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近いのに遠い

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 ふらふらと、ユノンは朝の濃い霧の中を湖畔へ向かった。
 起きたら例のごとくタリアスの姿はなかった。湯浴みでいつものようにミロに身体を清めてもらい、喉を通らない朝餉は無理やり嚥下した。
 しかし午前中の勉学に耐えうるだけの精神力はないように思われ、ユノンはセラノアに今日は休む旨を伝え一人で城を出た。
 いつも真面目に取り組んでいるからと、セラノアも嫌な顔はしなかった。

 廊下を渡り別棟を抜け、庭の階段を下りて湖畔へ出る。
 本当に一人になりたいときはここへ来ればいいだろうと踏んでいたが、先客がいた。
 ユノンは階段下で立ち止まる。
 朝霧の中、ひらひらと舞う一頭の黒輝蝶が、同じように黒い衣服に身を包んだ誰かの周りを飛んでいる。その人物が指を差し出すと、蝶はその指先にとまった。

 打ち寄せるさざ波は穏やかで、風もない。
 彼が誰かなど、すぐにわかった。ユノンは視界が滲むのを感じながら、ためらいなく足を踏み出す。
 丸い小石を踏みしめてじゃりり、と音が立ち、ライルは弾かれたように振り返った。

「……なんだ、あんたか」

 向かってくるユノンに驚いてか、蝶はライルの指先から飛び立って庭の方へ行ってしまった。
 ぶっきらぼうな、いつもの調子のライルの声。面倒くさそうに眉間に寄せられた皺。それが、今はなぜだか安心できる。
 ユノンは衣の袖で乱暴に目元を拭った。

「……湖を見に?」

 問いながら、ライルの横に並んだ。訝しげな目で見下ろされたが、ライルもすぐに視線を靄の浮かぶ湖に投げた。

「そうだ」

 以前ならどうしよう、間が持たないと感じていた沈黙が苦ではない。おそらくは、ライルもユノンを憎からず思っているということがわかってしまったから。
 憎からずというより、彼は率直に好意を示してくれた。好き、愛しているとは言わずとも、ユノンの心を欲してくれた。新しいものを見せてくれ、大丈夫だと不安を拭ってくれた。
 無理やりにユノンと結婚したくせに、抱く時は滅茶苦茶に扱ってくるくせに、まだ二度しか彼と身体を繋げてはいないのだ。

(気づきたくなかった。彼の優しさに。こんなこと、あまりよくないことなのに)

 産まれてからここへ輿入れするまで生家で叩き込まれてきた教えの積み重ねが、ゆっくりとぼろぼろ崩れていくのを感じていた。

「蝶がお好きなのですか?」

 まったく関係のない質問をした。
 不安を打ち明けたいけれど、何も聞いて欲しくない。情けなくて、聞かせられないのだ。

「……いや。興味本位で指を出したら寄ってきただけだ」

 素気無く返してくるライルはいつも通りだ。

(ああ、僕があの蝶ならよかったのに。ライル様の指にとまり、可愛がっていただけたかもしれない)

 何も心に抱えることなく、ただ愛されることができたかもしれない。
 じわりと浮かぶ涙を、溢れる前に再び袖でぬぐった。

「……そうですか。てっきり秘密のお友達とお喋りの最中なのかと。僕は、一人になりたくてここへ来たら先客がいらしたもので」
「あんたが後から来たんだ。嫌ならそっちがどこか行けよ」

 こんなことを言ってくるが、本気ではないことはもうわかっている。
 いつもの容赦のない調子に安心し、少しだけユノンにも笑顔がもどった。

「お久しぶりですね」
「ちょくちょくすれ違ってはいるがな」

「けれど、あなたは僕のことなど無視している。それに、お誘いもないし」
「無視しているわけではないし、誘いたくないわけでもない。兄上とあんたの顔を立てている」

 今にも泣きそうだということは勘づかれているだろう。けれど、ライルは何も聞いてはこない。
 ただ靄を被る湖を遠い目で見つめている。

「……湖の精霊に焦がれた王子の話を知っているか?」

 落ち着いた調子でライルが口を開く。ユノンは首を横に振った。

「いいえ、知りません」
「伝承として残っているものに比べればかなり最近の話だ。おそらくセラノアもあんたには教えないだろう。聞きたいか?」
「なぜ今そんな話を?」

 どうしてここへ一人で来たのか、なぜ泣いていたのか。
 彼だってユノンに訊きたいことはあるだろう。興味がないというわけではないだろうし。
 それでもそういったことを何ひとつ問わず、普段の口調で関係のない昔話をしようとしてくれるライルに、ますます心が溶かされてくような気がした。
 風も暖かくぬるむ時期なのに、ユノンの心は凍えていた。
 誰かと触れ合いたいけれど、誰でもいいというわけではない――。

 無意識だった。
 ユノンはライルの手を掴んだ。
 一瞬驚いたようにじっと見下ろされたものの、ライルは何も言わず視線を湖に戻す。

「……気丈なあんたでも何かしら気に病むことはあるだろう。少しでも気が紛れるかと思った。それだけだ」

 どうしてこんな風に、弱っている時に限ってこの人は優しくなるんだろう。
 本当に、ずるい。

「……聞かせてください。その王子様のお話を」

 見上げると、見つめ返された。夢で見た蝶の翅色によく似た瞳。
 滲む視界いっぱいに、ライルの顔がある。タリアスには感じたことのない感情を彼に対して抱いている。
 けれど、これがどういった種類のものなのかは判別できないでいる。
 もっと、もっと近付きたい。知りたい。
 彼に関しては知らないことばかりだ。
 幼い頃に出会ったことがあるのはタリアスだけで、その五歳年下のライルとは一度も顔を合わせたことはない。 

(知りたい。僕にはあなたが、まだまだ足りないーー)

 ライルの口から発される言葉なら、なんでも聞きたかった。
 引き寄せられるように顔を寄せる。その唇が、ただ欲しい。
 唇を見つめ言葉を待っていたその時、背後から足音が聞こえた。

「ユノン様! 探しておりました!」

 慌ててライルから身体を離すと、ミロが庭からの階段を下り終わりこちらへ駆けてくるところだった。

「騒々しい。俺はあいつは好かない」

 ライルはそう呟き、ユノンに背を向けた。

「ライル様」
「昔話はまた今度だ」

 堰をきりそうなほどに押し寄せていた高い波が、さっと引けていくような気持ちがした。
 離れて行く後ろ姿に、頭が瞬時に現実に戻される。

「嫌です。ミロには後にしてもらいます」

 呼び掛けても、ライルが振り向くことはないとわかっていた。湖畔を辿り遠くなる男を見つめながら、ユノンは手の甲で目元を拭った。

「ユノン様、ライル様と……」

 走り寄ってきたミロが表情を曇らせた。

「タリアス様がお呼びです」
「わかった。すぐに行くよ」

 顔を見られたくなくて俯いた。湖を背にし、城へと向かう。
 ミロは珍しく何も訊かず、黙ってついてきた。


 
 一旦部屋に戻り、普段着ではなく外行きの衣を着せつけられてから応接間へ行くよう命じられた。大方誰か来客があるのだろう。
 アムリが着せてくれた衣は、鮮やかな紺に繊細な金糸の模様の入れられたものだ。
 水草や、水面への陽光の反射を象形した伝統的なカザカル文様。

「今日は化粧をしなくていいのか? 髪を飾らなくても?」

 問うと、アムリは一瞬こちらを気の毒がるような顔を見せたのち、少し笑って首を振った。

「よいのです、ユノン様。今日お会いする方は、ユノン様もよく知っておられるお方です」
「誰なのだ?」
「秘密にせよと陛下から仰せつかっております」

 タリアスに命じられたなら仕方ない。ユノンはそれ以上問うのをやめた。
 アムリに連れられ、廊下を応接間へ向かいながら考える。
 この衣はライルと初めてきちんと座って対峙した日にも身に着けていた。初めて二つの身体を繋げることを教えられた、あの日。

(そういえば、僕はライル様の閨を知らない)

 タリアスと千夜にわたって子作りすることが求められているユノンに、ライルと褥を共にすることは難しい。

(ライル様はそのことを知っていて僕に重婚を申し入れたのだろうか。妻を娶っても、毎夜一人で過ごさなければならないのに)

 ライルのことだ。そこまで考えが回らないわけがない。
 考えたところでどうにもならないことを頭に巡らせているうちに、目的地へ到着した。
 もう緊張もしない。ただ静かに微笑んで相手の話に相槌を打っていれば、どんな時間も平和に終わる。
 アムリが扉をノックし、静かに開く。

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