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第六章 終わりへ向かっていく時間

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イブキを待たせるのが申し訳なくて、夕食は食べずに帰る。

「イブキー、ただいまー」

「あん!
あん!」

リビングの明かりがつくと、ケージに前足をついて立ち上がり、イブキが盛んに尻尾を振り出した。

「はいはい、ごめんねー」

ケージを開けると同時にじゃれてくる。
その頭を満足するまで撫でてあげた。
そのあいだに矢崎くんがリビングを出ていく。

「すぐに着替えてごはんの準備、するね」

「え、いいよ。
今日は俺がやる」

着替えて戻ってきた彼は軽くイブキの頭を撫でて、キッチンに向かった。

「いいって。
矢崎くんは休日出勤して疲れてるんだしさ。
それに契約締結が終わるまでは、私が家事するんだから。
はい、イブキと一緒にステーイ、だよ?」

矢崎くんの肩を押していき、強制的にソファーに座らせる。
ついでにイブキも抱っこしてきて、その膝の上にのせた。

「イブキ。
パパが晩ごはん作らないように、見張っててね」

「あん!」

任せろとでもいうのか、ひときわ高い声でイブキが鳴く。
なんかそれがおかしくて、ふたりして笑ってしまった。

寝室で着替え、髪はラフなひとつ結びにしてしまう。
あそこまでしても、戻ったら矢崎くんはキッチンに立っていそうだ。
どうしてそこまで、私のお世話をしたがるかね。

けれど予想に反し、リビングではイブキを膝にのせたまま、矢崎くんはソファーに座っていた。

「珍しい。
私のいうことなんか聞かずに晩ごはんの準備、してるのかと思った」

「……イブキが膝から下りないから、立てない」

仏頂面で矢崎くんがイブキを見下ろす。

「あん!」

そんな彼とは反対にイブキは、ちゃんとパパを見張っていたよとでもいうように、得意げに鳴いた。

「じゃー、仕方ないねー。
イブキー、もうちょっとそうやって、パパを見張っててねー」

「あん!」

すぐにイブキが、返事をしてくれる。
本当に賢い子で、助かるな。

私が夕食の準備をしているあいだ、矢崎くんは諦めたのかイブキと遊んでいた。
ここしばらく彼から遊んでもらっていないし、イブキも嬉しそうだ。

「できたよー」

温め直した料理と、スープを食卓に並べていく。
たまにはまともな手料理を披露したいところだが、家政婦さんの作り置きを無駄にするのも惜しい。
土日の分は断るという手もあるが、今日みたいに外出したあとだと作るのも面倒臭いし、悩ましいところだ。

「わかったー」

イブキとの遊びを切り上げ、矢崎くんはキッチンで手を洗って食卓に着いた。

「いただきます」

「はい、どうぞ」

家で食べるとき、彼は必ず「いただきます」
って言う。
食べ終わったら、「ごちそうさま」。
そういうところは、いいなって思う。
彼との子供ができたらそんなふうに育てたいなと思うけれど、私にはそんな未来は来ない。

「仕事、どう?」

「んー、完璧!
……って言いたいところだけど、なにがどう転ぶかわからないもんなー」

珍しく、矢崎くんは自信なさげだ。

「もう!
そういうときは嘘でも、『なにも問題ない。絶対上手くいくから吉報を待っとけ!』くらい言えばいいんだよ」

これは父からの受け売りだ。
初めての入試の朝、問題が解けなかったらどうしようと心配する私に、同じように言って父は頭をガシガシ撫でてくれた。
嘘でも自分にそう言い聞かせれば気持ちも落ち着いてミスも減り、ひいては成功に繋がる。
おかげでそのときは第一志望に受かったし、そのあともそれで全部乗り切ってきた。
このあいだのイベントのときももちろん、上司に明日はどうだと聞かれ、そう言って大見得を切った。
私にとっては今でも大事にしている、魔法の言葉だ。

「そうだな。
絶対に上手くいくから心配するな。
それで純華を家族に紹介して、結婚をオープンにするぞ!」

自信満々に彼が笑う。
うん、矢崎くんはやっぱり、こうでなきゃ。
でもこうやって、自分が彼との別れを確実にしていっているのは見ないフリをした。

食事のあと、コーヒーを淹れたカップをふたつ持って、矢崎くんがソファーにいる私の隣に座る。
どんなに忙しくてもこのコーヒータイムを彼は大事にしていたし、コーヒーを淹れるのだけは俺の仕事だと絶対に譲ってくれない。

「あの、さ」

「ん?」

コーヒーをひとくち飲んだ彼が、私を見る。

「これ、よかったら使って」

「え、なにこれ?」

私が差し出した小箱を、矢崎くんは戸惑いながら受け取った。

「純華から俺に、プレゼント?」

「そう」

「ヤバい、嬉しすぎる」

なぜか眼鏡から下を手で隠し、彼が視線を逸らす。
それで弦のかかる耳が、こちらを向く。
その耳は真っ赤になっていた。

……え。
もしかして、滅茶苦茶喜んでくれてる?
そう気づくと同時に、これが妻として彼への初めてのプレゼントなのだと思い至った。

「開けていいか?」

「えっ、あっ、……うん」

矢崎くんが照れに照れまくっているせいもあって、私までなぜか恥ずかしくなってくる。

「ネクタイ?」

「あっ、うん。
そう。
アクアマリンのタイピンにあうのがいいなって思って」

「めちゃめちゃ嬉しい」

彼の顔が近づいてきて、ちゅっと軽く唇が重なった。

「契約のとき、これ締めていくな」

「う、うん」

目尻が下がり、眼鏡の陰に笑いじわがのぞく。
私の大好きな、矢崎くんの笑顔。
それが見られて、私も嬉しかった。
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