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4章

恋の棘 2

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「何だ。つまんないの」

 インキュバスは小さく嘆息すると、ソファーに深く座り直して背もたれの上に肘をついた。

「自ら眷属になろうとする吸血種に、後ろ暗い事情があることなどわかりきったことだと思いますよ」

 誠史郎さんはインキュバスを真っ直ぐに見据えて伝える。

 私は心臓がばくばくしていた。
  本当に、気付かないことが多すぎる。あんなに優しげな絵は好きな人を想って描いたから完成したもの。それを見抜けないなんて。

 それにしても、誠史郎さんは絵が上手なんだな、と今さら感心した。
   私の記憶に残っている絵と、インキュバスの掌の上で佇む女性はそっくりだ。

「誠史郎さんは絵が上手なんですね!」

 焦るあまり、思ったことを口にしてしまっていた。全く流れにそぐわない発言だ。
   みんなが呆気に取られて私を見ているのに気が付いて赤面してしまう。

 透さんが額を押さえて笑い始めた。

「さすが、みさきちゃん」

 ひとしきり笑うと、透さんはインキュバスを見る。

「話っちゅうのはそれだけやったら、もう帰ってもええ?」

 立ち上がった彼を見て、淳くんと眞澄くんもハッとしたようだ。透さんがここにいてくれて良かった。

「どうぞ、ご自由に」

 つまらさそうに答えたインキュバスをその場に残してみんな部屋を出る。フロントで料金を支払うと家路についた。

 誰も誠史郎さんに事の詳細を話して欲しいと求めることはしなかった。誠史郎さんが自ら語ることもなかった。

  いつもと変わらない整った理知的な横顔だけど、どこか翳があるように私には見えた。



 みんなで家に帰ってしばらくいつもの、思い思いに行動する日曜日を過ごしていた。

  私がキッチンに飲み物を取りに来た時、リビングにいた誠史郎さんが1度自宅に戻ると言って玄関の方へ行った。

  偶然、周りに誰もいなかったから誠史郎さんの行動は私しか伝えられていない。私は彼をひとりにしてはいけない気がして、気がつくと誠史郎さんの後を追っていた。

「どうしました?」

 運転席に乗り込もうとしていた誠史郎さんの曖昧な微笑みを見て、やっぱり今、彼をひとりきりにするのは良くないと感じる。

「あ、あの……」
「一緒に行きますか?」

 誠史郎さんが柔らかく微笑みに、私は頷いた。
  助手席のドアを誠史郎さんが開けてくれる。私が乗り込むと、ドアを丁寧に閉じて彼は運転席側にまわって乗車した。

 出発してから、誰にも言わずに飛び出してしまったと気がついた。
   だけど誠史郎さんのお家にお邪魔するだけだから大丈夫かと思いそのままにしてしまう。

 誠史郎さんのお家は相変わらず、生活感がなく整えられていた。

「お邪魔します」

 リビングルームに通されて、高そうな黒い革のソファーに座らせてもらった。
  大きさからして3人掛けだと思う。とてもふかふかして気持ち良いけれど、スカートが少し短かったので裾に気をつけた。

 誠史郎さんは私に紅茶を淹れてくれる。
  白い瀟洒なカップに注がれた茶褐色の液体は、甘いイチゴの香りがする。

「ありがとうございます。美味しいです」
「それは良かった」

  こんなにソファーは広いのに、誠史郎さんは腕が触れ合うほど近くに腰かける。

   なぜか私たちの間に微弱な電流が走った気がした。 
  だけど、顔を上げていけないと何かが私に訴えかける。

「彼女のことを詳しく聞きたいですか?」

 盗み見た誠史郎さんの切れ長の瞳は、いつもより危うい色香を湛えているように思えた。

「そんなつもりじゃ……」

 私はうつむき加減で頭を振る。妖しい光を切れ長の双眸に滲ませる誠史郎さんを真っ直ぐには見られなかった。

「誠史郎さんが心配で」

 ぽつりと呟くと、流れるように優美な立ち振る舞いが僅かに滞った気がした。
    私は何かまずいことを言ってしまったのかと、恐る恐る誠史郎さんへ少しだけ振り向く。

「みさきさんは、どうしてそう……」

 彼は困ったように、両眼をわずかに細めていた。

 今日のどこか不安定な誠史郎さんが気がかりだったのは本当だ。
    でも漂う雰囲気に警戒してティーカップを手持ったままひとり分の距離を取って座り直してしまう。

「逃げないでください」

 ソーサーにカップを戻したのと同時に、誠史郎さんの影が被さってくる。逃げようと思う間もなく、彼にソファーの上で押し倒されていた。

「私の理性も限界があります」

 両手首を頭上で纏められて、誠史郎さんは簡単に片手で押さえつけてきた。びくともしなくて、足を動かそうにも彼の身体に潰されて抜け出せない。

「……みさき」

 震えるほど甘い声が耳朶に触れると思考回路が停止しようとする。そのまま耳を喰まれて、誠史郎さんの舌と唇が私の首筋に沿って移動する。

「あっ……」
「ここが好きですか?」

「そ、そんなのわから、な……ンっ」

 彼の柔らかい粘膜が耳に触れるとひとりでに鼻から抜けるような甘えた声が溢れてしまう。

    恥ずかしくて口を塞ぎたいけれど、両手を拘束されているのでできない。
    逃れようと身動ぎするけれど誠史郎さんは鋭く妖艶な微笑みを湛えてそれを許してくれない。

 彼の空いている方の手が、遠慮がちだけど内腿に触れた。

「せ、誠史郎さん? え? ちょっ……」

「私はずっとあなたが欲しかった。みさきさんの全てを私のものにしたいと思っていました」

 内腿から手が離れたことに安堵したけれど、今度は長い人差し指が私の唇に触れる。

「ここにキスをしようとすると周の術が発動してしまうようですから」

 秀麗な面がにっこりと笑って見せるけれど、美しい悪魔が破顔したように見えた。

 お祖父ちゃんの術とは何だろうと考えたかったのに、誠史郎さんは猶予を与えてくれなかった。

    頬に、額に、優しいキスが落とされる。事態が飲み込めなくて呆然と天井を見つめていた。

    視界に誠史郎さんの秀麗な面が現れて、大きな掌が私の頬を優しく包む。

「ひとりの女性として、特別に思っています。……みさきさんは誰よりも大切な女性です。私は貴女を愛しています」

 眉のひとつも動かさずに、鼓膜を甘やかに震わせる。
    すぐには理解できず、反芻して私の方が混乱状態に陥ってしまった。

   まさか誠史郎さんに告白されるなんて。
   そんなこと、今まで欠片も考えたことが無かった。

    だけど、そう言われると腑に落ちることがたくさんある。

 眼鏡を外してテーブルに置く。誠史郎さんの眼鏡は実は度が入っていないので、かけていなくてもきちんと見えている。

    一連の所作が余りに婉前としていて、つい見とれてしまう。それに気づいたのか、誠史郎さんは小さく華麗に微笑んだ。

「興味を持ってくれているのですね」

 私が抵抗しないので、誠史郎さんは手首を解放してくれた。でもすぐに互いの指を組まれてソファーに押しつけられる。

    誠史郎さんが私に何をしようとしているのかは理解した。もちろん経験はないけれど、何となくの知識はある。

「だ、ダメです……! これ以上は……!」
「私が嫌いですか?」
「そんなことは……ないですけど……」

 頬ずりをされてそのままそこに唇が触れる。

「誠史郎さん……!」

 これ以上はできないと誠史郎さんの手を押すけれど、のれんに腕押ししているようなもの。

「みさきさんが私に火を点けたのですから、責任を取ってください」

 大きな手が再び私の大腿に触れ、何かを呼び覚まそうとするかのように緩々と撫で上げてくる。

 膝の裏に手を差し込まれて足を折り曲げられた。膝の辺りから彼の唇が向こう脛へと向かってゆっくりと滑る。

「せ……」

  多分、これ以上迫られたら私は受け入れてしまう。
  身体から力が抜けていくのを感じていた。

 ぼんやりとした意識の中で、扉の向こうから誰かが走っているような足音が聞こえて来た。

「みさき!」

 バン、と勢い良くドアの開く大きな音と共に、息を切らせた眞澄くんが勢いよく走り込んできた。

 私の向こう脛に誠史郎さんがキスをしていると言う、尋常ならざる光景に眞澄くんは凍りついた。

「本当に眞澄くんは鼻が効きますね」

 誠史郎さんは徐ろに身体を起こすと私から離れて立ち上がる。

    私は急いで態勢と身だしなみを整えて座った。心臓が破裂しそうに踊り上がっている。

「誠史郎……!」

 眞澄くんが誠史郎さんの胸ぐらに掴みかかったので、私は慌ててふたりの間に割って入る。

「違うの!私がふざけて転んじゃって、誠史郎さんは起こそうとしてくれただけなの!」

 通用するはずのない苦しい言い訳だとわかっているけど、ふたりにケンカをしてほしくなかった。

「みさき……」
「大丈夫だから、だから……」

 俯いて眞澄くんの拳を包み込む。何とかそれを収めてもらいたかった。

「お願い……」

 私自身の節操のなさが恥ずかしくなった。みんなが優しくしてくれて、それが当然の世界の中で目隠しをして、何も考えたことがなかった。

「……帰るぞ」

 眞澄くんに痛いほど強く手首を掴まれる。

「みさきさん」

 引き摺られるように歩き出した私の背中に、誠史郎さんの明晰さを感じさせる声音に呼ばれたので振り返った。

「私は本気です。みさきさんに私をひとりの男として愛してもらえるように、もう遠慮はしません」

 真っ直ぐな声と瞳に、私何も言えずに立ち尽くした。
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