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第九章 知識と勇気で

9.46 黒竜騎士団領の朝

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 落ち着いていたサシャの腕がゆっくりと、『本』であるトールから離れる。

 目が、醒めたのかな? ベッドの上で寝返りを打ち、小さく首を横に振ったサシャに、トールはふぅと息を吐いた。細い窓から入ってくるのは、朝未きの空色。まだ、寝てても良いのに。そんなことを考えていたトールの視界は不意に、サシャの腕に塞がれた。

「イザイア閣下、何処まで行ったかな?」

 トールを引き寄せたサシャの細い腕に、微笑みを返す。一人と一冊、そして帝都ていとでティツィアーノ(おそらくディーデ)によって閉じ籠められてしまった地下神殿で出会った夏炉かろの騎士イザイアが、この黒竜こくりゅう騎士団領にある騎士用の小城に辿り着いたのは、昨日の朝未き。出迎えたフェリクスの成長と、フェリクスに確かめたヴィリバルトの死に驚愕したイザイアは、それでもすぐに、フェリクスから借りた黒竜騎士団の駿馬に跨がり、南へと旅立った。イザイアが持っているティツィアーノ猊下との『結婚証明書』を南苑なんえん王レクスに渡し、契りを結ぶことが禁忌である神帝じんていの地位からティツィアーノを降ろすために。ヴィルバルトを殺したのはティツィアーノではないが、それでもイザイアは責任を感じているのだろう。イザイアの行動を、トールはそう判断した。一方サシャは、フェリクスと、黒竜騎士団員を治療し続けている医学教授アランの「ここにいなさい」という言葉に従う形で、この、黒竜騎士団領内の小城に泊まっている。

 イザイアが持つ『結婚証明書』でティツィアーノが神帝位を降りたら、レクス王から頼まれたサシャの任務は終わる。サシャの腕の中で思考する。その後の神帝位がどうなるかは、おそらく北向きたむく次第。サシャではなく、本来の神帝候補であるリュカが神帝位に就けるよう、北向の老王が工作するだろう。サシャは、……宰相となってリュカを補助することを、本心から希望している。

 本格的に目覚めてしまったのだろう、ベッドから身を起こしたサシャが、部屋の横木に掛けてあった自分の上着を手に取る。上着とエプロンを身に付け、エプロンのポケットにトールを入れたサシャは、泊まっている小さな客間からまだ薄暗い廊下へと音を立てることなく歩を進めた。

 そのまま、客間がある建物から出る。

 黒竜騎士団用の小城は、小さな丘の上に立つどっしりとした塔と、丘の麓に並ぶ騎士団の宿舎からなる。トールが歴史の教科書で見たのと同じ、灰色の城壁が丘と宿舎を囲む典型的な初期中世の城塞。その城壁が一番分厚くなっている、出入り口を守る盾壁の方へと足を向けた一人と一冊は、すぐに、見知った影を前方に認めた。

「早いな、サシャ」

 大きめの手提げ籠を軽々と持ち運ぶ医学教授アランが、普段通りの声でサシャに向かって口の端を上げる。

「盾壁で見張りに就いているルジェクのところに食事を持って行くところだが、一緒に来るか?」

 次に響いた、アラン教授の申し出に、一人と一冊は同時に頷いた。ルジェクとは、帝都で何度か会っているが、無事を知らせるために会えるうちに会っておいた方が良い。

「……あの、アラン教授」

 盾壁に辿り着く前に、サシャの口がゆっくりと開く。

「ジルド師匠の、こと」

「ああ」

 おずおずとしたサシャの言葉に、アランは肩を竦める仕草をした。

「ピオから聞いてきたのを、ルジェクが話してくれた」

 毒の被害が軽微だったルジェクは、帝都のことを観察する任に就いているらしい。アランの言葉にサシャがほっと息を吐く。

「あの、それで」

「あの時は、ジルドが毒を盛っていたことを、信じることができなかった。そうだろう?」

 なおも言い淀むサシャに、アランは的確な言葉を返した。

「はい……」

「そういうものさ」

 大人のようなアランの言葉に、サシャが俯く。

「悪いのは、あくまでジルドだ」

 そのサシャに、アランは冷静な言葉を投げた。

「俺も、……結局守れなかったし」

 続くアランの、聞こえないほど小さな声に、はっとしてアランを見上げる。まさか、アラン教授は、……サシャの叔父ユーグさんのこと、を。トールの仮説が正しいことを証明するように、アランの頬は僅かな桃色に染まっていた。
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