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第壱章 蕎麦屋の父娘
肆
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「それで北川様、うまくいったんですかい?」
店主は、蕎麦をじっと見つめながら、そう問いかけた。
「ああ、まぁな。ただ、お美代の話じゃここでかたが付くはずだったんだが、大店の方はもうちょっと粘ったな」
北川がそう言うと、お美代が冷酷に吐き捨てる。
「往生際の悪い」
その言葉に、北川はぷっと吹き出して、お美代の言葉に同意した。
「ああ、お美代の言うとおり、本当に往生際の悪い奴だったよ」
ほんとに、なぁ。
―――
「しかし、そうは言われましても、やはり私どもの方で狂言を弄《ろう》するなど何の意味もないことではないですか」
湊屋は、そう言って食い下がった。
「しかも、拐かしと偽って仮に私が匿っていたとしても、いつかは出してやらねばならない。そうなれば同じこと、縁談は盛り返し、私ども湊屋は太田様と縁続きに……」
北川は、とうとう我慢の限界に達した。
いや、この湊屋誠右衛門の顔を見続けるのがほとほとうんざりになったというべきか、どちらにしても。
茶番はしめぇだ。
「ええい湊屋、いい加減にしやがれ!」
北川は、立ち上がって怒鳴った。
「拐かしから帰ってきた町人の娘と、由緒ある大名の縁続きが、何もなかったかのように縁談を進めると思うか?ん?どうだ!」
北川は続ける。そのものすごい剣幕に、湊屋はもはや気力も萎え、その場にへたり込んでしまっていた。
「しかも、ことはおまえの家にとっての不幸。さしもの太田家とはいえ、あまり表立って批判もできまい。おまえは太田家との縁も切れて借財はそのままになり損をせず、縁談も流れてこれ以上の無体な借金を迫られることもない。ちがうか?こりゃ、お前にとって八方損無しって寸法だろ?なんとか言ってみねぇか!」
鬼の形相で北川は続ける。
「しかもだ、今回の件。知っているのはお前だけではあるまい。少なくともこの店の主だった人間はみな知っているはずだ。下手ぁすると、親戚筋にも知ってるやつがいるに違いねぇ、どうだ?ええ、どうなんだ!」
美代が言うには、この店の大番頭から番頭。古参の手代くらいは必ず知っているはずなのだそうだ。確かに、これほどの事、主一人でできるはずがない。
「なんとか言わねぇか!湊屋!」
北川の畳みかけるような怒声に、とうとう湊屋がおれた。
「も、申し訳ございません。すべて北川様のおっしゃるとおりで……」
湊屋は、そう言って頭を抱える。
そして、そんな湊屋の様子を、お内儀は幽霊かもののけでも見るような表情で、食い入るように見つめていた。
「あ、あんた、なにを……」
北川は、ゆっくりと座り直すと、お内儀に向かって語りかけた。
「そう、残念なことではあるがの、お内儀。聞いてのとおり、娘のあきは、この湊屋誠右衛門が拐かし、たぶん、別宅がどこかに閉じこめておるのだよ」
「そ、そんな、なんてことを!!」
お内儀は、そうさけぶと、憎々しげに夫を見つめた。
しかし、そんな妻のそぶりに、湊屋は逆上してさけび返す。
「仕方がないだろう!これもみんな、御店のため、お前のため、そしておあきのためでもあるんだ!あんな莫大な太田様の借金を帳消しにした上、これから永劫むしり取られて見ろ、身代は早晩傾き、私たちは路頭に迷うほかないのだぞ!」
口角泡を飛ばして、湊屋は叫ぶ。大店の主として、それがさも当たり前であるかのように。
そんな湊屋を、北川は黙って見ていた。もし美代の読みが当たっていれば、この先、北川が手を下さずとも、収まりどころは決まっているのだ。
そして、その予想通り、お内儀がさらに大声で湊屋に怒鳴り返した。
「馬鹿をいわないでおくれ!拐かされて縁談が流れでもしたら、それが周りに知れるようなことになったら、おあきはどうなるんだい。おあきは、おあきの心はどうなるんだい!!」
何もかも、お内儀の言うとおりだ。
婚儀前の娘が拐かされ、よしんば帰ってきたとしても、その婚儀が流れれば、人は、思うだろう。
ああ、あの娘は、犯されてしまったのだ……と。
それは、若い娘にとって、死ぬよりつらい地獄だ。
そして、それを仕組んだのが……実の父だと知ったら。
「仕方ないではないか!おあきには、ここの二番番頭でもくれてやればいい。あいつなら商売の事は一通りわかってもいるし、それが一番良いではないか!」
そして、その父親が、金のために娘をそんな風にしたのだとすれば。
「あんた正気かい?正気で言ってるのかい?本気で、本心で、父親として間違いのない心で、本当にそう思ってるのかい?」
「ああ、本気だよ、悪いか!」
金のために娘に傷をつけ、しかも、共にそれを企んだ人間に嫁がせるなどという事を悪びれる様子もなく語るおあきの父親でもあるはずの自らの連れ合いの態度に、お内儀の黒い瞳は焦点を失っていた。
「あんた、あんたは鬼畜だよ、犬畜生だよ!私たちの可愛い、いや、私の可愛いおあきが、あの娘が、まだ十六にもならないあの娘が、そんなひどいことになって、それでもあんたはまだ御店大事だってぇのかい!」
お内儀の形相は、まさに般若のようである。
「あんたは……あんたってひとは……」
そこまで言うと、お内儀は突然糸の切れた繰り人形のようにその場に崩れ落ちた。
この数日間、寝るに寝られず食うに食われず、ただ娘の無事を祈り続けて幾晩も越え、そして今日のこの有様。
倒れてしまうのも、無理のないことであった。
―――
「はぁ、やっぱりうめぇよ」
北川はそこまで語り終えると同時に、蕎麦も食い終えた。
まったく、器用にしゃべる男である。
「しかしな、うまいもんをくいながらするはなしじゃねぇよなぁ」
店主も、それには心底頷いた。
「それよりおじちゃん、そのあとちゃんと運んだの?」
美代の、抑揚のない声が、それでもかすかに心配の色を見せて北川に問いかけた。
「ああ、それは心配はいらん」
北川は、楊枝で歯をほじくりながら答える。
「それから、芝にある店主の別宅から娘は発見されたしの。大名の縁続きの方も、ふくらんだ借財を帳消しにすることで、縁談もその後の事件もなかったことにしてもらったよ」
北川がそう言うと店主が「へぇぇ」と感嘆の声を上げた。
「なんだ、おやじ。俺にしちゃ上出来だって顔しておるな?」
すると店主は、慌てて首を振る。
北川は、笑いながら続けた。
「まあよい、本当のことを言えば……」
そこで美代が言葉尻を奪った。
「おじちゃんの上役が、うまいこととりまとめてくれたんでしょ?」
それを聞いて、北川は大げさにガクッとうなだれると、「ああ、その通りだ」とつぶやいた。
いやはや、何でもお見通しってことかい。
「でもおじちゃん、ありがとう」
美代の意外な一言に、北川は一瞬びくりとした。
「おう、なんだい改まって、いったいどうした」
すると美代は、なんと、恥ずかしそうにうつむいて「何でもない」と小さくつぶやいたではないか。
あの美代が、照れているのだ。
「おお、こりゃ、鬼の目にも……いや、お美代の顔にも恥じらいだな」
北川がそう言うと、お美代は、また冷たい感情のない声でばっさり切って捨てた。
「結局一人じゃ何にもできなかったくせに」
さすがにもう咎めはしないが、店主としては生きた心地のしない二人のやりとりである。ただ、北川が怒り出すことは、たぶんこれからも、ない。
「うはははは、お美代の言う通りよ、今回の一番手柄は、まさしくお美代、お前にあろうよ」
そう言うと、北川は懐の中をごそごそと探ると、何やら小箱を出して台においた。
「での、お美代。今回の件で、俺は、大名の縁続きとその大店の両方から、それは結構な額の口止めをいただいての。それもこれもお美代のおかげということで、ほれ、褒美だ」
そういって北川は、その小箱をお美代の方へ放り投げた。
すると、何とかそれを受け取ったお美代は、今度は目をぱちくりとさせて驚いている。
ほぉ、今日はよく表情が変わる。
「あけてよいぞ」
いわれてお美代は、何か恐ろしいものでも入っているかのように恐る恐る箱を開け、そして、まるでそこいらの娘と同じように顔をほころばせた。
「これ!」
北川は自慢げにいう。
「かんざしよ。銀作りに珊瑚の玉、近頃はやりの意匠での、お美代によく似合うだろうと思ったのよ」
すると今度は、真っ白の肌をみるみると赤く変化させ、美代の顔はまるで夕焼けの空のようにあかね色に染まってしまった。
「おいおい、お美代の白い肌に映えると思っての赤珊瑚だ、そんなに赤くなっては台無しであろうよ」
北川がそういってからかうと、美代はその場にうずくまってしまった。
かわりに、店主が丁寧に頭を下げて「結構お品をおありがとうございます」と礼を言い、さらに続ける。
「こら、てめえからも北川様にちゃんとお礼を言わねえか」
しかしお美代は、何も言わずにうずくまったきり動かない。
「まあ、よいよい」
北川はそう言うと、ゆっくりと立ち上がり台の上に三十二文おいた。
「では、邪魔したな」
慌てて店主が呼び止める。
「北川様、多すぎます」
「いやなに、前回とあわせての払いだ、気にするな」
すると店主は、えらく感じ入った声で「覚えてなすったんで」と漏らした。
律儀にきちんと金を払うお役人を、店主は初めて見たのだ。
「まあな、して、おやじ。この店の名は何という?」
すると店主は、えらく申し訳なさそうにつぶやいた。
「いやそれが、まだないんでございますよ」
「なんと、名がないのかこの店は」
北川はそう驚いて店主の顔を見つめ、そして二三度唸ったかと思うと、ぽんと手を打って嬉しそうに宣言した。
「どうだおやじ。十六文の蕎麦といえば、二八が有名ではあるが、何も十六ならば二八でなくとも四四でもよかろう」
「へぇ、まぁさようで」
「というわけでな、この店は。四四の十六ということで、四と四を掛け合わせて"仕合せ屋"というのでどうだ!?」
北川は自信満々である。しかし、店主は、その女々しい響きに少したじろいだ、ところが。
「うんいい!それ、すごくいいよ!!」
と、さっきまでうずくまっていたお美代が振り向きざまにそう叫んだので、この店の名前は決まった。
「そうかいいか。うん、ではおやじ、これでゆこう」
「へぇ、では。頂戴いたしやす」
北川は満面の笑みでお美代を見つめ、そしていった。
「仕合せ屋。まさに、人を仕合せにしたお美代にふさわしい店の名だ。なぁ、お美代、また何かあったら頼むぞ」
「うん」
そう、恥ずかしそうにうつむいたお美代の髪には、なんとすでに下手くそながらも、かんざしが刺さっていた。
北川は、今度はちゃかしたりはせず、優しく微笑んでその赤い小さな玉を見つめる。
蕎麦屋台仕合せ屋のかんばんむすめ、お美代……か。長いつきあいになりそうだ。
そればかりは、北川の予見でも、当たるような気がしていた。
店主は、蕎麦をじっと見つめながら、そう問いかけた。
「ああ、まぁな。ただ、お美代の話じゃここでかたが付くはずだったんだが、大店の方はもうちょっと粘ったな」
北川がそう言うと、お美代が冷酷に吐き捨てる。
「往生際の悪い」
その言葉に、北川はぷっと吹き出して、お美代の言葉に同意した。
「ああ、お美代の言うとおり、本当に往生際の悪い奴だったよ」
ほんとに、なぁ。
―――
「しかし、そうは言われましても、やはり私どもの方で狂言を弄《ろう》するなど何の意味もないことではないですか」
湊屋は、そう言って食い下がった。
「しかも、拐かしと偽って仮に私が匿っていたとしても、いつかは出してやらねばならない。そうなれば同じこと、縁談は盛り返し、私ども湊屋は太田様と縁続きに……」
北川は、とうとう我慢の限界に達した。
いや、この湊屋誠右衛門の顔を見続けるのがほとほとうんざりになったというべきか、どちらにしても。
茶番はしめぇだ。
「ええい湊屋、いい加減にしやがれ!」
北川は、立ち上がって怒鳴った。
「拐かしから帰ってきた町人の娘と、由緒ある大名の縁続きが、何もなかったかのように縁談を進めると思うか?ん?どうだ!」
北川は続ける。そのものすごい剣幕に、湊屋はもはや気力も萎え、その場にへたり込んでしまっていた。
「しかも、ことはおまえの家にとっての不幸。さしもの太田家とはいえ、あまり表立って批判もできまい。おまえは太田家との縁も切れて借財はそのままになり損をせず、縁談も流れてこれ以上の無体な借金を迫られることもない。ちがうか?こりゃ、お前にとって八方損無しって寸法だろ?なんとか言ってみねぇか!」
鬼の形相で北川は続ける。
「しかもだ、今回の件。知っているのはお前だけではあるまい。少なくともこの店の主だった人間はみな知っているはずだ。下手ぁすると、親戚筋にも知ってるやつがいるに違いねぇ、どうだ?ええ、どうなんだ!」
美代が言うには、この店の大番頭から番頭。古参の手代くらいは必ず知っているはずなのだそうだ。確かに、これほどの事、主一人でできるはずがない。
「なんとか言わねぇか!湊屋!」
北川の畳みかけるような怒声に、とうとう湊屋がおれた。
「も、申し訳ございません。すべて北川様のおっしゃるとおりで……」
湊屋は、そう言って頭を抱える。
そして、そんな湊屋の様子を、お内儀は幽霊かもののけでも見るような表情で、食い入るように見つめていた。
「あ、あんた、なにを……」
北川は、ゆっくりと座り直すと、お内儀に向かって語りかけた。
「そう、残念なことではあるがの、お内儀。聞いてのとおり、娘のあきは、この湊屋誠右衛門が拐かし、たぶん、別宅がどこかに閉じこめておるのだよ」
「そ、そんな、なんてことを!!」
お内儀は、そうさけぶと、憎々しげに夫を見つめた。
しかし、そんな妻のそぶりに、湊屋は逆上してさけび返す。
「仕方がないだろう!これもみんな、御店のため、お前のため、そしておあきのためでもあるんだ!あんな莫大な太田様の借金を帳消しにした上、これから永劫むしり取られて見ろ、身代は早晩傾き、私たちは路頭に迷うほかないのだぞ!」
口角泡を飛ばして、湊屋は叫ぶ。大店の主として、それがさも当たり前であるかのように。
そんな湊屋を、北川は黙って見ていた。もし美代の読みが当たっていれば、この先、北川が手を下さずとも、収まりどころは決まっているのだ。
そして、その予想通り、お内儀がさらに大声で湊屋に怒鳴り返した。
「馬鹿をいわないでおくれ!拐かされて縁談が流れでもしたら、それが周りに知れるようなことになったら、おあきはどうなるんだい。おあきは、おあきの心はどうなるんだい!!」
何もかも、お内儀の言うとおりだ。
婚儀前の娘が拐かされ、よしんば帰ってきたとしても、その婚儀が流れれば、人は、思うだろう。
ああ、あの娘は、犯されてしまったのだ……と。
それは、若い娘にとって、死ぬよりつらい地獄だ。
そして、それを仕組んだのが……実の父だと知ったら。
「仕方ないではないか!おあきには、ここの二番番頭でもくれてやればいい。あいつなら商売の事は一通りわかってもいるし、それが一番良いではないか!」
そして、その父親が、金のために娘をそんな風にしたのだとすれば。
「あんた正気かい?正気で言ってるのかい?本気で、本心で、父親として間違いのない心で、本当にそう思ってるのかい?」
「ああ、本気だよ、悪いか!」
金のために娘に傷をつけ、しかも、共にそれを企んだ人間に嫁がせるなどという事を悪びれる様子もなく語るおあきの父親でもあるはずの自らの連れ合いの態度に、お内儀の黒い瞳は焦点を失っていた。
「あんた、あんたは鬼畜だよ、犬畜生だよ!私たちの可愛い、いや、私の可愛いおあきが、あの娘が、まだ十六にもならないあの娘が、そんなひどいことになって、それでもあんたはまだ御店大事だってぇのかい!」
お内儀の形相は、まさに般若のようである。
「あんたは……あんたってひとは……」
そこまで言うと、お内儀は突然糸の切れた繰り人形のようにその場に崩れ落ちた。
この数日間、寝るに寝られず食うに食われず、ただ娘の無事を祈り続けて幾晩も越え、そして今日のこの有様。
倒れてしまうのも、無理のないことであった。
―――
「はぁ、やっぱりうめぇよ」
北川はそこまで語り終えると同時に、蕎麦も食い終えた。
まったく、器用にしゃべる男である。
「しかしな、うまいもんをくいながらするはなしじゃねぇよなぁ」
店主も、それには心底頷いた。
「それよりおじちゃん、そのあとちゃんと運んだの?」
美代の、抑揚のない声が、それでもかすかに心配の色を見せて北川に問いかけた。
「ああ、それは心配はいらん」
北川は、楊枝で歯をほじくりながら答える。
「それから、芝にある店主の別宅から娘は発見されたしの。大名の縁続きの方も、ふくらんだ借財を帳消しにすることで、縁談もその後の事件もなかったことにしてもらったよ」
北川がそう言うと店主が「へぇぇ」と感嘆の声を上げた。
「なんだ、おやじ。俺にしちゃ上出来だって顔しておるな?」
すると店主は、慌てて首を振る。
北川は、笑いながら続けた。
「まあよい、本当のことを言えば……」
そこで美代が言葉尻を奪った。
「おじちゃんの上役が、うまいこととりまとめてくれたんでしょ?」
それを聞いて、北川は大げさにガクッとうなだれると、「ああ、その通りだ」とつぶやいた。
いやはや、何でもお見通しってことかい。
「でもおじちゃん、ありがとう」
美代の意外な一言に、北川は一瞬びくりとした。
「おう、なんだい改まって、いったいどうした」
すると美代は、なんと、恥ずかしそうにうつむいて「何でもない」と小さくつぶやいたではないか。
あの美代が、照れているのだ。
「おお、こりゃ、鬼の目にも……いや、お美代の顔にも恥じらいだな」
北川がそう言うと、お美代は、また冷たい感情のない声でばっさり切って捨てた。
「結局一人じゃ何にもできなかったくせに」
さすがにもう咎めはしないが、店主としては生きた心地のしない二人のやりとりである。ただ、北川が怒り出すことは、たぶんこれからも、ない。
「うはははは、お美代の言う通りよ、今回の一番手柄は、まさしくお美代、お前にあろうよ」
そう言うと、北川は懐の中をごそごそと探ると、何やら小箱を出して台においた。
「での、お美代。今回の件で、俺は、大名の縁続きとその大店の両方から、それは結構な額の口止めをいただいての。それもこれもお美代のおかげということで、ほれ、褒美だ」
そういって北川は、その小箱をお美代の方へ放り投げた。
すると、何とかそれを受け取ったお美代は、今度は目をぱちくりとさせて驚いている。
ほぉ、今日はよく表情が変わる。
「あけてよいぞ」
いわれてお美代は、何か恐ろしいものでも入っているかのように恐る恐る箱を開け、そして、まるでそこいらの娘と同じように顔をほころばせた。
「これ!」
北川は自慢げにいう。
「かんざしよ。銀作りに珊瑚の玉、近頃はやりの意匠での、お美代によく似合うだろうと思ったのよ」
すると今度は、真っ白の肌をみるみると赤く変化させ、美代の顔はまるで夕焼けの空のようにあかね色に染まってしまった。
「おいおい、お美代の白い肌に映えると思っての赤珊瑚だ、そんなに赤くなっては台無しであろうよ」
北川がそういってからかうと、美代はその場にうずくまってしまった。
かわりに、店主が丁寧に頭を下げて「結構お品をおありがとうございます」と礼を言い、さらに続ける。
「こら、てめえからも北川様にちゃんとお礼を言わねえか」
しかしお美代は、何も言わずにうずくまったきり動かない。
「まあ、よいよい」
北川はそう言うと、ゆっくりと立ち上がり台の上に三十二文おいた。
「では、邪魔したな」
慌てて店主が呼び止める。
「北川様、多すぎます」
「いやなに、前回とあわせての払いだ、気にするな」
すると店主は、えらく感じ入った声で「覚えてなすったんで」と漏らした。
律儀にきちんと金を払うお役人を、店主は初めて見たのだ。
「まあな、して、おやじ。この店の名は何という?」
すると店主は、えらく申し訳なさそうにつぶやいた。
「いやそれが、まだないんでございますよ」
「なんと、名がないのかこの店は」
北川はそう驚いて店主の顔を見つめ、そして二三度唸ったかと思うと、ぽんと手を打って嬉しそうに宣言した。
「どうだおやじ。十六文の蕎麦といえば、二八が有名ではあるが、何も十六ならば二八でなくとも四四でもよかろう」
「へぇ、まぁさようで」
「というわけでな、この店は。四四の十六ということで、四と四を掛け合わせて"仕合せ屋"というのでどうだ!?」
北川は自信満々である。しかし、店主は、その女々しい響きに少したじろいだ、ところが。
「うんいい!それ、すごくいいよ!!」
と、さっきまでうずくまっていたお美代が振り向きざまにそう叫んだので、この店の名前は決まった。
「そうかいいか。うん、ではおやじ、これでゆこう」
「へぇ、では。頂戴いたしやす」
北川は満面の笑みでお美代を見つめ、そしていった。
「仕合せ屋。まさに、人を仕合せにしたお美代にふさわしい店の名だ。なぁ、お美代、また何かあったら頼むぞ」
「うん」
そう、恥ずかしそうにうつむいたお美代の髪には、なんとすでに下手くそながらも、かんざしが刺さっていた。
北川は、今度はちゃかしたりはせず、優しく微笑んでその赤い小さな玉を見つめる。
蕎麦屋台仕合せ屋のかんばんむすめ、お美代……か。長いつきあいになりそうだ。
そればかりは、北川の予見でも、当たるような気がしていた。
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