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そんな彼の元に婚約の話が舞いこんだのは、それから数日後のことだった。
茶会仲間の母親たちは、とうとう自分の子どもたちを結婚させることにしたらしい。つまり、ルドガーとヴィルヘルミーナの婚約である。
近年では自由恋愛を経ての結婚も増えてきてはいるものの、貴族の婚姻といえば、やはり親が結婚相手を定めるのが主流である。一般的には親を含めたお見合いを経てから婚約にいたる。
ヴィルヘルミーナの生家であるシュルツ家は由緒正しい子爵家であり、ルドガーの生家であるダールベルク家は爵位持ちとしての歴史は浅いものの騎士を多く排出する男爵家として王の覚えもめでたい。家格的にも釣り合うし、家同士の結びつきにも丁度いい。何より母親同士がノリノリである。
もともと婚約させるつもりだったのか、それとも年頃になっても婚約者候補の一人も連れてこない子どもたちを心配したのかは定かではない。とにかく、唐突に二人のお見合いが決まったのだった。
シュルツ家に招待されたルドガーは緊張していた。想いを自覚してからヴィルヘルミーナに会うのは、今日が初めてである。いつもなら難なくコーディネートを決めて身支度を済ませるところだが、恋する乙女のように服を選ぶのに時間がかかってしまった。
「坊ちゃんでも婚約ともなれば、緊張なさるんですねえ」
着替えを手伝った従者にからかわれる。言い返してやりたくても、その通りなのでルドガーは顔を顰めることしかできなかった。
そして始まったお見合いは、『見合い』とは名ばかりの婚約お披露目会だった。シュルツ家のパーティーホールに足を踏み入れてみれば、やたらと人が多い。通常なら見合いにいるはずのない親族や知人などの招待客がいる。何ごとかと思っていると、説明される間もなく即刻ホール奥の壇上へと案内された。しかもすでにヴィルヘルミーナたちはその檀上で待ち構えている。その場で乾杯をして、挨拶をしたあとにはもう婚約誓約書への署名になった。そんな鮮やかにも手順をすっ飛ばした段取りのせいで、ルドガーはここに着いてからヴィルヘルミーナと言葉を交わしてさえいない。
(まだヴィルヘルミーナに告白もしてないのにな)
羽ペンを握らされながら苦々しくそう思う一方で、ちらりと隣を盗み見れば、美しく着飾ったヴィルヘルミーナがすぐそばにいて、ルドガーの気持ちは勝手に高揚してくる。
貞淑な彼女のことだ。胸元の開いたドレスは夜会の中でも特別な夜にしか着てこない。けれど、今夜の彼女は美しいうなじも肩も、そしてデコルテさえも惜しみなく晒したデザインのドレスを着ている。それだけ今日が彼女にとって特別なのだと思うと、ルドガーは嬉しかった。
だからというべきか、ルドガーはヴィルヘルミーナの様子に気づくのが一瞬遅れた。
「……ミーナ?」
署名の途中で、隣のヴィルヘルミーナが手を止めていた。そっと小さく呼びかけると、ぴくりと震えたヴィルヘルミーナは、きゅっと唇を引き結んで――けれど淑女として渋面は作らずに、平静を装って署名を再開した。呼びかけに、応えはない。
(……婚約が、いや……なのか)
ルドガーは冷や水をかけられたみたいに暗い気持ちになる。先ほどまで浮足立っていたのが嘘のようだ。手はしっかりと婚約誓約書への署名を書いていたが、その顔が笑えていたかどうか、ルドガーには自信がない。
「これで二人の婚約が成立したな。おめでとう、ヴィルヘルミーナ、ルドガー」
「おめでとう」
婚約誓約書を皆に示して、父親がそう宣言したのを合図に、集まっていた人たちから祝福の声がかけられる。
壇上から降りたあとにヴィルヘルミーナに話しかけようとしたが、集まっていた友人たちが寄ってきて、なかなかタイミングがない。
「まさかいきなり婚約とはな」
「お前とはもう夜遊びできないなあ」
「もともとそんなにしてないだろ……」
「おいおい、付き合いが悪くなっちまうのか? 独身の間にもっと遊べよ」
そうした軽口に気もそぞろにルドガーが答えながら、ちらちらとヴィルヘルミーナのほうを窺っていた。すると彼女は人の輪を抜けてテラスのほうへと向かっていった。
「悪い、少し席を外す」
すかさずそう断って彼女のあとを追いかけたルドガーは、テラスに佇むヴィルヘルミーナの後ろ姿を見つけて、小さく息を飲んだ。
ホールから漏れるわずかな光を浴びて、彼女の白いうなじと結いあげられたキャラメル色の髪が仄かに浮かびあがる。それは閨での薄明かりを彷彿とさせる暗さだった。
途端に、いつも綺麗に整った髪をほどいて、自分の下で乱れるヴィルヘルミーナの妄想が脳裏をよぎる。突きあげるたびに甘く喘いで、腰をくねらせながらよがる彼女。
もちろんそんな彼女の痴態を見たことなどない。
(何を考えてる、俺は。童貞の男か?)
唐突に劣情を催したことに一人で焦りながらも、静かに息を吐いて気持ちを整えると、ヴィルヘルミーナに近づきながらルドガーは声をかける。
「ヴィルヘルミーナ」
呼びかけにぴくんと肩を震わせたヴィルヘルミーナは、固い表情で振り向いた。
「今夜は……一段と、綺麗だな」
(クソ、なんだってこんな下手な言葉しか出てこないんだ!?)
「ありがとうございます。……あなたの今日の装いも素敵ですね」
静かな声で、やけに他人行儀に返される。これはいつものヴィルヘルミーナの社交辞令だった。もっとも、ルドガーの言葉だって同じだと思われているのだろう。挨拶時に相手を褒めるのは一種の礼儀みたいなものだし、特にルドガーは女性を褒める言葉を普段からよく口にする。
(お世辞だって、わかってても顔が緩むな)
「ミーナ」
小さい頃によく呼んでいた愛称をつい口にしたが、対するヴィルヘルミーナは眉間に皺を寄せた。
「……わたくし、あなたに愛称で呼ばれるほど親しくなかったと思うのだけれど。ダールベルク様?」
つん、と宣言されて、ルドガーははっとした。同じ台詞を、つい最近聞いたばかりだ。
「……そう、つれないことを言うなよ。俺たちは、婚約したんだからな」
幾分かぎこちない声音になってしまったのは仕方のないことだろう。ルドガーはかろうじて笑みを浮かべたが、対するヴィルヘルミーナは愛想笑いを納めた。
「あら。娼館に通うような殿方ですもの。お父様たちが決めたことでなければ、誰があなたみたいなふしだらな方と婚約なんて」
「……っ」
言い返す言葉がなかった。
『愛称で呼ばれるほど親しくない』
その台詞は先日、娼館帰りにヴィルヘルミーナと遭遇したときに言われたものだ。
(そうだったな)
初恋の自覚と、婚約の浮かれ気分ですっかり忘れていた。ルドガーがヴィルヘルミーナに最後に会ったのは、娼館に行ったことがバレたときだったのだ。印象がいいはずがない。たとえ『通う』というほどの頻度でなくても、そんなことは彼女には関係ないだろう。
そう思えば、いつもの口喧嘩と比べても、ヴィルヘルミーナの口調はずいぶんと棘がある。
「もう俺は娼館には行かない」
「あら。それはわたくしには関係のないお話なんでしょう? 別に弁解なんてしてくださらなくても結構ですわ」
「違う。お前だから言っておきたいんだ」
「付き合いに口を出すなとおっしゃった方が、どういう心変わりかしら?」
売り言葉に買い言葉でそんなことも言ったかもしれない。過去の自分が自分の首を締めている。
「……あのときの俺はどうかしていた」
ヴィルヘルミーナは何を思っているのか、答えない。
「婚約者のお前をないがしろになんかしない。ミーナ、これからはお前だけを見るから」
許しを請う台詞は、まるで浮気男の安っぽい口説き文句だ。ヴィルヘルミーナもそう感じたのだろう。
「どうして……」
ひどく傷ついた声を出して、ヴィルヘルミーナはくしゃりと顔を歪めた。そっとルドガーが手を伸ばすと、彼女は弾かれたようにあとずさる。
「そうやってあなたは女を誑かすんだわ! あなたみたいな人と……わたくし、婚約したくなかった……!」
「ミーナ!」
ルドガーの伸ばした手をすり抜けて、ヴィルヘルミーナは会場へと戻って行ってしまった。そうしてヴィルヘルミーナとろくな会話をすることもできず、婚約式は終わった。
折悪く、その直後ルドガーは一カ月ほどの遠征を命じられた。そのせいでヴィルヘルミーナに弁解することも、アプローチをすることも叶わなかったのだ。ようやく帰ってきた彼の元に届いたのが、ヴィルヘルミーナが何日も前に倒れたという知らせだったのである。
第二章 一から始める『婚約者』のお付き合い
記憶をなくしたというヴィルヘルミーナとの婚約は、継続されることになった。
今の彼女はルドガーへの態度が従順でふわふわ、可愛らしさの塊だ。別人に生まれ変わったかのようなヴィルヘルミーナについて、いまだルドガーは理解が追いついていない。
とはいえ、これはチャンスである。
(あいつが俺を忘れていても、口説き直して結婚すればいい)
幸い婚約は有効だし、よほどのことがなければ破談になどならない。理由はわからないが、今のヴィルヘルミーナはルドガーに好意的で、願ったり叶ったりである。
そして今日はそのアプローチの第一歩だ。ルドガーはヴィルヘルミーナとデートに行く予定である。先日見舞いに行った帰りに誘っておいたのはお手柄だろう。
シュルツ家には改めて婚約を確固たるものにしたい旨を伝えてある。そのうえで、もう一度二人の仲を深めていきたいと申し出ておいた。落馬以降はずっと家に軟禁状態だったヴィルヘルミーナも、婚約者の誘いならばと外出の許可が出たらしく、二人きりのデートの手筈は整った。
目標を定めて余裕が出来てしまえば、ルドガーの行動は実に抜かりがない。付き合いが悪いわりに女性のあしらいに長けていると友人達に言われるだけのことはあるのだ。
「今日は新しいドレスだな」
馬車でヴィルヘルミーナの屋敷へと迎えに行き、二人で街へと移動する間に、ルドガーはそう声をかけた。
「よくわかりましたね」
「ああ。その色は初めて見るが……まさか俺に合わせて仕立ててくれたのか?」
尋ねられたヴィルヘルミーナが身にまとうのは、落ち着いたワインレッドのドレスだ。装飾として赤茶の刺繍が施されている。同じ色合いであるルドガーの髪色を意識したとしか思えなかった。指摘されたヴィルヘルミーナは頬を染めてわずかに頷く。
「変、でしょうか……?」
「いいや、よく似合っている。俺を想ってあつらえたなんて、嬉しくて顔が緩んでしまうな」
「あ、ありがとうございます……」
はにかんだヴィルヘルミーナが可愛い。衝動的に抱き寄せて唇を奪いたくなってしまう。
(落ち着け。そんなことしたことないだろう)
まだデートは始まったばかりだ。こらえたルドガーは表面的には余裕の表情を作ってヴィルヘルミーナに笑いかける。こんなふうにデートの相手に劣情を催すなど、ヴィルヘルミーナが初めてだ。つまりはわかりやすいほどに彼女だけを見ていたということだろう。喧嘩ばかりしていたとはいえ、今までよくも気持ちを自覚しなかったものである。
(しかし、こんな手のこんだドレス、いつの間に仕立てたんだ?)
ふと浮かんだその疑問は、次の瞬間にかき消えた。
「きゃあっ」
がたん、と馬車が大きく揺れて、ヴィルヘルミーナが前に倒れこんでくる。それをとっさに支えて、ルドガーはしっかりと彼女を抱きこんだ。
「大丈夫か?」
「は、はい……何があったんでしょう?」
抱きしめられているせいか、それとも今の事故のせいか、顔の赤いヴィルヘルミーナはしどろもどろだ。だが、一方のルドガーは騎士の意識に切り替わって、先ほどとは打って変わって照れなど消え失せている。何か事件があったのかと緊張を走らせながら、彼女を守るためにより強く抱きしめた。
やがてこんこん、と窓が叩かれたかと思うと、外から声をかけられる。
「坊ちゃん、すみません」
話しかけてきたのは御者をしていた従者だった。ずいぶん焦った様子だ。
「どうした」
「急に脱輪してしまいまして。これ以上馬車を走らせられそうにありません」
「そうか。今はどの辺りだ?」
さっとカーテンをあけて、ルドガーは辺りを見回す。念のため周囲を警戒したが、特に危険はなさそうだった。
「街まであと歩いて二十分てとこですね。どうされますか?」
「では馬車を降りることにしよう。馬車の始末は任せられるか?」
「もちろんです。……坊ちゃん、こんな日にすみません……」
初めてのデートという大切な日に、という意味だ。困り顔の従者に、ルドガーは笑う。
「そんなのお前のせいじゃないだろう。街についたら、迎えをよこすよう連絡をとるから、悪いがそれまで頑張ってくれ」
「ありがとうございます」
「ああ」
今後の方針を立て終わったルドガーは、ヴィルヘルミーナに目線を移す。
「というわけで、ミーナ。すまないが、少し歩いてくれるか?」
「は、はい。それ、は構わないのですが……」
真っ赤な顔のヴィルヘルミーナは声が尻すぼみに小さくなっていき、耐えきれなくなったのか、俯き気味になって目を伏せた。
「どうした?」
「ち、近すぎます」
さらに俯いたヴィルヘルミーナの顔が、ぽす、と意図せずしてルドガーの胸に着地した。途端に、どっとルドガーの心臓が跳ねる。
「……っすまない」
ぱっと両手を上げて、ルドガーは即座に謝り身体を離した。
(女性を抱きしめるのなんて、別に初めてでもないのに……)
「大丈夫、です……」
照れて頬を染めた伏し目がちの彼女に、劣情が煽られる。
ルドガーは今まで、秋波を送ってしなだれかかってくる令嬢を幾度となくあしらってきた。はしたなくも胸を押しつけてアピールしてきた令嬢だっている。そのことごとくを冷静に対処してきたというのに、ヴィルヘルミーナのそんな仕草だけで、ルドガーの下半身が疼きを覚える。
(俺はガキにでもなったのか!?)
疼きを無視して立ちあがると、ルドガーは意識的に笑みを浮かべる。そうしてヴィルヘルミーナにエスコートの手を差し出しながら、「行こう」と告げた。
馬車を降りた先は、開けた平野である。すでに視界に街が映っているが、まだ徒歩二十分はかかる。一本道で途中に立ち寄れそうな場所はないが、二人で並んで歩く散歩は存外悪くない。
「晴れていてよかったですね」
「ああ。ミーナ、二十分とはいえ、お前には堪えるだろう。疲れたらすぐに言ってくれ」
「わかりました、ありがとうございます」
エスコートのために腕を組んで歩くヴィルヘルミーナもまた、ご機嫌だった。
「あ、あそこにちょうちょが飛んでいます。綺麗ですね」
「ああ。お前は記憶をなくす前からあの蝶が好きだな」
ルドガーが頷くと、ぱっとヴィルヘルミーナは顔を輝かせる。
「わたくしの好きな物を覚えてくださっていて、嬉しいです」
彼女に言われてルドガーは気づく。
「ああ……そうだな。多分、お前のことを、俺はなんでも覚えているんだ。いつも、いつの間にかお前を見ていたからな」
お茶会に行ったときも、夜会で会ったときも。傍にいないときにも、いつも無意識に彼女を目で追っていた。
恋というのは自覚した途端に加速する病だ。今さらになって過去の自分の行動一つ一つに思いいたって、ルドガーは恥ずかしくなる。けれどそれは彼だけではなかった。
「あ、あの、嬉しいですが……恥ずかしいです」
ぷしゅう、と湯気をあげそうな顔のヴィルヘルミーナが片手で頬を抑える。
「悪いな。どうやら俺はお前のことが好きで好きでたまらないらしい」
「そ、うですか……」
羞恥のキャパシティを越えたのだろう。組んだ腕をガチガチにさせて、その後のヴィルヘルミーナは、何を話しかけてもふわふわと上の空だった。
(可愛いな……)
そんな彼女を幸せな気持ちで見つめながら、ルドガーは歩く。
無自覚だった気持ちが溢れて口に乗れば、それを素直にヴィルヘルミーナが受け止めてくれる。なんともいえない幸福だった。にこにこと話す彼女がただただ愛おしくて、他愛のない会話一つ一つに舞いあがる。
だからつい、失念してしまったのだろう。普段から騎士として肉体を鍛えているルドガーと違って、ヴィルヘルミーナが普段、長距離移動などしない貴族令嬢であることを。
多幸感に包まれたままの二人は、街についてまず宿屋に足を向けた。宿屋には伝令のサービスをしている馬を繋いでいることが多いからだ。
自宅への連絡をことづけている間、ヴィルヘルミーナはルドガーの後ろで立ったまま待っていた。ところが、彼女は笑顔を崩さないまま、顔色だけがどんどん悪くなっていく。
「ヴィルヘルミーナ、待たせた……どうした?」
「すみません……浮かれて歩いていたら、足を痛めたみたいで……」
「なに!? いや、すまない。俺が気づくべきだった」
散歩中のふわふわとした気分で誤魔化されていたが、街についてルドガーと身体が離れたことで幸福感によるドーピング状態が切れ、痛みが一気に襲ってきたのだろう。
(歩き始めには覚えてたってのに……!)
後悔しても遅い。
「少しここで休んでいこう」
「でも、せっかくのお出かけが」
「お前が苦しいのに、楽しんでなんかいられないだろうが」
そう言って、ルドガーはさっと宿屋の受付に戻ると、部屋を借りる手続きをする。ついでに包帯と洗面器に汲んだ水も運ぶように手配した。
「すまない、少し我慢してくれ」
「えっ? ……っ!」
ルドガーはヴィルヘルミーナを抱きあげると、受付奥の階段を上がって借りた部屋に入る。後ろから洗面器などを持ってきてくれていた下女は、テーブルにそれらを置いてすぐに去って行った。
「足を見せてくれ。痛いなら血が出てるかもしれない」
ベッドに彼女を腰かけさせる形に下ろして、ルドガーはその足もとに跪く。
「あ、あのルドガー様……!」
ヴィルヘルミーナの足首にルドガーの手が触れたところで、彼女が悲鳴のような声をあげる。
「触れるだけで痛むほどなのか?」
「い、いえ」
「我慢しなくていい。早く診たほうがいいな」
するっとスカートをたくしあげて、ルドガーは遠慮の欠片もなく彼女の靴を脱がせた。白く滑らかな足が、靴の形に添って痛々しく赤く腫れている。
「……かなり痛かっただろう。医者に診せるほどじゃないが、すぐ処置しよう」
一番の痛みの原因は、腫れたせいで靴の締めつけが強くなっていたことらしい。脱いだことで幾分か楽になっていそうである。
「ルドガー様!」
指先で足をなぞりながら検分するルドガーに、ヴィルヘルミーナはこらえきれなくなったように再び叫ぶ。
「どうした?」
「足を触られるのは、恥ずかしいです……!」
そう言われて初めて、ルドガーははっとする。足の痛みをどうにかしてやらねばと必死だったが、彼女の訴えはもっともだ。本来女性の足首など、身の回りの世話をするメイドを除けば、触れることを許されるのは夫だけだ。太ももどころか、ふくらはぎだって異性に見せるのはとんでもなく破廉恥なのに。
「す、すまない! だが、包帯は巻かせてくれ。このままでは痛々しくて気が休まらない」
慌てて謝ったが、それだけは譲れなかった。じっと見つめて返事を待てば、ヴィルヘルミーナは迷ったようにそわそわと視線をさまよわせた。けれども結局は小さく頷く。
「……わかり、ました……。でも、あまり見ないでください……」
「わかった」
請け負ったルドガーは、用意された洗面器に彼女の足を浸して、丁寧にじっくりと足を洗う。赤くなっているから無理にこすると痛みが増すだろうという配慮だが、ヴィルヘルミーナにはある種の拷問である。
「……っ」
羞恥のせいか、顔を赤くしたヴィルヘルミーナは小さく息を吐きながら、ルドガーの手元を凝視していた。
その間も、ルドガーは慎重な手つきで彼女の足を清めていく。おまけに指の間も入念になぞる。水で冷やされることでずいぶん楽になったのか、少し赤みがひいてきた。それに気づいたルドガーは、彼女の足をより丁寧に撫で洗う。
「……んっ」
押し殺した吐息が、ちゃぷちゃぷという水音と共に静かな部屋に響く。
「ふ……ぅ」
これはヴィルヘルミーナが漏らす音だ。それが聞こえてはいたが、ルドガーは無言で彼女の足を丁寧に洗いあげ、拭いたあとに包帯をきっちりと巻きつける。両足の処置を終えたルドガーが見上げると、そこには案の定、恍惚とした表情で顔を緩ませたヴィルヘルミーナがいた。
「る、どがー、さま……」
艶を帯びた声音で、名前を呼ばれる。半開きになった口が切なげで、ルドガーを見つめる目は潤んでいる。
彼女のその様子だけで、ルドガーの中のスイッチを入れるには充分だった。
包帯を巻き終わった足から、彼は手を離さないでいる。
「くすぐったかったか?」
「……っ!?」
包帯の巻かれていない部分に、するっと手をつたわせてふくらはぎに触れる。柔らかく丸みを帯びた素足は滑らかで触り心地がいい。
「あ、あの……はい、くすぐったい、ので……もう……」
赤い顔のまま、ヴィルヘルミーナは震えている。けれど足を引っこめて無理に外そうとしないのがいじらしい。
「そうか?」
脛に顔を寄せ、ちゅう、とわざと音をたてて唇を落とす。性的な快感に乏しい接触だが、素足を触れられている羞恥と、いやらしいことをされているという認識のせいで、ヴィルヘルミーナを興奮させるのだろう。もう一度リップ音をたてると、彼女の口からはまた小さく声が漏れた。
「お前は可愛いな」
足に触れた手をそのままに、ルドガーは立ちあがりながら脛から太ももへと這わせていく。ぎっと音をたてて片膝をベッドに乗りあげれば、ヴィルヘルミーナはルドガーを黙ったまま見上げた。
「キスをしても、いいか?」
スカートの中に潜りこませたままの手で、太ももを撫でる。けれど鼠径部へは向かわずにただ同じ場所を焦らすように撫でながら、ルドガーはヴィルヘルミーナの顔を覗きこんだ。
「どうして……わざわざ聞くんですか?」
ベッドに下ろしたままの両の手が、きゅっとシーツを握って、彼女の緊張を伝える。
茶会仲間の母親たちは、とうとう自分の子どもたちを結婚させることにしたらしい。つまり、ルドガーとヴィルヘルミーナの婚約である。
近年では自由恋愛を経ての結婚も増えてきてはいるものの、貴族の婚姻といえば、やはり親が結婚相手を定めるのが主流である。一般的には親を含めたお見合いを経てから婚約にいたる。
ヴィルヘルミーナの生家であるシュルツ家は由緒正しい子爵家であり、ルドガーの生家であるダールベルク家は爵位持ちとしての歴史は浅いものの騎士を多く排出する男爵家として王の覚えもめでたい。家格的にも釣り合うし、家同士の結びつきにも丁度いい。何より母親同士がノリノリである。
もともと婚約させるつもりだったのか、それとも年頃になっても婚約者候補の一人も連れてこない子どもたちを心配したのかは定かではない。とにかく、唐突に二人のお見合いが決まったのだった。
シュルツ家に招待されたルドガーは緊張していた。想いを自覚してからヴィルヘルミーナに会うのは、今日が初めてである。いつもなら難なくコーディネートを決めて身支度を済ませるところだが、恋する乙女のように服を選ぶのに時間がかかってしまった。
「坊ちゃんでも婚約ともなれば、緊張なさるんですねえ」
着替えを手伝った従者にからかわれる。言い返してやりたくても、その通りなのでルドガーは顔を顰めることしかできなかった。
そして始まったお見合いは、『見合い』とは名ばかりの婚約お披露目会だった。シュルツ家のパーティーホールに足を踏み入れてみれば、やたらと人が多い。通常なら見合いにいるはずのない親族や知人などの招待客がいる。何ごとかと思っていると、説明される間もなく即刻ホール奥の壇上へと案内された。しかもすでにヴィルヘルミーナたちはその檀上で待ち構えている。その場で乾杯をして、挨拶をしたあとにはもう婚約誓約書への署名になった。そんな鮮やかにも手順をすっ飛ばした段取りのせいで、ルドガーはここに着いてからヴィルヘルミーナと言葉を交わしてさえいない。
(まだヴィルヘルミーナに告白もしてないのにな)
羽ペンを握らされながら苦々しくそう思う一方で、ちらりと隣を盗み見れば、美しく着飾ったヴィルヘルミーナがすぐそばにいて、ルドガーの気持ちは勝手に高揚してくる。
貞淑な彼女のことだ。胸元の開いたドレスは夜会の中でも特別な夜にしか着てこない。けれど、今夜の彼女は美しいうなじも肩も、そしてデコルテさえも惜しみなく晒したデザインのドレスを着ている。それだけ今日が彼女にとって特別なのだと思うと、ルドガーは嬉しかった。
だからというべきか、ルドガーはヴィルヘルミーナの様子に気づくのが一瞬遅れた。
「……ミーナ?」
署名の途中で、隣のヴィルヘルミーナが手を止めていた。そっと小さく呼びかけると、ぴくりと震えたヴィルヘルミーナは、きゅっと唇を引き結んで――けれど淑女として渋面は作らずに、平静を装って署名を再開した。呼びかけに、応えはない。
(……婚約が、いや……なのか)
ルドガーは冷や水をかけられたみたいに暗い気持ちになる。先ほどまで浮足立っていたのが嘘のようだ。手はしっかりと婚約誓約書への署名を書いていたが、その顔が笑えていたかどうか、ルドガーには自信がない。
「これで二人の婚約が成立したな。おめでとう、ヴィルヘルミーナ、ルドガー」
「おめでとう」
婚約誓約書を皆に示して、父親がそう宣言したのを合図に、集まっていた人たちから祝福の声がかけられる。
壇上から降りたあとにヴィルヘルミーナに話しかけようとしたが、集まっていた友人たちが寄ってきて、なかなかタイミングがない。
「まさかいきなり婚約とはな」
「お前とはもう夜遊びできないなあ」
「もともとそんなにしてないだろ……」
「おいおい、付き合いが悪くなっちまうのか? 独身の間にもっと遊べよ」
そうした軽口に気もそぞろにルドガーが答えながら、ちらちらとヴィルヘルミーナのほうを窺っていた。すると彼女は人の輪を抜けてテラスのほうへと向かっていった。
「悪い、少し席を外す」
すかさずそう断って彼女のあとを追いかけたルドガーは、テラスに佇むヴィルヘルミーナの後ろ姿を見つけて、小さく息を飲んだ。
ホールから漏れるわずかな光を浴びて、彼女の白いうなじと結いあげられたキャラメル色の髪が仄かに浮かびあがる。それは閨での薄明かりを彷彿とさせる暗さだった。
途端に、いつも綺麗に整った髪をほどいて、自分の下で乱れるヴィルヘルミーナの妄想が脳裏をよぎる。突きあげるたびに甘く喘いで、腰をくねらせながらよがる彼女。
もちろんそんな彼女の痴態を見たことなどない。
(何を考えてる、俺は。童貞の男か?)
唐突に劣情を催したことに一人で焦りながらも、静かに息を吐いて気持ちを整えると、ヴィルヘルミーナに近づきながらルドガーは声をかける。
「ヴィルヘルミーナ」
呼びかけにぴくんと肩を震わせたヴィルヘルミーナは、固い表情で振り向いた。
「今夜は……一段と、綺麗だな」
(クソ、なんだってこんな下手な言葉しか出てこないんだ!?)
「ありがとうございます。……あなたの今日の装いも素敵ですね」
静かな声で、やけに他人行儀に返される。これはいつものヴィルヘルミーナの社交辞令だった。もっとも、ルドガーの言葉だって同じだと思われているのだろう。挨拶時に相手を褒めるのは一種の礼儀みたいなものだし、特にルドガーは女性を褒める言葉を普段からよく口にする。
(お世辞だって、わかってても顔が緩むな)
「ミーナ」
小さい頃によく呼んでいた愛称をつい口にしたが、対するヴィルヘルミーナは眉間に皺を寄せた。
「……わたくし、あなたに愛称で呼ばれるほど親しくなかったと思うのだけれど。ダールベルク様?」
つん、と宣言されて、ルドガーははっとした。同じ台詞を、つい最近聞いたばかりだ。
「……そう、つれないことを言うなよ。俺たちは、婚約したんだからな」
幾分かぎこちない声音になってしまったのは仕方のないことだろう。ルドガーはかろうじて笑みを浮かべたが、対するヴィルヘルミーナは愛想笑いを納めた。
「あら。娼館に通うような殿方ですもの。お父様たちが決めたことでなければ、誰があなたみたいなふしだらな方と婚約なんて」
「……っ」
言い返す言葉がなかった。
『愛称で呼ばれるほど親しくない』
その台詞は先日、娼館帰りにヴィルヘルミーナと遭遇したときに言われたものだ。
(そうだったな)
初恋の自覚と、婚約の浮かれ気分ですっかり忘れていた。ルドガーがヴィルヘルミーナに最後に会ったのは、娼館に行ったことがバレたときだったのだ。印象がいいはずがない。たとえ『通う』というほどの頻度でなくても、そんなことは彼女には関係ないだろう。
そう思えば、いつもの口喧嘩と比べても、ヴィルヘルミーナの口調はずいぶんと棘がある。
「もう俺は娼館には行かない」
「あら。それはわたくしには関係のないお話なんでしょう? 別に弁解なんてしてくださらなくても結構ですわ」
「違う。お前だから言っておきたいんだ」
「付き合いに口を出すなとおっしゃった方が、どういう心変わりかしら?」
売り言葉に買い言葉でそんなことも言ったかもしれない。過去の自分が自分の首を締めている。
「……あのときの俺はどうかしていた」
ヴィルヘルミーナは何を思っているのか、答えない。
「婚約者のお前をないがしろになんかしない。ミーナ、これからはお前だけを見るから」
許しを請う台詞は、まるで浮気男の安っぽい口説き文句だ。ヴィルヘルミーナもそう感じたのだろう。
「どうして……」
ひどく傷ついた声を出して、ヴィルヘルミーナはくしゃりと顔を歪めた。そっとルドガーが手を伸ばすと、彼女は弾かれたようにあとずさる。
「そうやってあなたは女を誑かすんだわ! あなたみたいな人と……わたくし、婚約したくなかった……!」
「ミーナ!」
ルドガーの伸ばした手をすり抜けて、ヴィルヘルミーナは会場へと戻って行ってしまった。そうしてヴィルヘルミーナとろくな会話をすることもできず、婚約式は終わった。
折悪く、その直後ルドガーは一カ月ほどの遠征を命じられた。そのせいでヴィルヘルミーナに弁解することも、アプローチをすることも叶わなかったのだ。ようやく帰ってきた彼の元に届いたのが、ヴィルヘルミーナが何日も前に倒れたという知らせだったのである。
第二章 一から始める『婚約者』のお付き合い
記憶をなくしたというヴィルヘルミーナとの婚約は、継続されることになった。
今の彼女はルドガーへの態度が従順でふわふわ、可愛らしさの塊だ。別人に生まれ変わったかのようなヴィルヘルミーナについて、いまだルドガーは理解が追いついていない。
とはいえ、これはチャンスである。
(あいつが俺を忘れていても、口説き直して結婚すればいい)
幸い婚約は有効だし、よほどのことがなければ破談になどならない。理由はわからないが、今のヴィルヘルミーナはルドガーに好意的で、願ったり叶ったりである。
そして今日はそのアプローチの第一歩だ。ルドガーはヴィルヘルミーナとデートに行く予定である。先日見舞いに行った帰りに誘っておいたのはお手柄だろう。
シュルツ家には改めて婚約を確固たるものにしたい旨を伝えてある。そのうえで、もう一度二人の仲を深めていきたいと申し出ておいた。落馬以降はずっと家に軟禁状態だったヴィルヘルミーナも、婚約者の誘いならばと外出の許可が出たらしく、二人きりのデートの手筈は整った。
目標を定めて余裕が出来てしまえば、ルドガーの行動は実に抜かりがない。付き合いが悪いわりに女性のあしらいに長けていると友人達に言われるだけのことはあるのだ。
「今日は新しいドレスだな」
馬車でヴィルヘルミーナの屋敷へと迎えに行き、二人で街へと移動する間に、ルドガーはそう声をかけた。
「よくわかりましたね」
「ああ。その色は初めて見るが……まさか俺に合わせて仕立ててくれたのか?」
尋ねられたヴィルヘルミーナが身にまとうのは、落ち着いたワインレッドのドレスだ。装飾として赤茶の刺繍が施されている。同じ色合いであるルドガーの髪色を意識したとしか思えなかった。指摘されたヴィルヘルミーナは頬を染めてわずかに頷く。
「変、でしょうか……?」
「いいや、よく似合っている。俺を想ってあつらえたなんて、嬉しくて顔が緩んでしまうな」
「あ、ありがとうございます……」
はにかんだヴィルヘルミーナが可愛い。衝動的に抱き寄せて唇を奪いたくなってしまう。
(落ち着け。そんなことしたことないだろう)
まだデートは始まったばかりだ。こらえたルドガーは表面的には余裕の表情を作ってヴィルヘルミーナに笑いかける。こんなふうにデートの相手に劣情を催すなど、ヴィルヘルミーナが初めてだ。つまりはわかりやすいほどに彼女だけを見ていたということだろう。喧嘩ばかりしていたとはいえ、今までよくも気持ちを自覚しなかったものである。
(しかし、こんな手のこんだドレス、いつの間に仕立てたんだ?)
ふと浮かんだその疑問は、次の瞬間にかき消えた。
「きゃあっ」
がたん、と馬車が大きく揺れて、ヴィルヘルミーナが前に倒れこんでくる。それをとっさに支えて、ルドガーはしっかりと彼女を抱きこんだ。
「大丈夫か?」
「は、はい……何があったんでしょう?」
抱きしめられているせいか、それとも今の事故のせいか、顔の赤いヴィルヘルミーナはしどろもどろだ。だが、一方のルドガーは騎士の意識に切り替わって、先ほどとは打って変わって照れなど消え失せている。何か事件があったのかと緊張を走らせながら、彼女を守るためにより強く抱きしめた。
やがてこんこん、と窓が叩かれたかと思うと、外から声をかけられる。
「坊ちゃん、すみません」
話しかけてきたのは御者をしていた従者だった。ずいぶん焦った様子だ。
「どうした」
「急に脱輪してしまいまして。これ以上馬車を走らせられそうにありません」
「そうか。今はどの辺りだ?」
さっとカーテンをあけて、ルドガーは辺りを見回す。念のため周囲を警戒したが、特に危険はなさそうだった。
「街まであと歩いて二十分てとこですね。どうされますか?」
「では馬車を降りることにしよう。馬車の始末は任せられるか?」
「もちろんです。……坊ちゃん、こんな日にすみません……」
初めてのデートという大切な日に、という意味だ。困り顔の従者に、ルドガーは笑う。
「そんなのお前のせいじゃないだろう。街についたら、迎えをよこすよう連絡をとるから、悪いがそれまで頑張ってくれ」
「ありがとうございます」
「ああ」
今後の方針を立て終わったルドガーは、ヴィルヘルミーナに目線を移す。
「というわけで、ミーナ。すまないが、少し歩いてくれるか?」
「は、はい。それ、は構わないのですが……」
真っ赤な顔のヴィルヘルミーナは声が尻すぼみに小さくなっていき、耐えきれなくなったのか、俯き気味になって目を伏せた。
「どうした?」
「ち、近すぎます」
さらに俯いたヴィルヘルミーナの顔が、ぽす、と意図せずしてルドガーの胸に着地した。途端に、どっとルドガーの心臓が跳ねる。
「……っすまない」
ぱっと両手を上げて、ルドガーは即座に謝り身体を離した。
(女性を抱きしめるのなんて、別に初めてでもないのに……)
「大丈夫、です……」
照れて頬を染めた伏し目がちの彼女に、劣情が煽られる。
ルドガーは今まで、秋波を送ってしなだれかかってくる令嬢を幾度となくあしらってきた。はしたなくも胸を押しつけてアピールしてきた令嬢だっている。そのことごとくを冷静に対処してきたというのに、ヴィルヘルミーナのそんな仕草だけで、ルドガーの下半身が疼きを覚える。
(俺はガキにでもなったのか!?)
疼きを無視して立ちあがると、ルドガーは意識的に笑みを浮かべる。そうしてヴィルヘルミーナにエスコートの手を差し出しながら、「行こう」と告げた。
馬車を降りた先は、開けた平野である。すでに視界に街が映っているが、まだ徒歩二十分はかかる。一本道で途中に立ち寄れそうな場所はないが、二人で並んで歩く散歩は存外悪くない。
「晴れていてよかったですね」
「ああ。ミーナ、二十分とはいえ、お前には堪えるだろう。疲れたらすぐに言ってくれ」
「わかりました、ありがとうございます」
エスコートのために腕を組んで歩くヴィルヘルミーナもまた、ご機嫌だった。
「あ、あそこにちょうちょが飛んでいます。綺麗ですね」
「ああ。お前は記憶をなくす前からあの蝶が好きだな」
ルドガーが頷くと、ぱっとヴィルヘルミーナは顔を輝かせる。
「わたくしの好きな物を覚えてくださっていて、嬉しいです」
彼女に言われてルドガーは気づく。
「ああ……そうだな。多分、お前のことを、俺はなんでも覚えているんだ。いつも、いつの間にかお前を見ていたからな」
お茶会に行ったときも、夜会で会ったときも。傍にいないときにも、いつも無意識に彼女を目で追っていた。
恋というのは自覚した途端に加速する病だ。今さらになって過去の自分の行動一つ一つに思いいたって、ルドガーは恥ずかしくなる。けれどそれは彼だけではなかった。
「あ、あの、嬉しいですが……恥ずかしいです」
ぷしゅう、と湯気をあげそうな顔のヴィルヘルミーナが片手で頬を抑える。
「悪いな。どうやら俺はお前のことが好きで好きでたまらないらしい」
「そ、うですか……」
羞恥のキャパシティを越えたのだろう。組んだ腕をガチガチにさせて、その後のヴィルヘルミーナは、何を話しかけてもふわふわと上の空だった。
(可愛いな……)
そんな彼女を幸せな気持ちで見つめながら、ルドガーは歩く。
無自覚だった気持ちが溢れて口に乗れば、それを素直にヴィルヘルミーナが受け止めてくれる。なんともいえない幸福だった。にこにこと話す彼女がただただ愛おしくて、他愛のない会話一つ一つに舞いあがる。
だからつい、失念してしまったのだろう。普段から騎士として肉体を鍛えているルドガーと違って、ヴィルヘルミーナが普段、長距離移動などしない貴族令嬢であることを。
多幸感に包まれたままの二人は、街についてまず宿屋に足を向けた。宿屋には伝令のサービスをしている馬を繋いでいることが多いからだ。
自宅への連絡をことづけている間、ヴィルヘルミーナはルドガーの後ろで立ったまま待っていた。ところが、彼女は笑顔を崩さないまま、顔色だけがどんどん悪くなっていく。
「ヴィルヘルミーナ、待たせた……どうした?」
「すみません……浮かれて歩いていたら、足を痛めたみたいで……」
「なに!? いや、すまない。俺が気づくべきだった」
散歩中のふわふわとした気分で誤魔化されていたが、街についてルドガーと身体が離れたことで幸福感によるドーピング状態が切れ、痛みが一気に襲ってきたのだろう。
(歩き始めには覚えてたってのに……!)
後悔しても遅い。
「少しここで休んでいこう」
「でも、せっかくのお出かけが」
「お前が苦しいのに、楽しんでなんかいられないだろうが」
そう言って、ルドガーはさっと宿屋の受付に戻ると、部屋を借りる手続きをする。ついでに包帯と洗面器に汲んだ水も運ぶように手配した。
「すまない、少し我慢してくれ」
「えっ? ……っ!」
ルドガーはヴィルヘルミーナを抱きあげると、受付奥の階段を上がって借りた部屋に入る。後ろから洗面器などを持ってきてくれていた下女は、テーブルにそれらを置いてすぐに去って行った。
「足を見せてくれ。痛いなら血が出てるかもしれない」
ベッドに彼女を腰かけさせる形に下ろして、ルドガーはその足もとに跪く。
「あ、あのルドガー様……!」
ヴィルヘルミーナの足首にルドガーの手が触れたところで、彼女が悲鳴のような声をあげる。
「触れるだけで痛むほどなのか?」
「い、いえ」
「我慢しなくていい。早く診たほうがいいな」
するっとスカートをたくしあげて、ルドガーは遠慮の欠片もなく彼女の靴を脱がせた。白く滑らかな足が、靴の形に添って痛々しく赤く腫れている。
「……かなり痛かっただろう。医者に診せるほどじゃないが、すぐ処置しよう」
一番の痛みの原因は、腫れたせいで靴の締めつけが強くなっていたことらしい。脱いだことで幾分か楽になっていそうである。
「ルドガー様!」
指先で足をなぞりながら検分するルドガーに、ヴィルヘルミーナはこらえきれなくなったように再び叫ぶ。
「どうした?」
「足を触られるのは、恥ずかしいです……!」
そう言われて初めて、ルドガーははっとする。足の痛みをどうにかしてやらねばと必死だったが、彼女の訴えはもっともだ。本来女性の足首など、身の回りの世話をするメイドを除けば、触れることを許されるのは夫だけだ。太ももどころか、ふくらはぎだって異性に見せるのはとんでもなく破廉恥なのに。
「す、すまない! だが、包帯は巻かせてくれ。このままでは痛々しくて気が休まらない」
慌てて謝ったが、それだけは譲れなかった。じっと見つめて返事を待てば、ヴィルヘルミーナは迷ったようにそわそわと視線をさまよわせた。けれども結局は小さく頷く。
「……わかり、ました……。でも、あまり見ないでください……」
「わかった」
請け負ったルドガーは、用意された洗面器に彼女の足を浸して、丁寧にじっくりと足を洗う。赤くなっているから無理にこすると痛みが増すだろうという配慮だが、ヴィルヘルミーナにはある種の拷問である。
「……っ」
羞恥のせいか、顔を赤くしたヴィルヘルミーナは小さく息を吐きながら、ルドガーの手元を凝視していた。
その間も、ルドガーは慎重な手つきで彼女の足を清めていく。おまけに指の間も入念になぞる。水で冷やされることでずいぶん楽になったのか、少し赤みがひいてきた。それに気づいたルドガーは、彼女の足をより丁寧に撫で洗う。
「……んっ」
押し殺した吐息が、ちゃぷちゃぷという水音と共に静かな部屋に響く。
「ふ……ぅ」
これはヴィルヘルミーナが漏らす音だ。それが聞こえてはいたが、ルドガーは無言で彼女の足を丁寧に洗いあげ、拭いたあとに包帯をきっちりと巻きつける。両足の処置を終えたルドガーが見上げると、そこには案の定、恍惚とした表情で顔を緩ませたヴィルヘルミーナがいた。
「る、どがー、さま……」
艶を帯びた声音で、名前を呼ばれる。半開きになった口が切なげで、ルドガーを見つめる目は潤んでいる。
彼女のその様子だけで、ルドガーの中のスイッチを入れるには充分だった。
包帯を巻き終わった足から、彼は手を離さないでいる。
「くすぐったかったか?」
「……っ!?」
包帯の巻かれていない部分に、するっと手をつたわせてふくらはぎに触れる。柔らかく丸みを帯びた素足は滑らかで触り心地がいい。
「あ、あの……はい、くすぐったい、ので……もう……」
赤い顔のまま、ヴィルヘルミーナは震えている。けれど足を引っこめて無理に外そうとしないのがいじらしい。
「そうか?」
脛に顔を寄せ、ちゅう、とわざと音をたてて唇を落とす。性的な快感に乏しい接触だが、素足を触れられている羞恥と、いやらしいことをされているという認識のせいで、ヴィルヘルミーナを興奮させるのだろう。もう一度リップ音をたてると、彼女の口からはまた小さく声が漏れた。
「お前は可愛いな」
足に触れた手をそのままに、ルドガーは立ちあがりながら脛から太ももへと這わせていく。ぎっと音をたてて片膝をベッドに乗りあげれば、ヴィルヘルミーナはルドガーを黙ったまま見上げた。
「キスをしても、いいか?」
スカートの中に潜りこませたままの手で、太ももを撫でる。けれど鼠径部へは向かわずにただ同じ場所を焦らすように撫でながら、ルドガーはヴィルヘルミーナの顔を覗きこんだ。
「どうして……わざわざ聞くんですか?」
ベッドに下ろしたままの両の手が、きゅっとシーツを握って、彼女の緊張を伝える。
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