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第2章 ランチ

2.妻との関係

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ゴールデンウィークは仕事に集中できた。
なんといってもいつもなにかと私を悩ませてくれる、社員さんたちが半分程度しかいないのだ。
当然、トラブルも半減する。

「いつもこうだったらいいのに……」

「どうだったらいいんだ?」

うぃーんと思いっきり椅子の背を倒すように背伸びをしたら突然、顔の上に池松さんの顔が出現して驚いた。

「えっ、あっ」

大急ぎで元の体勢に戻そうとしたら、勢いがつきすぎてゴン、と池松さんの額に頭突きをかましていた。

「……いっ、たー」

「……いってーな」

ずきずきと痛む額を押さえながらうっすらと涙が浮いた目で池松さんを探す。
池松さんはよろっと机の上に手をついて、私が頭突きした額をやっぱり押さえていた。

「す、すみません!」

不慮の事故とはいえ、上司に頭突きしてしまうなんて許されるわけがない。

「羽坂って意外と石頭なのな」

気を取り直すように隣の椅子に後ろ向きに座り、両腕で背もたれを抱くようにしてにへらと池松さんは笑った。

……うっ。
その笑顔、可愛すぎます!

「ほんとすみません。
その、……大丈夫ですか」

「ん?
ちーっと痛かったけど、平気平気。
羽坂の方こそ大丈夫か?」

冗談めかして池松さんは笑っているが、その額はうっすらと赤くなっている。
私の額だってまだずきずきしているのだ。
痛くないわけがない。

「私も平気です」

笑って頷くと池松さんも頷いた。

「ならよかった。
……アメ、食うか?」

何事もなかったかのようにごそごそとポケットを探ると池松さんが拳を突き出すから、ありがたく手を差し出す。

「いただきます」

「ん」

ころんと手の平の上に乗せられたのはパインアメ……じゃなく、ピンク?
同じようなパッケージでアメの真ん中には穴が空いているけど。

「期間限定のスモモアメだ。
これが食えるなんてついてるな、羽坂」

八重歯を見せてにかっと笑うと、池松さんの眼鏡の影に笑いじわがのぞく。
ぽいっと自分も口にアメを放り込んでにこにこ笑って食べているのはほんと、……可愛いからやめてください。

「それでさっき、なにがいつもこうだったらいいって?」

アメで口をもごもごさせながら聞かないで欲しい。
そういうの、めちゃくちゃ可愛いので。

さっきから心の中で可愛い、可愛いと連呼しているけど、このおじさんは狙ったかのように私のいいツボを的確に射抜いてくる。

「いつも、その、……これくらい社員さんの無理難題が少なかったらいいのにな、って」

社員の池松さんにこんなことをいうのは気が引ける。

「そーだよなー。
問題児が軒並み休みだと、平和でいいわな」

しれっと池松さんが言うから、ぶわっと冷や汗かいた。
当人たちが休みでも、聞いた誰かが告げ口しないとは限らない。

「いつもこうだといいのにな」

はぁっ、小さくため息をついて池松さんは苦笑いを浮かべた。

本多課長が上司として部下に注意できないから、池松さんが憎まれ役を引き受けている。
池松さんはそういう役回りの人間も必要だからって笑っているけど、私は納得したくない。
だって池松さんは吹けば飛ぶような派遣の私にも優しくしてくれるような人だから。

「もう少しで昼休みだ。
……って、もう十二時なったな。
昼メシ一緒にどうだ?」

気持ちを切り替えるように池松さんは椅子から立ち上がって笑った。

「はい。
お願いします」

私も頷き返して席を立つ。

このあいだ池松さんが一緒にお昼を食べに行こうと誘ってくれていたし、一応、お弁当はやめておいた。
別に期待していたわけではないけれど、でも本当に池松さんが誘ってくれたときにお弁当だったら悪いな、って。


会社を出ると青葉を茂らせた街路樹が影を落としている。

連休に入ったとたん一気に気温は上がり、池松さんはノータイになった。
ボタンを外してもちゃんと下シャツが見えないものにしているあたり、さすがだと思う。

「これから暑くなると汗かくから嫌だよな」

日差しが眩しいのか、池松さんは目を細めた。

「そうですね。
いろいろ気になりますし……」

化粧崩れだとか汗ジミだとか臭いとか。
みっともなくならない程度に気をつけてはいるけれど、いまいるところではさらに気をつけないと、小さなことでなにか言われそうだ。

「そういえばさ……ってもう着いたから、続きはあとでな」

カランカラン、明るい音のドアベルを響かせて入ったお店は、レトロな喫茶店のようだった。

「いらっしゃいませー」

すぐにお冷やとおしぼり、メニューが出てくる。
メニューを広げるとまるまる一ページコーヒーメニューに続いて、ハンバーグにナポリタン、玉子サンドと少し懐かしいようなメニューが並んでいた。

「基本、なんでもうまいんだけどな。
一番のお勧めはハンバーグ」

このあいだ言っていた、〝うまいハンバーグを食べさせる店〟というのはここのことなのだろう。

「じゃあ、ハンバーグにします」

「うん、そうだよな。
……すみません」

池松さんが呼ぶとすぐに店員がやってきた。

「ハンバーグをランチセットで二つ。
あと、食後にコーヒー。
本日のお勧めで」

「かしこまりました」

店員がメニューを下げ、私の視線に気づいたのか池松さんはいたずらがばれた子供のようににやっと笑った。

「ここはコーヒーもうまいんだ」

そうなんだろうとは思うけど。

――ううん。
いろいろ考えないで、素直におごられておこう。

しばらくしてサラダにライス、ハンバーグが運ばれてきた。
ハンバーグは鉄板の上にのせられており、それだけでおいしそうだ。

「いただきます」

ナイフを入れた途端、じゅわりと肉汁があふれてくる。
ぱくりと口に入れると、肉汁とかかっているデミグラスソースが絶妙に絡み合い、はっきりいって最高だった。

「……!」

「な。
うまいだろ?」

あまりのおいしさにぱくぱく食べている私を見て、池松さんは満足そうに笑っている。

「あんまり人には教えたくないんだが、羽坂は特別な」

ふと引っかかってナイフフォークを持つ手が一瞬止まる。

池松さんは私をちょくちょく誘って、ふたりで食事に来るけどいいのだろうか。

それにいま、特別だとか。

池松さんに下心がないのはわかっている。
ただ単に私を労ってくれているだけだって。

でも、池松さんは既婚者で奥さんがいるのだ。
もし変な噂がたったら困る、なんてことはないのかな。

「その。
池松さんは、あの、私と噂になったらとか、その、」

「なに?
羽坂は俺と噂になりたいの?」

はっきり言うと自分の願望を言っているみたいで人が口を濁しているのに、ずばっと言い切られると一気に顔に熱が上っていく。

「……いえ、別に」

恥ずかしくてちまちまと、鉄板の上のコーンを一粒ずつフォークに刺してしまう。

「そっかー。
それはちょっと残念だなー」

……は?
残念ってなんですか。

思わず顔を見ると、池松さんは眼鏡をくいっと押し上げた。

「可愛い羽坂となら噂くらいならなってみたいよな」

ボフッとなにかが爆発した音がした。
池松さんは明後日の方角を向いて水を飲んでいる。
言って照れるのなら言わないで欲しい。

「ま、冗談だけどな」

「冗談ですか」

なぜか残念に思っている自分がいる。
でもそんなはずはないのだ。
相手は既婚者で、ずっと年上なのだから。
きっと気のせい。

「妻はもし俺が浮気しても、そんな甲斐性あったんだーってケラケラ笑うくらいで、気にしないから」

毎回思うけど、奥さんを〝妻〟と呼ぶ池松さんはポイント高い。
そういうのはほんと、理想の旦那さんだ。
それにしても池松さんは苦笑いでハンバーグを食べているけど、奥さん、酷くないですか。

「その。
奥さんって……」

「俺の妻はそういう人間だし、わかっていて結婚したから後悔はしてないよ」

池松さんは笑っているけれど、どこか淋しそうで胸がずきずきと痛む。
もしかして池松さんは奥さんを愛しているけれど、奥さんはそうじゃないんだろうか。
気になるけど、聞けない。

「言わないのか?
そんなんでよく、夫婦やってますねって」

「え……」

池松さんは驚いているけれど、そんなにいつも失礼なことを言われているんだろうか。

「あの。
夫婦の形は人それぞれだし、池松さんがいいのならそれでいいんだと思います」

「ふーん」

池松さんはそれ以上なにも言わなかったが、口元はなぜか嬉しそうに緩んでいた。
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