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第4章 ハードル

1.快気祝いランチ

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頬の腫れは翌日には引いたが、傷はかさぶたになってしばらく目立っていた。

「ほんとに悪かったな」

私の傷を見るたび池松さんは申し訳なさそうで、反対にこっちが申し訳なくなる。

「その傷が原因で羽坂を振るような奴がいたら、俺がガツンと言ってやるからな」

「……そのときはお願いします」

にやりと池松さんが笑い、はぁっ、心の中で小さくため息をつく。

あの日、責任を取ると言った池松さんは、さらに続けてこう言ったのだ。

「森迫にはきちんと詫びを入れさせる。
それでも羽坂の気がすまないのなら、訴えてもいい。
外川部長や上の奴らがそれでなにか言ってきたら、俺がなんとかしてやる」

なにかを期待していたわけじゃない。
それでもがっかりしている自分を隠せない。
池松さんは真剣だけれど、言ってほしいのはそんなことではないのだ。

「これくらいで訴えたりしないですよ」

「本当にいいのか」

どこまでも真剣な池松さんの気持ちは嬉しいが、そんなことをすれば仕事を失いかねない。
それにそれで契約解除になったとなれば、派遣会社も次の派遣先を斡旋しづらいだろう。

「はい。
これくらい、大丈夫ですから」

笑顔を作って答えると、池松さんは渋々ながら納得してくれたようだった。



森迫さんは私たちが会社に戻ったときにはすでに帰っていた。

「もう、大変だったんですよ」

後頭部を氷の入った袋で冷やしながら、宗正さんはジト目で池松さんを睨んだ。

「会議室にふたりになったとたん、押し倒されて。
火事場の馬鹿力っていうんですか?
押しのけようとしてもびくともしないし。
本多課長が来るのがあと少し遅かったらオレ、マジで犯されてましたよ」

「それは悪かったな」

宗正さんの肩をぽんぽんと叩く池松さんは全く労っていないようだけれど……気のせい、かな。
それにこういう言い方はあれだが、宗正さんの自業自得ともいえなくもない。
あんなときにああいうことを言うから。

「オレさ、猫かぶるのやめようと思うんだよね。
だからよろしく、羽坂ちゃん?」

私の手を取って、宗正さんはにっこりと笑った。

……えっと。
それってどういう意味ですか?

困惑する私に、池松さんはすーっと視線を逸らしただけだった。


森迫さんは謹慎処分になり、部署も異動になった。
事実上の左遷は多少罪の意識を感じるが、さすがに宗正さんに実力行使に出たのは、同情の余地はないと思う。



かさぶたも取れ傷も目立たなくなってきた頃、池松さんにランチへ誘われた。

「結局あの日、ばたばたして行けなかっただろ。
その傷の快気祝いも兼ねて」

くいっと眼鏡をあげられると、胸の中がぽっと熱くなる。
いままではそんなことはなかったのに。

「じゃ、じゃあ。
ごちそうになります」

「うん」

私が頷き、嬉しそうににかっと池松さんが笑った。
その笑顔は眩しすぎて困る。

あの日、ごたごたしてお礼のネクタイは渡せずじまいで机の引き出しに入ったままだ。
いい機会だからランチに行ったときに渡そうと思う。

池松さんは喜んでくれるかな。
それとも、……迷惑だって言われたらどうしよう。
そんなことを考えて、急に不安になってきた。

「あっ、ふたりでどこ行くんですか!?」

お昼、池松さんと一緒に会社を出ようとしたら、目ざとく見つけた宗正さんが寄ってきた。

「どこって。
昼メシだけど」

「えー、いいなー。
オレも一緒に行っていいですかー」

だらんと前に落とした腕を、宗正さんはぶらんぶらんと振った。
そういうのは可愛さを狙っているんだろうか。

「いいが、君の分はおごらんぞ」

「えー、池松係長のケチー」

なんだかんだ言いながらも宗正さんは着いてくる。
けれど、着いた先がお高そうな鉄板焼のお店で、急に財布の中身を心配し始めた。

「池松係長ー、オレ、今月ピンチなんですよー」

「知るか」

「池松係長ってばー」

「さっさと来い」

苦笑いで池松さんはお店に入っていき、きっと宗正さんの分まで払うつもりなんだろうなって思った。

「池松さん、ほんとにいいんですか」

外観もさることながら、内装もいかにも高級って感じで気後れしてしまう。

「ランチメニューは結構手頃なんだ。
それに仕事の礼と快気祝いだからな」

店員からメニューを受け取ると、開くより先に池松さんに奪われた。

「そうはいっても羽坂はすぐ、遠慮するからな。
メニューは見せない」

いたずらっぽく八重歯を見せて笑い、池松さんは自分のメニューを開いた。
宗正さんは池松さんの隣で真剣にメニューを睨みながら、うっとかあっとか変な声を上げている。

すぐに池松さんは視線で店員を呼んだ。
そんなスマートなところはとてもかっこいい。

「ステーキランチセットを三つ。
食後にコーヒー……でいいか」

短く頷いて返事をする。
池松さんも頷いてメニューを閉じた。

「食後にコーヒーで」

注文を復唱し、メニューを回収して店員がいなくなる。
宗正さんは瞳をうるうると潤ませ、池松さんの腕に縋りついた。

「池松係長ー、オレ、マジでピンチなんですってー」

本気で宗正さんが困っているということは、頼んだステーキランチってそんなに高いんだろうか。
いいのかな、ほんとに。
そんなのおごってもらって。

「わかった、わかった。
君の分も払ってやるから心配するな」

邪険に宗正さんを振り払い、池松さんはくいっと眼鏡をあげた。
やっぱり最初から、宗正さんの分も払うつもりだったんだ。
優しいな、池松さんは。

「ほんとですか!?
ありがとうございます!」

宗正さんに犬の耳としっぽが見えるのは気のせいかな。
それも小型の、ミニチュアダックス。
そしてしっぽはもちろん、勢いよくパタパタと振られている。

宗正さんがミニチュアダックスなら、池松さんは黒ラブ?
落ち着いた大型犬でいて、ものすごく人なつっこそう。

料理を待っているあいだに、持ってきたネクタイの包みを差し出した。

「池松さん。
その、……いつもお世話になっているお礼です」

「俺に?」

受け取りながらも池松さんは戸惑っていて……もしかして、迷惑だったのかな。

「池松さんのおかげでまだ、ここで働いています。
あのときだって気遣ってくれたし、今日だって。
感謝、しています」

マルタカのレディースファッション部で働きはじめて、三ヶ月目に入った。
あんなことがあってもまだ、辞めるつもりはない。
このあいだ様子を見に来た早津さんにも、会社から契約を切られない限り続けるつもりだと伝えてある。

「よせや。
おじさんは当たり前のことをしただけだ。
それに、まだ続けられてるのは羽坂が頑張ってるからだ。
羽坂が頑張るんだったら、おじさんは全力で応援する」

ぽりぽりと照れくさそうに池松さんが頬を掻き、やっぱりこの人が好きだと思った。
けれど相手は既婚者で、この想いは秘めておかなければいけない。

「はい!
はい!
オレも、オレも応援するし!」

騒がしい宗正さんに池松さんと顔を見合わせて笑うしかなかった。
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