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第三章 同じ時間を過ごしたふたり

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すぐにエプロンを外したお母さんと、お茶とケーキの準備をしたお手伝いさんらしき人がやってきた。
テーブルにそれらをセッティングし、お手伝いさんが下がる。

「それで。
そちらが準一朗が結婚を考えているというお嬢さんか」

紅茶の香りを嗅いでひとくち飲み、お父さんは視線をこちらへ向けた。

「はい。
会社の部下の、紀藤明日美さんです」

「はじめまして。
紀藤明日美です」

部長に紹介され、勢いよく頭を下げる。

「はじめまして、準一朗の父です。
こっちは妻の理子です」

「準ちゃんのお母さんでーす」

ひらひらと手を振るお母さんは、セレブ妻とは思えないほど軽くて明るい。

「明日美さんと準一朗はどこで?
……って、職場で知り合ったんですよね」

わかりきったことを聞いてしまったからか、お父さんが苦笑いを浮かべる。

「そうです。
いつも明るく頑張っている明日美さんに惹かれて。
こっちから告白するのはパワハラになるかなと躊躇っていたんですが、いじらしい一面を見せられてそんなことを言っていられなくなり、押しました」

だよな? と部長はこちらに視線を送ってくるが、その嘘話は初耳だ。
しかし、黙って頷き同意しておく。

「はい。
富士野部長から告白されときは驚きましたが、尊敬する上司からの告白ですから嬉しかったです。
付き合ってさほど経たず結婚を切り出されたときには戸惑いましたが、富士野部長の熱意に押されて」

ですよね? と今度は私が部長へ視線を送る。
彼はそのとおりだと頷いた。

「そうか。
準一朗が決めたことなら私たちに異論はない。
君たちの幸せを祈っているよ」

本当の心の底からそう思っているのか、お父さんの目にもお母さんの目にも涙が光っている。
これは一時的なものでこんな彼らを騙しているのだと思うと心が痛い。

その後はお母さんお手製のケーキを食べながらお茶した。

「明日美さんのご両親へはいつ、挨拶へ伺おうか」

お父さんの言葉でぴくりと手が止まる。

「そうですね……。
早いほうがいいですけど、しばらく明日美さんも僕も忙しくて。
落ち着いたらまた連絡します」

「わかった。
スケジュールを空けるから、決まったらすぐに連絡してくれ」

部長がにっこりと笑い、この話はこれで終わりになってしまった。
親相手にさらさら嘘をつく部長が恐ろしい。

「お母さん、こんな可愛い娘ができるなんて嬉しいわ。
そうだ、明日美ちゃん。
今度一緒にお買い物に行きましょう?」

可愛らしく小首を傾げてお母さんにお願いされ、断れる人間がいるだろうか。
いや、いない。

「そう……」

「すみません、母さん。
さっきも言ったように明日美さんはしばらく、忙しいので」

……とか思ったら、いた。
やんわりと部長がお母さんのお願いを断る。

「そうなの?
残念だわ。
あ、でも、ドレス選びは一緒に行きたーい!」

両手の指を組み、キラキラした目で見ているお母さんは圧が凄い。

「そ、そうですね。
そのときは、ぜひ」

今度も部長が断ってくれると思ったのに、素知らぬ顔でお茶を飲んでいる。
なぜだ?

夕食までごちそうになって、部長の実家を出る。

「変わった母親で驚いただろ?」

「えっ、はははははっ」

そうですね、とは言えずに笑って誤魔化す。

「でも、とても優しいそうなご両親でした」

お父さんもお母さんも、もうまるで私が実の娘かのように可愛がってくれた。
なのに私はそんな人たちを騙しているんだけれど。

「まあな。
期待してないから俺には優しいよ」

「……え?」

今日は晴れだったよくらいのテンションで言われたので聞き流すところだったが、〝期待していない〟って?

「それって、どういう意味ですか?」

「あの人たちは次男の俺にはなんの期待もしてないんだ。
兄には跡取りとして習い事や勉強をさせたが、俺は放置だった。
ただ、やりたいと言えばなんでもやらせてくれたよ。
兄に厳しくする反面、それだけ俺を甘やかせたからな」

話す部長はどこか淋しそうで、口出しできない。

「兄にはよい成績を期待するのに、俺が一番取ろうと必死に勉強すると、そんなに頑張って勉強しなくていいって言うんだ。
将来はちゃんといいようにしてやるから、心配しなくていいんだって。
そんなの言われて、俺が嬉しいとでも思っているのか?」

皮肉るように部長の顔が歪む。
ああ、この人は……。

「……それ、ちょっとわかります。
私もそんなに頑張って勉強して、お姉ちゃんみたいになる必要はないんだ、って言われていたので」

だから、父と母は私に期待していないんだと思っていた。
一流企業に就職した姉と違い、二流企業に就職した私を、明日美らしくていいと姉も両親も笑っていて悔しかった。
姉には将来の心配なんかしないのに、私にはしょっちゅう、お金はあるのかとか気にする両親が嫌だった。
きっと部長も今まで、私と同じ感情を抱えて生きてきたんだ。

「明日美ならわかってくれると思ってた」

伸びてきた手が、ぎゅっと私の手を握る。
私たちはずっと違う生活をしてきたけれど、同じ気持ちで過ごしてきた。
だからこんなにも、――富士野部長が愛おしい。

「私たち、似たもの同士ですね」

「そうだな」

信号で車が止まり、部長の手が離れる。
彼の顔を見上げた瞬間、唇が重なった。

「えっ……?」

「明日美が凄く可愛かったから、キスしたくなった」

信号が青になり、くいっと大きな手で覆うように眼鏡を上げた部長が車を出す。

「あの、えっと。
……それって、どういう意味ですか」

顔が燃えているんじゃないかというほど熱い。
視線が定まらず、あちこち見てしまう。
なのに。

「そういう意味だけど?」

しれっと言って涼しい顔で部長は運転を続けている。
どきどきしているのは私だけ?
もしかして部長にとって、可愛かったらキスするのは挨拶みたいなものなのかな。
だとしたら、こんなにときめいて損した気分。

「まあ、可愛いからキスしたくなるのは明日美だけだけどな」

「え?」

呟くようにぼそりと言われた言葉はよく聞こえない。

「今、なんて……」

「なんでもない!
帰ったらプレゼンの最終確認をするぞ。
明日はいよいよ、本番なんだからな!」

怒ったように言う、部長の耳は真っ赤になっている。
それで少しだけ、気分がよくなった。
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