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1.恩人と私
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……はぁーっ。
吐いた息はすでに白くない。
それほどまでに長い時間、ここでうずくまっているから。
細い路地から見上げた大通りにはたくさんの人が行き交っていた。
大多数の和装に混ざって、最近では珍しくなくなってきた洋装の人。
男、女。
大人、子供、老人。
時折通る、馬車や人力車が土煙を上げる。
でも、誰ひとり私に目を向ける人はいない。
……はぁーっ。
再び息を吐き出して目を閉じる。
腫れ上がった瞼で、長い時間目を開けているのはつらかった。
あちこちずきずきと痛む身体。
もしかしたら骨でも折れているのかもしれない。
今朝、とうとう追い出された屋敷は酷いところだった。
呉服商を営む旦那様も奥様もみんな、使用人のことはごみ扱いだった。
殴る蹴るは当たり前。
一度は、皿を投げつけられて額が切れた。
もちろん、医者になんて診せてもらえないから酷い跡になって髪で隠している。
けれど、そんなことをされても我慢するしかない。
私の家は貧しく、半ば口減らしでここへ奉公に出された。
だから追い出されても行くところがない。
今朝も味噌汁が熱すぎるって、突然あたまからかけられ殴られた。
ただ、いつもと違っていたのは、このところ商売が失敗続きで旦那様の虫の居所が悪かった、ってこと。
だから、私が動かなくなっても旦那様は私を殴り続けたし、立ち上がることもできない私をそのまま、屋敷から放り出した。
「雪だ」
聞こえる声に重い瞼を薄く開けると、地面にひらひらと白いものが舞い落ちてきた。
点々とシミを作っていくそれは、私の上にも少しずつ降り積もっていく。
寒いはずなのに、少しも感じない。
ああ、私はこのまま死ぬのかな。
ただただ、生きるためだけに生きてきた。
死んだところで、なにも変わらない気がする。
「そこでなにをしているんですか?」
誰かが、なにかを言っている。
もしかして、警官なのかもしれない。
こんなところにいるな、迷惑だ、と。
「寒いでしょう、それでは」
ふわり、かすかにいい匂いがしたかと思ったら、なにか暖かいものに包まれた。
のろのろと顔を上げ開かない瞼を必死で上げる。
ぼんやりと見えた視界の中で、洋装の若い男が立っていた。
「ああ、痛かったでしょう」
そっと、男の手が私の顔にふれ、思わずびくりと身体が震えた。
男は一瞬手を止めたが、そのまま自分のかけた外套で私をくるんで抱き上げる。
「私と一緒に、いらっしゃい」
温かい男の笑顔に身体を預け、目をつぶった。
きっと、この男は私をあの世に連れにきたお迎えなのだろう。
ならば……。
「祐典!
いい加減に俺の話を聞かないか!」
「だから。
何度お話しいただいても、私の気持ちは変わりませんから」
お茶を出しながら孝利さまと祐典さまの言い争いに、いつものことだとわかっていながらはらはらしてしまう。
「当主であるおまえが早く結婚しなければならいことくらいわかるだろ!」
孝利様が怒鳴りつけ、はぁーっと祐典さまの口から深いため息が落ちた。
「わかっていますよ、それくらい。
ただ、叔父上からご紹介いただく相手とは結婚しない、と言っているのです」
銀縁の、眼鏡の奥から送られる冷たい視線。
真っ赤な顔でわなわなと震えている孝利さまを無視して私からカップを受け取り、祐典さまは涼しい顔でお茶を飲んだ。
「知らないとでも思っているんですか?
叔父上がこの高遠の家の乗っ取りを考えていること」
カチャ、ソーサーにカップを戻した祐典さまが微笑む。
凍るように冷たく、美しい笑顔は目の奥が全く笑っていない。
「ま、また来るからな!」
足音荒く部屋を出、バン!と乱暴に孝利さまはドアを閉めた。
少しして女中の小さな悲鳴が聞こえてきたから、また誰かに八つ当たりしたのだろう。
「……はぁーっ」
ふたりっきりになった応接室、祐典さまが再び、深いため息を吐き出す。
「いい加減、諦めてくれないですかね」
カップを手に、お茶を一口。
「私はね、加代。
高遠の家など誰かにくれてやってかまわないのです。
けれど、あの叔父に譲ることだけは嫌なんですよ」
使用人の私にそんなことを言われても、できる返事などない。
曖昧に笑っていると、祐典さまは黙って皿の上からお菓子を摘んだ。
「風華堂のビスケットですか。
あの人、手みやげだけは外さないんですよね。
……ん、おいしい。
加代もどうですか?」
「は、はぁ……」
こうやってよく祐典さまは私にお菓子を勧めてくるが、そろそろ、それを気軽に受け取るわけにはいかないんだと、わかってくれないだろうか。
「まあいいです。
あとで、皆で分けて食べなさい」
「ありがとうございま……!」
差し出された皿を受け取る。
が、突然、佑典さまに手を掴まれた。。
思わず皿を落としそうになって、もう片方の手で慌てて掴み直す。
「最近、冷えてきたからですかね。
手が荒れています」
「えっと」
するり、私の手を撫でて、祐典さまの手が離れた。
「夜、私の部屋においでなさい」
「……はい」
大急ぎで食器をお盆に載せ、軽く一礼して逃げるように部屋をあとにする。
火がついたかのように熱い顔、ばくばくと早い心臓の鼓動。
このごろの私はどこか、おかしい。
祐典さまは前の屋敷を追い出され、死にそうになっていた私を救ってくれた恩人だ。
華族で、事業も成功してお金持ちの祐典さまからすればただ、哀れんでくれただけなのかもしれない。
あのまま死ねず、つらく苦しい人生をまだ歩まなければならいことがわかったときは恨みもした。
でも、いまは感謝している。
高遠の家は、前に奉公していた屋敷に比べなくても天国だった。
使用人なのにふかふかの布団を与えてくれて、ごはんもおなかいっぱい食べられる。
服だって、紺の着物に臙脂の帯、白の西洋風エプロンという奴が女中には揃いで支給されている。
訪れた孝利さまにたまに殴られることはあるが、祐典さまもほかの使用人も、私を殴ったりしない。
それどころか、小学校すら出ていない私に、祐典さまは執事の鷹司さんに命じて読み書きを教えてくれる。
この世に、こんなところがあったのかっていうくらい幸せで、こんな天国に連れてきてくれた祐典さまは神様じゃないかと思う。
吐いた息はすでに白くない。
それほどまでに長い時間、ここでうずくまっているから。
細い路地から見上げた大通りにはたくさんの人が行き交っていた。
大多数の和装に混ざって、最近では珍しくなくなってきた洋装の人。
男、女。
大人、子供、老人。
時折通る、馬車や人力車が土煙を上げる。
でも、誰ひとり私に目を向ける人はいない。
……はぁーっ。
再び息を吐き出して目を閉じる。
腫れ上がった瞼で、長い時間目を開けているのはつらかった。
あちこちずきずきと痛む身体。
もしかしたら骨でも折れているのかもしれない。
今朝、とうとう追い出された屋敷は酷いところだった。
呉服商を営む旦那様も奥様もみんな、使用人のことはごみ扱いだった。
殴る蹴るは当たり前。
一度は、皿を投げつけられて額が切れた。
もちろん、医者になんて診せてもらえないから酷い跡になって髪で隠している。
けれど、そんなことをされても我慢するしかない。
私の家は貧しく、半ば口減らしでここへ奉公に出された。
だから追い出されても行くところがない。
今朝も味噌汁が熱すぎるって、突然あたまからかけられ殴られた。
ただ、いつもと違っていたのは、このところ商売が失敗続きで旦那様の虫の居所が悪かった、ってこと。
だから、私が動かなくなっても旦那様は私を殴り続けたし、立ち上がることもできない私をそのまま、屋敷から放り出した。
「雪だ」
聞こえる声に重い瞼を薄く開けると、地面にひらひらと白いものが舞い落ちてきた。
点々とシミを作っていくそれは、私の上にも少しずつ降り積もっていく。
寒いはずなのに、少しも感じない。
ああ、私はこのまま死ぬのかな。
ただただ、生きるためだけに生きてきた。
死んだところで、なにも変わらない気がする。
「そこでなにをしているんですか?」
誰かが、なにかを言っている。
もしかして、警官なのかもしれない。
こんなところにいるな、迷惑だ、と。
「寒いでしょう、それでは」
ふわり、かすかにいい匂いがしたかと思ったら、なにか暖かいものに包まれた。
のろのろと顔を上げ開かない瞼を必死で上げる。
ぼんやりと見えた視界の中で、洋装の若い男が立っていた。
「ああ、痛かったでしょう」
そっと、男の手が私の顔にふれ、思わずびくりと身体が震えた。
男は一瞬手を止めたが、そのまま自分のかけた外套で私をくるんで抱き上げる。
「私と一緒に、いらっしゃい」
温かい男の笑顔に身体を預け、目をつぶった。
きっと、この男は私をあの世に連れにきたお迎えなのだろう。
ならば……。
「祐典!
いい加減に俺の話を聞かないか!」
「だから。
何度お話しいただいても、私の気持ちは変わりませんから」
お茶を出しながら孝利さまと祐典さまの言い争いに、いつものことだとわかっていながらはらはらしてしまう。
「当主であるおまえが早く結婚しなければならいことくらいわかるだろ!」
孝利様が怒鳴りつけ、はぁーっと祐典さまの口から深いため息が落ちた。
「わかっていますよ、それくらい。
ただ、叔父上からご紹介いただく相手とは結婚しない、と言っているのです」
銀縁の、眼鏡の奥から送られる冷たい視線。
真っ赤な顔でわなわなと震えている孝利さまを無視して私からカップを受け取り、祐典さまは涼しい顔でお茶を飲んだ。
「知らないとでも思っているんですか?
叔父上がこの高遠の家の乗っ取りを考えていること」
カチャ、ソーサーにカップを戻した祐典さまが微笑む。
凍るように冷たく、美しい笑顔は目の奥が全く笑っていない。
「ま、また来るからな!」
足音荒く部屋を出、バン!と乱暴に孝利さまはドアを閉めた。
少しして女中の小さな悲鳴が聞こえてきたから、また誰かに八つ当たりしたのだろう。
「……はぁーっ」
ふたりっきりになった応接室、祐典さまが再び、深いため息を吐き出す。
「いい加減、諦めてくれないですかね」
カップを手に、お茶を一口。
「私はね、加代。
高遠の家など誰かにくれてやってかまわないのです。
けれど、あの叔父に譲ることだけは嫌なんですよ」
使用人の私にそんなことを言われても、できる返事などない。
曖昧に笑っていると、祐典さまは黙って皿の上からお菓子を摘んだ。
「風華堂のビスケットですか。
あの人、手みやげだけは外さないんですよね。
……ん、おいしい。
加代もどうですか?」
「は、はぁ……」
こうやってよく祐典さまは私にお菓子を勧めてくるが、そろそろ、それを気軽に受け取るわけにはいかないんだと、わかってくれないだろうか。
「まあいいです。
あとで、皆で分けて食べなさい」
「ありがとうございま……!」
差し出された皿を受け取る。
が、突然、佑典さまに手を掴まれた。。
思わず皿を落としそうになって、もう片方の手で慌てて掴み直す。
「最近、冷えてきたからですかね。
手が荒れています」
「えっと」
するり、私の手を撫でて、祐典さまの手が離れた。
「夜、私の部屋においでなさい」
「……はい」
大急ぎで食器をお盆に載せ、軽く一礼して逃げるように部屋をあとにする。
火がついたかのように熱い顔、ばくばくと早い心臓の鼓動。
このごろの私はどこか、おかしい。
祐典さまは前の屋敷を追い出され、死にそうになっていた私を救ってくれた恩人だ。
華族で、事業も成功してお金持ちの祐典さまからすればただ、哀れんでくれただけなのかもしれない。
あのまま死ねず、つらく苦しい人生をまだ歩まなければならいことがわかったときは恨みもした。
でも、いまは感謝している。
高遠の家は、前に奉公していた屋敷に比べなくても天国だった。
使用人なのにふかふかの布団を与えてくれて、ごはんもおなかいっぱい食べられる。
服だって、紺の着物に臙脂の帯、白の西洋風エプロンという奴が女中には揃いで支給されている。
訪れた孝利さまにたまに殴られることはあるが、祐典さまもほかの使用人も、私を殴ったりしない。
それどころか、小学校すら出ていない私に、祐典さまは執事の鷹司さんに命じて読み書きを教えてくれる。
この世に、こんなところがあったのかっていうくらい幸せで、こんな天国に連れてきてくれた祐典さまは神様じゃないかと思う。
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