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丘の向こうへ

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 翌日、ユノンは昼食を終えてからライルと馬を駆って出掛けた。
 行き先などわからない。ただ着いて来いと命じられたのだからそうするしかない。

「殿下! どこまで行かれるのですか!」

 少し前を行くライルに聞こえるよう、怒鳴るように声を張る。

「いいから、黙ってついてこい!」

 行き先を訊ねても、振り向いたライルにそう怒鳴り返されるだけだ。

 彼の乗る濃い褐色の牡馬は名をクエントといい、ライルのものだ。
 ライルがクエントにまたがり地を駆けるさまは神々しいまでに雄々しく、鮮やかな手綱捌きと相まって見惚れてしまいそうになる。

 しかししばらく馬になど乗っていなかったユノンは後ろから置いていかれないよう着いて行くのが精一杯で、ライルのことはおろか周りの景色も楽しむ暇はない。

 城を出て街を抜け、丘陵地帯へ入る。カザカルは一周するのに馬で一日半という小さな島国だが、島の中央には小高い丘群を抱える。

「こちらには何があるのだろうな、レシュカ」

 ユノンは若い牝馬の艶のある白い毛並みを撫でた。
 ライルに言いつけられ、王妃様にふさわしい一番賢く優しい馬を用意したと、レシュカを引いてきた馬丁が言っていた。

 丘群には王家の墓も存在する。輿入れしてきて一度参拝に行ったが、今日は道が違っている。墓参りに行くわけではないらしい。

 丘間を登る道の勾配がきつくなり、馬の駆ける速度も徐々にゆっくりになる。そうすると、周囲を見渡す余裕も出てきた。ここまでで半刻ほど走っただろうか。

 所々に林を抱く丘は、緑の正気に満ち溢れている。
 湖畔ほどは霧が濃くない。馬の足元にふかふかと広がる緑の絨毯や、まばらに咲いている白い野ばらに黒輝蝶が舞う様子がよく見えた。

 知らないところ、しかも居城から遠く離れた場所に連れていかれる不安が、道を登るごとにどんどん薄れていく。
 ユノンはレシュカの背で目を閉じ、深呼吸した。

「もう少しで着く」

 前方から声がした。こちらを振り向くライルの表情も心なしか柔らかい。

「はい」

 心が浮き立つ心地に、自然と笑みが漏れた。

 それからすぐにライルは馬を止める。
 突き当りは崖になっており、道は横に逸れているようだった。

「すごい。ここは……?」

 馬を降りたライルにならい、ユノンも草の上に降り立つ。
 崖からは、丘を切り崩した場所が見渡せた。土色に剥き出した斜面には何カ所もの横穴が開けられ、ツルハシやシャベルを持つ作業着の人々が出入りしている。
 広場のような平地には、大きな籠がいくつも並べて置いてあった。中には様々な大きさの薄灰色に輝く鉱石が詰め込まれている。

「塩炭の採掘場だ。今年の採掘は今日が解禁だ」
「今日から……! そうだったのですね」

 これが塩炭の採掘場か。
 ユノンは初めての光景をまじまじと眺める。
 金で石を叩くような音が小気味良い。顔を黒く汚した男たちは談笑しながら鉱石を選別し、輪になって休憩をとっている者たちもいる。
 商店や宿の並ぶ街の光景しか知らないユノンに、塩炭採掘場で生き生きと働く男たちはとても眩しく映った。

「皆さん、とても表情が輝いている」

 思わず感動が口をついて出る。

「仕事はきついが、待遇はいいぞ。一日中ぶっ通しで働くなんてことはさせてない。交代で半日働いたら終わり。それでも賃金は城の小間使いなんかよりはずっといい」
「本当ですか?」

 驚いた。庶民の中で、城で働く者たちよりも高級取りがいたなんて。

「塩炭はこの国の主要な輸出物だ。燃えにくい炭だが、塩を取り出せる。細かく砕けば釉薬の原料にもなるし、この国には必要ないが融雪剤としても使える。まだまだ可能性のある資源だ」
「はい」
「これを他国にもっと売り込みたいと考えている。だから採掘に従事する男たちも、俺にとっては資源も同然だ」 

 表情は普段とあまり変わらないが、ライルの声は高揚している。ユノンはかたわらの夫を見上げた。
 表面上は冷静で硬質な彼だが、言葉の端々からは燃えるような熱意を感じる。まるで湖の奥底に沸く熱水のような。
 ライルと顔を合わせるごとに、彼に対する印象が変わっていく。
 こちらを最初から舐めてかかり対等に取り合おうとしない彼、狂おしいくらいに身体を求めてくる彼、そして、自分の仕事を誇らしげにユノンに見せてくれる彼。

 あの談話室でのことを思い出すと顔が発火してしまいそうになる。
 自分があんな風に、目上の人間に早く身体を楽にしてくれと迫るような人間だったなんて。かしこまった言葉遣いもかなぐり捨てて。
 ……いや、よく考えれば彼はすでに目上の人間ではないのかもしれないけれど。 

「おい、どうかしたか?」

 俯いて黙り込んだユノンにライルが声を掛けた。突然顔を赤らめて黙り込んだりして、明らかに不自然だ。

「いいえ、どうもしません! あ、あの木の枝はなんですか?」

 話題を変える。声が少々上ずってしまった。ますます不自然だっただろうか。
 ライルは眉根を寄せて首を傾げたが、それ以上何も追求せずユノンが示した方へ視線をやる。

「木の枝?」
「あれ、あれです。あの木の台の上に乗せられているものです。両隣に置かれた白い瓶も、中身はなんですか?」

「ああ。あれは今朝の安全祈願の儀で使った供物だ。ネリカの枝と酒だよ。神官を呼んで祈祷させた」
「神官……」

 一瞬で緊張した。
 長らく彼のことを考えることはなかった。

「あんたの兄さんだよな。ちなみに少し話したけどあんたの話題は出なかった」
「……そうでしょうね」

 オルトア家の長男は神官職に就く。父が退いてしばらく経ち、二十年前からはユノンより十以上年上の兄が神官を継いでいる。

「兄とはあまり会ったことがないんです。僕が生まれる前、子どもの頃から神官職に就いていましたので、家にも帰ってきませんでしたし」

 こんなところで兄のことを思い出すとは思わなかった。なんとなしに気分が沈む。
 嫌なことはされなかった。むしろおぼろげな記憶の中で兄は、高価な菓子をくれて庭で遊んでくれた気さえする。
 それでも、いつだって自分を取り巻いていたのは希薄な人間関係だ。
 使用人たちは優しかったけれど、それはユノンが主人の息子だったからに過ぎないからかもしれない。

 タリアスの妻となった今も、所詮は女が生まれるまでのつなぎの妻。本当にお前だけが欲しいのだと誰かに求められることなど、一生ないのだろう。
 ユノンはなんだかいたたまれなくなって背後を向いた。
 レシュカとクエントは繋ぎもしないのに逃げず、穏やかに二頭並んで草を食んでいる。
 心はこんなにも重いのに、世界は平和だ。

「……明日の夕方も付き合え」

 沈黙を破り、ライルが言った。
 別に何か温かい言葉を掛けられることを期待してはいなかったけれど、斜め上の申し出にユノンは彼の思考の理解に苦しんだ。

「夕方は、困ります。時間がずれ込むおそれがありますし」

 ずれ込んだらタリアスとの夜の務めに遅れてしまう。湯浴みの後に泉でさらに身を清め、全身に香油をよく塗り込んでおかなければならないのに。

「今日ほど遠くへは来ない。城のすぐ近くだ。見せたいものがある。俺だって陛下の邪魔はしたくないから、そんなに時間は取らせないさ」

 言葉遣いはそう荒くないのに、今度もだめと言わせない迫力がある。
 ライルにじっと見つめられると、断ることができない。

「……わかりました」

 力なく頷くしかなかった。

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