仕合せ屋捕物控

綿涙粉緒

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第壱章 蕎麦屋の父娘

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「しかしうめぇな、この蕎麦は」

 先ほどからもう何度いったかわからないほどに、北川は蕎麦のできに感心しきりである。

「出汁もゆで加減も文句ないが、何より一番はこの蕎麦だ。こりゃ香りといい甘みといい、そしてこの何とも心地よいコシといい一級品じゃねぇか、なぁ」

 北川の手放しでほめる様子に、さしもの店主も表情が崩れっぱなしである。

「旦那も、えらく蕎麦にお詳しいご様子で」

 店主がそういうと、北川は誇らしげに胸を張っていった。

「おう、よくぞ気づいてくれた。こう見えてもこの北川正五郎、御番所ごばんしょでは知らぬ物がおらぬというくらいの蕎麦食いでな。自慢ではないが御府内ごふないの蕎麦屋で知らぬところはないというほどの物よ」

 そういうと北川は、猪口の酒をぐっと一息に飲み干すと店主の顔をにやりとのぞき込んでいった。

「ここの蕎麦が、浅草観音裏の喜多屋の蕎麦にそっくりだということもな、おやじ」

 それを聞いて、店主は「へぇぇ」と声を上げて驚いた。

「おわかりですかい?それはすごい」

「わからいでか」

 北川はさらに誇らしげだ。

「まぁ、いままで、ただただ金のかかる道楽だと思っておったが、こうしてここに来ることになったのも、御番所にその蕎麦道楽の噂が広がっていたおかげと思えば、高くはなかったということだな」

 北川がそういうと、店主は、おそるおそる尋ねた。

「てことは、やっぱり、こちらには何かしらの御詮議ごせんぎでいらっしゃったので?」

 うむ、と北川は頷く。

「先にも言った|がの、この界隈、くわしくいえば回向院えこういんのちょうど吉良様のお屋敷のあったあたりの筋で、とある大店おおだなの娘が拐かしにあってな」

 店主はただ「へぇ」と相づちを打ちながら聞いている。

「しかもその娘が、これまたとあるお大名の縁続きに嫁ぐことが内々に決まっておって、町方としても、各方面からのにらみがきいて、てんやわんやで行方を調べておったのだ」

 やはり店主は「へぇ」ばかり。

「ところがその娘、天に昇ったか地に潜ったか、ようとして行方がしれぬ。町方は焦る、上からは催促が降りる、大店の身内はやせ細るで、まあ、大いに困窮しておったのだよ」

「へぇ」

「そんな折、とある町衆の噂での、このあたりに近頃、夜がとっぷり更けてからしか現れぬ怪しい娘連れの蕎麦屋があると聞いての」

「へぇ」

「それで俺の上役、まぁ本当の上役ではないが、その筋からの頼みで蕎麦食いの俺が様子を見に参ったと言うことなんだ」

 そう一気に話すと、北川は深い苦悩と疲れの様子をにじませながら銚子の酒をつぎ、また飲み干した。

「へんなの、ばかみたい」

 突然、北川に背中を向けたまま、美代がそう聞こえるようにつぶやいた。

「な、なんて口を……」

 慌てて店主がたしなめようとすると、また、北川が割ってはいる。

「よい、美代、何が馬鹿みたいなのだ、申せ」

「しかし、旦那……」

「よいと言ったら、よいのだ」

 店主は北川にそういわれ、何ともばつが悪そうに引き下がった。

「さ、美代、言うてみぃ」

 北川がそういうと、美代はゆっくりと振り返り、全くの感情も抑揚もなくつるりといった。

「さらわれたのが回向院でしょ、だったら、こんなとこに姿を現わしっこない。ここから回向院は目と鼻の先、近すぎる」

 美代の言葉に、北川は嬉しそうに頷く。

「うむ、お美代、まさにその通りだな。だから念のためであるということだ」

 北川は続けた。

「しかしなお美代、人さらいというのは時が肝心。時がたてばたつほど、娘の身体は清くなくなるだろうし、下手をすれば命も危うい」

 言いながら北川は、これはこんな幼い娘に話していいことなのだろうかと、自問していた。しかしながら、その、美代の大人びた雰囲気が、彼の自制をことごとく奪い去ってゆく。

「しかも、今度の場合はその娘が良縁のかかった娘であるというところが厄介での。もしもなにかあれば、な」

 北川がそこまで言うと、美代はその言葉尻を奪ってつぶやいた。

「縁談が流れる」

 美代の言葉に、北川がにやりとほほえむ。

 まったく、勘のいい、男なら自らの手下てかにしたいような娘だ。

「そういうことだよ、お美代」

 そこまでの話を、黙って聞いていた店主が、ここで口を挟んだ。

「しかし、そうなりますってぇと、大店の旦那やお内儀ないぎはさぞかしお心を痛めておることでありましょうな」

 店主の、ありきたりで、それでいて人情の暖かみにあふれる言葉に北川は少し眉をひそめて頷いた。

「ああ、そうよ。娘がかどわかかしにあって以来というもの、旦那もお内儀もそれはそれはみるみるうちにやつれての。店の内の者も、なんというかこう、ぴりぴりと張りつめたような雰囲気での」

 北川の脳裏のうりに、つい先日訪れたばかりのその店の様子がよみがえった。

 名前を出せば、店主も、もちろん美代でさえ知っているような大店だ、この件がどこにどう尻をえようとそれで身代しんだいが傾くと言うことはない。しかし、その店の内の様子ときたら……。

「どこかしらぴりぴりと張りつめていて、それなのに当の店主ときたら、バツの悪い死に方をした家族のお通夜みたいに黙んまりだった?」

 と、突然、北川の心の内を読んだかのように、美代がつぶやいた。

「お、おお、よくわかったの」

 不意をつかれてしどろもどろに答えた北川の言葉を、美代は風の音か何かのように無視をした。

「ま、まぁ、それも仕方のないことよ、のぉ、お美代。何せ、御店おたなにとっちゃあ願ってもない良縁。商いにとっても娘にとってもこれより上はないという位のもんだ」

 北川は、店主の顔を見ながら、独り言のように続ける。

 美代に話しかけているのに、どうも、美代の顔を見ながらでは心の内まで透かし見られているようで、ばつがわるかったのだ。

 いやなガキだ……。 

「ところが、その夢のような良縁をつかむその手前で、娘も良縁も、その両方を失いつつあるというのでは、店主もたまったもんではなかろうよ」

 北川が、一気にそういって猪口をあおると、美代が、屋台の下をくぐって北川の横にちょこなんと座った。

 そして、慣れた手つきでしゃくをすると、ため息混じりにささやいた。

「ほんと、なにもわかってないね、おじちゃん」

 ぞくりとした。

 北川とて、役人とはいえ木石ぼくせきではない。

 今まで悪所通いも経験をしてきたし、子はおらぬが妻もある身。

 決して、女の経験が少ないという事も、ない。

 しかし、その時の美代の声ときたら、今まで経験したどんな女のどんな甘いささやきよりも深く北川の胸の内をえぐった。

 いや、えぐったのではない。こう、優しく、ふうわりと、撫でた。

「な、なんと、お、俺がわかってないだと?」

 そんな北川のうろたえた姿に、たまらず店主が口を挟んだ。

「す、すいませんです、口の利き方を知らん娘でして」

 しかし、北川は、そんな店主のことなど気にも留めない。

「して、美代。俺が何をわかっていないというのだ?」

 北川の問いに、お美代は、何か読み物をそらんじるように話し始めた。

「おじちゃんは言うのね、この縁談は良縁で、由緒あるお大名の縁続き嫁げるんだから、娘も御店も、もちろんそこの旦那も大喜びなんだって」

「ああ、そうだとも」

「でもね、おじちゃん、本当にそうかしら?今まで何の不自由もなく暮らしてきた大店のお嬢様が、身分違いのお大名の縁続きなんかに、好きこのんで嫁いだりするかしら?」

 美代の、まるで年頃の娘のような口ぶりに、北川はたまらず笑いだして答えた。

「ははは、美代、わかってないのはおまえのほうよ。よいか、確かに堅苦しい武家に嫁ぐは商人には楽ではない。しかしお美代、御店にとって見れば、そこまでの良縁は一生かかっても恵まれぬ儲けの好機というやつではないかの?」

 北川は得意げに続ける。

 美代は無表情で聞き入っている。

「なぁ、娘とはいえ商人の子、御店大事とあれば喜んで堅苦しきお武家にも嫁ごう。他に好いた男でもおればまた違うであろうが、そんなことは噂にものぼってはおらぬし、な、そういうものよ」

 そういって北川は、空の猪口を美代の方に差し出した。

 目の前にいる白く美しい女が娘にも届かぬ子供でなければ、どこぞの茶屋のような風情である。

「まぁ、お美代がわかるようになるには、もう四、五年はいるの」

 北川がそういうと、お美代は、注ぎかけた銚子を乱暴に台に置き、北川を睨んで吐き捨てた。

「はぁ、ほんとに何もわかっちゃいない」

「なんと、まだ美代は得心いかぬか?」

 北川は、子供扱いされた美代が、娘らしく拗ねたのだと思って、少し愉快な気分になっていた。

 しかしそれが大きな勘違いであったことを、この直後に北川は知る。

「何がわかっちゃいないか、な、お美代、話してみよ」

 美代は、黙って店主を見つめる。

「よい、俺がよいといっておるのだ、気兼ねなく続けろ」

 そういわれてお美代は、せきを切ったかのように、つらつらと話し始め、そして、ことの顛末てんまつを語り終えるまで、一気に思うところをはき出した。

 そして、その言葉の一つ一つが、北川の顔から血の色を奪っていく。

「な、なんと、では、お美代はその娘が……」

「うん、――だと、思うよ」

 なんと言うことだ、それは、一大事ではないか。

 しかも、少々厄介だ。

 北川は、はじかれたように立ち上がった。

「お美代、おまえは本当にすごい娘だ、感心した。いや、まだわからぬが、それにしても俺はなんだか頭のもやが一気に晴れた心地であるぞ」

 北川は興奮している。しかしお美代は、そんな北川の興奮を冷ますかのように、冷静に、抑揚なくいった。

「うまくやってね」

「おお、それは任せておけばよい。同心とはいえいっぱしのもののふ。判じ物や探索事は苦手でも、脅しすかしは上得意よ」

 そういうと北川は、くるりと軽やかにきびすを返し「邪魔した」と短く言い放つと、駆け足で去っていった。

「何でぇ、旦那、びた一文置いていきやがらなかった」

 去っていく北川を見送りながら、店主が苦々しげにつぶやく。

 しかし美代は、少しも顔色を変えず、さらりと店主にささやいた。

「だいじょうぶ、おじちゃんはまた、二、三日後にくるよ」

 そういって北川の去った方を見つめる美代を見て、店主はさらに苦々しげにつぶやいた。

「おめぇがそういうなら、そうだろうさ」

「でもさ、おとうちゃん」

 美代は、少し嬉しそうにつぶやいた。

「判じ物や探索事が苦手だなんて、とことんお役目に向いてないお武家さんだね」

 美代の言葉に、店主は声を上げて笑った。

「くくく、まったくおめえの言うことには外れがねぇ」

 美代は、店主の笑い声を背中で聞きながら、北川の去っていた方を見つめ、小さく、笑った。

 うまくやってくれるといいな、と、心の内で願いながら。
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