見通しは良くないのだが、少なくとも、こちらから程もあちらからの見通しは良くないはずだ。
これで、少しばかりの勝ち目が出てきたというものだ。
北川は低く身を構え、刀の柄を軽く握ると徐々に明らかになる疾風の身体に目をこらした。差し込む青い月の光が、足先から腰を通り、徐々に全身が明らかになってゆく。そして、最後。青い月影に、その顔が露わになった。
「な……なんだと……」
北川は、明らかになった疾風の顔に、息をのんだ。
なんだ……こりゃ……いったい……。
と、その時、北川がつかんでいた利吉の袖が強引に引き抜かれ、北川が止める間もなく前方へ進み出た。
「ま、まて!」
北川は慌てて手を伸ばしたが、届かない。とはいえ、このまま不用意に前進する事など、北川にも出来ない。
北川は、もう一度疾風を見た。
にやり。
目が合うやいなや、疾風はそうゆっくりと微笑んだ。
真っ赤な唇で。
月影に照らされ、まばゆいばかりに光り輝く、真っ白な顔を歪ませて。
と、その時、利吉が場違いなほどの大声で叫んだ。
「お……おめぇ!おけいじゃねぇか!」
……なんと……そう言う事……か……。
北川は、唇を噛みしめた。
疾風は……女だった。
疾風は……桜屋に美代と共に現れた、利吉の妻、おけいだった。
美代の父親ではなく……母親だったのだ。
なんてこった、美代の奴、それを自分の中にだけ閉じ込めてじっと隠してやがったとはな……。
利吉を思って、嘘までついて。
「久しぶりだねぇ……あんた」
そうやさしく言って疾風は柔らかな表情のまま微笑んだ。と、同時に、まばたきよりも早く剣を引き抜くと、白刃を光らせて抜き打ちざまに利吉の腹を凪いだ。
「ぐぼぇぇ」
奇妙な声を上げて、利吉が疾風の右斜め後ろ、北川の左斜め前の壁まで吹っ飛ぶ。
しかし、北川はそんな利吉に目もくれない。峰打ちなのはわかっていた、それに、北川の目は、疾風とその隣に立っているものに奪われていたのだ。
「ふ……いつまで旦那ぶってるんだか……」
そう言って利吉を見下ろす疾風の陰には……美代が立っていたのだ。
表情もなく、市松人形の如く。
……これぁ、瓜二つだ……。
北川は、放心して見とれた。
「北川様だったね……、どうやら、うちの娘が世話になったみたいで」
疾風はそう言うと、手を伸ばして美代の黒い髪を撫でた。
「お礼に……死んでもらうよ」
にやりと笑いながら、そう言った疾風の顔は、まさに美代の生き写し。
それを見るだけで、疑う余地も、その必要もなかった。
今目の前にいるのは、疾風だ。
利吉の妻、おけいだ。
そして、美代の……母親だ。
北川が今から斬らねばならぬのは、美代の本当の母親なのだ。
……信じられねぇ……因果だな……。
北川は、吹き飛ばされた利吉に目をやる余裕もなく、歯ぎしりをして疾風を睨んだ。
斬るしか、ねぇよな、美代の母を。
斬るしか……ねぇんだよな。
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