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青の泉

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 式は滞りなく済んだ。
 王はすでに幼い頃構ってくれたあの年上の遊び相手の少年ではない。
 国を統べるものとしての風格を備えた、美しくも逞しい若馬を思わせる青年へと成長していた。
 式の前、顔を合わせた際には綺麗になったと頭を撫でてくれ、式の最中には緊張で強張る手を隣から時々握ってくれたりもした。
 そのことが不安を多少払ってくれもしたが、ユノンにとっての本番はこれからなのだ。

 式の後にユノンは湯浴みに行かされ、老いた湯女たちにより塗りたくられた化粧や整髪剤を落とされた後、王宮地下の青の泉へ送られた。
 青の泉は島を囲む湖の一部とされている。王宮の地下の一室に泉が湧いており、代々王の妃は子宝を願いここで身を清めることが慣例となっているのだ。

 侍男は扉の向こうに控えている。足元が暗いのでと灯の灯ったランタンを渡され、ユノンは一人で暗い泉の間へ入らされた。
 中は石がむき出しで、裸足の足裏がひんやりする。部屋の天井は高く、そこから差す細いまっすぐな光が泉だけに注いでいた。
 真っ暗な部屋の中、泉だけが青く輝いている。

「すごい……」

 思わず感嘆する。水を通った光が屈折しながら白い石へ反射するためだろうと言われているが、この真っ青な色の正体はよくわからないらしい。
 白色の石造りの泉に静かに湧く泉は、今まで見たどんなものよりも青々としている。これが外のどんより淀んだ灰色の湖と繋がっているとは到底思えない。
 ユノンはゆっくりと身に着けていた衣を脱ぎ、床に落とした。

 式の後の段取りについて説明される際、この部屋のことも聞いていた。湯浴みの後、王との勤めの前にはここへ来なければならない。
 ここで子宝を授かることを祈りながら、一人で全身に聖なる泉の水を浴びるのだ。
 ユノンは縁石の上にランタンを置き、泉にゆっくりと両足を入れる。思っていたほど冷たくなく、むしろ人肌のように温かい。
 安心し、そのままざぶざぶと中ほどまで進む。
 泉の大きさはオルトア家のユノンの部屋より少し狭いくらいだが、一番深いところで腰ほどの深度のようだ。

 両手に水を汲み、頭のてっぺんから浴びてみる。髪を撫でるといきなり肩の上で途切れて、ユノンははっとした。そうだ、長かった髪は切って実家に置いてきたのだ。
 輿入れの際、女は一度伸ばした髪を肩上で切り生家に置いて行く。それが生家との決別、婚家への忠誠の印とされている。

 急に心細くなり、高い天窓を見上げた。真っ暗な空間の中、そこだけ切り取られたように煌々と光を放つ四角い窓。自分はもうあの向こう側へは戻れないのだと、そう強く意識した。
 女ではないのに。子宝など、授かれるはずもないのに。一体こんなところで何をやっているんだろう。
 ユノンはそんな悪い思考を振り払うべく、一度ざぶりとしゃがみ込んで泉に潜る。五つほど数えてから、また立ち上がり顔を拭った。

「だめだ、だめだ。こんな考えを知られたらたちまち追い出されてしまう」

 ここを追い出されたら、もう生きていく術はない。
 ユノンは周囲の暗闇を睨みながら、両乳首に手を伸ばした。

「あ……ん……」

 目を閉じ、夫となった若い王の優しい笑顔を思い浮かべながら乳首を捏ねる。
 くりくりとくびっていると、すぐに固く立ち上がってくる。そうなるよう、何度も身体に教え込んだのだ。

「あん、タリアス様……」

 タリアスと直接会うのは十年以上振りだ。
 幼い頃、ユノンは父の勤め先である王宮によくついて行っていた。そして庭で遊んでいると、たまに少年のタリアスが勉強の合間に相手をしてくれることがあった。

 お前はあの方の妻になるのだよと父から説かれてもまったくぴんとこなかったが、優しい兄のような人とずっと一緒に暮らすのだと言われて嫌な気持ちになるわけもない。
 タリアスとの結婚は、当たり前のこととしてユノンの心の中にあった。けれど、成長しそれが現実味を帯びてくるにつれ怖しさも生まれてきた。

「あっ、あっ、あ……」

 乳首への刺激は甘い毒のように全身に回り、下半身も緩く勃ち上がってくる。自然と腰もかすかに揺れる。今日は事前に張り型を入れないようにと、昨晩ギャラに命じられた。
 初夜なのだから馴れた身体でなく、初々しい身体を味わっていただくべきだと。そういう意図だという。

 ならば胸だけ事前に触り、少しでも可愛らしくぷっくりと見えるようにしておこうと思ったのだ。
 くにくにといじっても達することはできない。もどかしい。達したい。
 この昂ぶった気持ちのまま早く泉から上がって香油を塗り、タリアスの閨へと急げばいい。

 ユノンは目を開け、小さな果実のようにじんじんと熟れた乳首から手を離した。
 泉から出ようと足を進めた時、しんと静まった部屋の中に、ばさりと何かが落ちたような音が響いた。慌てて音の出所と思われる部屋の隅を向く。

「誰かいるのか?」

 目を凝らすも、部屋の隅へ行くほど暗くて何も見えない。それでもじっと目を細めて睨み続けていると、ごそごそと小さく音が聞こえてくる。

「……申し訳ございません。地下の掃除夫にございます。お妃さまのお祈りの最中だというのに、とんだ失礼をいたしました」
「掃除……?」

 聞き取り辛い、くぐもった男性の声だ。姿は現そうとしない。

「お前は誰だ? なぜ今ここに?」
「下賤の身分のため、名乗る必要はございません。お妃さまが本日ここをお使いになる時間を間違えて覚えておりまして、それで裏の通用口から入ってきてしまいました。まことに申し訳ございません」

 声だけだが、申し訳なく思っている空気は伝わってくる。
 ユノンの緊張が解けていく。

「恥ずかしいものを見られてしまった」

 初夜に望むための準備の一つを見られてしまったのだ。ユノンは自分の顔が熱くなるのを感じた。

「いいえ、とてもお美しくてございました。老いたこの胸でさえ熱くときめき、鼓動が早まるのを感じました」

 ユノンはますます恥ずかしくなり、俯いた。なんとなしに手元で股間を隠す。

「私は地下から外へは上がりませんゆえ、今見たことを誰にも喋ったりは致しません」
「それはありがたい。陛下により楽しんでいただくための準備だ。他言はしてほしくない」
「心得てございます」

 安心し、泉から上がる。濡れた身体のまま分厚い衣を羽織った。あとは外に控えている侍男が拭いてくれる。

「お妃さま、私からもお願いがございます」

 相変わらず姿を現さず、暗闇から気配と声だけが伝わる。地下から出ないくらいだからきっと見られたくない事情があるのだろうとユノンは察した。

「なんだ? 言っておくが僕にはまだ何の権力もないぞ」

 緩く帯を締めながら問う。

「権力など、必要ありません。あなた様は美しい。城のすべての者はあなた様の美しさの前に跪くでしょう」
「お前は何を言っているのだ」

 聞いているだけで恥ずかしい。ユノンは苛立ちと照れで顔をしかめながら暗闇を睨む。

「今ここで私と出会ったことは、誰にもお話にならないでください。お妃さまのお祈りを覗いたとあらば、私はここを追われてしまいます」

 下賤の身分だと自分で話していた。それならば、神聖な妃の入泉を覗くことは彼にとって罪になるのかもしれない。

「わかった。誰にも話さない」

 その前に話し相手だっていないのだから。ここへきてまともに喋ったのは姿の見えない彼が初めてだ。
 みな式の次第やその後について一方的に説明してくるだけで、こちらの言葉を求めてはいないのだ。

「ありがとうございます」

 ほっとしたような声音だ。ユノンは自分が一夜にして手に入れた力の大きさを感じた。
 巫女の血を引く貴族、オルトア家の次男のユノンは、今日からは小規模ながらも一国の王の妃なのだ。
 この一人の男の人生すら簡単に変えられる。こんなにも辛く苦しい務めのつきまとう人生なのに、これを羨ましいと思う人間もこの国にはたくさんいるだろう。

「お前、よくここにいるのか?」

 好奇心で訊ねてみた。だが、今度は何も返答は返って来ない。

「おい」

 しんと静まった部屋に、今は自分以外誰の気配すら感じない。高い天井にはゆらゆらとさざなみが反射し、泉は青く静かに揺れている。

 通用口から出て行ってしまったのかもしれない。別にどうでもいいじゃないか、あんな者のことなど。恥ずかしいところも見られてしまったし。
 それでも誰かとまともに話ができたことが、なんとなしに慰められたようだった。

「ユノン様、そろそろよろしいですか?」

 出入り口の扉が開けられ、控えていた侍男が立っている。

「……今行く」

 眩しさに目を細めながら、ユノンはランタンを拾い上げた。

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