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リーデルエントと蝶3

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 また場面は変わる。

 リーデルエントは湖の中を進んで行く。とても細く、今にも途切れてしまいそうな愛しいものの気配を辿って。
 深く潜るたびに日差しは遠くなり、水温は冷たくなった。
 深い深い湖底のさらに奥、生身の身体ではとても向かえない場所に、それはある。
 ぎい、ぎいい……と、次第に木の軋む音が耳に届くようになる。

 ――僕が首飾りを見たいなんて言わなければ。そうすれば、あなたの蝶……ヴィリアル様は、あんなこと――。

 僕が悪いのです、お許しください、お許しくださいと泣く子どもの頭を撫で、リーデルエントは微笑んでみせようとしたができなかった。
 好きなだけ触り、見ていいと貸したのは自分だ。自分の責任だが、これ以上この場に留まればこの子どもを責めない自信はない。

 ――見つけに、行かなければ。

 元々あちらの世で生まれた首飾りは、湖に落とせばあちらへ戻ろうと落ちて行く。
 それを追ったヴィリアルは魂の一部が欠損し、未熟な魂も同じ。下手をすれば、あれに巻き込まれる。

 ――お戻りください、探すなら僕が――!

 水を掻きながら未熟な魂を振り返り、リーデルエントは叫んだ。

 ――あれはもう、蝶ではない。昨晩私と婚姻の契りを交わした、私の伴侶だ――。

 湖底に沈む大きな一枚岩の上に降り立ったリーデルエントは、動力もなく回る巨大な木の水車を見上げた。敷き詰められた大きな岩盤の隙間に挟まるように、それはひっそりと稼働する。
 ぎい、ぎい、と高く低く、古い水車は軋んで鳴く。
 水車は支えもなく水中に浮き、絶えず回るが水流を発生させない。水車の下には漆黒の、輪廻の道がぽっかりと広がる。
 水車の木枠の隙間を通過すれば、あちらの世へ出ることができる。しかしその回転に巻き込まれ下の輪廻の道に引き込まれれば、あちらの世の生物として転生することになる。

 生身の身体を得られるまではどのくらいの時間がかかるのかもわからない。
 すぐに生まれ出でる場合もあれば、人の世の暦で何百年とかかる場合もある。人として生まれることができないかもしれない。植物かもしれないし、ちっぽけな蟻かもしれない。
 リーデルエントの足は固まり、動かなくなってしまった。
 ぎいい、ぎいい……と、嫌な音だけが鮮明だ。
 こんな場所でこんな風に立ち往生をしたことなどなかった。今までなら難なく、この水車をすり抜けて向こう側へ出ていたのだ。蝶たちでさえそうだ。これを抜ければ鮮やかな翅は黒く変わる。
 しかし愛しい男の気配は紛れもなく、この足元の漆黒へと続いている。

(夫を、追いかけなければ。私の夫。大切な、唯一無二の魂……)

 最初は慰みもののつもりだった。
 何度も身体を繋げ、力を分け、やっと完全体の魂と同じような情緒や身体能力を取り戻した。
 それがとても嬉しかった。人でもないのに人らしくなっていく魂。
 温もりを与えてくれ、愛情を向ければ倍以上にして返してくれる。生かしてくれて、出会ってくれてありがとうと嘘のない心でまっすぐな言葉をくれる。
 感謝しなければならないのは、こちらの方なのに。
 精霊は伴侶など持てない。所詮は口約束だ。ただどちらかが消滅するその日まで、一緒にいるというだけの約束。
 それでもリーデルエントは縛られていたかった。不変なものもあるのだと信じたかった。ヴィリアルはそれを与えてくれようとしていたのだ。

(私のヴィリアル。今行くよ)

 本当は怖くて仕方ない。冷たい冷たい孤独な湖底で、胸を掻きむしり発狂したかった。
 最初の夫を奪われたあの日よりも、遥かに精神が壊れてしまいそうだった。
 けれどあの時と違うことがある。
 ヴィリアルと自分は一生涯の伴侶であるということ。これに邪魔は入らない。魂が消滅しさえしなければ、出会って、またここへ戻ってこられる可能性もあるのだ。

 リーデルエントはじっと暗闇を見つめ、足を踏み出した。
 水車と岩場の隙間から、細い身体は吸い込まれるように落ちて行く。
 視界は黒く閉ざされ、水温はどんどん下がる。
 リーデルエントは目を閉じ、両腕で自らを抱き締めた。

(ヴィリアル、ヴィリアル、ヴィリアル……)

 ひたすらにその名を心の中で繰り返した。決して、忘れないように。
 辺りは無音に包まれる。意識はだんだんと薄れてくる。
 身体の感覚がなくなり、目を閉じているのか開いているのかもわからない。喋ろうとしても、声の発し方が思い出せない。寒いのか暑いのかも、何も感じなかった。
 湖の精霊・リーデルエントが消えようとしていた。
 リーデルエントはそのことに気付いていたがもはや恐怖もなく、ただ暗闇で自分の魂がまっさらに漂白されていくのを受け入れるしかなかった。


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