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第九章 知識と勇気で

9.8 洗濯する少年①

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[珍しい]

 聞こえてきた、水の跳ねる音に、思わず幻の声を上げる。

 帝都ていとの北郊外にある『星読ほしよみの塔』に一番近いという理由で、北向きたむく神帝じんてい候補として帝都に滞在しているサシャは現在、かつて肩身の狭い思いをした白竜はくりゅう騎士団の守人もりと見習い用の宿舎に寄宿している。宿舎の人影は、サシャが見習いをしていた頃より疎ら。雰囲気も、どこかだれているようにトールには感じられる。サシャがここに寄宿して二週間あまり経つが、宿舎を掃除する者も、宿舎の端にある井戸付きの土間で服を洗濯する者も見たことがない。

「誰か、洗濯してる?」

 サシャも「珍しい」と感じたのだろう。疲れた顔を宿舎端の土間の方へと向ける。だが、サシャに宛がわれた部屋近辺からは、土間方面は死角になっている。誰かは分からないが、真面目な見習いもいる。そのことに、トールは正直ほっとしていた。

[これから、どうする?]

 中庭に面したサシャの部屋の前に置かれている簡素な椅子に腰を下ろしたサシャの血の気が見えない頬に、小さく言葉を紡ぐ。星読みの塔での夜通しの観測は、身体の弱いサシャには酷。だが、サシャは音を上げない。せめて、塔から戻ってきた後はゆっくりと休んでほしいが、昼夜の生活のリズムを逆転させないよう、星読みの長でサシャを指導しているギュンター博士は、星読みの塔から白竜騎士団の自分の部屋に戻っても夕方までベッドに入らないよう、サシャに言っている。

「図書館、に」

 希望を小さく口にしたサシャが、唇を閉じて俯く。

 星読み達が観測したデータで古いものは、帝都の大学教授用図書館の地下に収められている。北向の神帝候補になっているサシャは、教授用図書館に自由に出入りする許可を夏炉かろ出身の神帝ティツィアーノからもらっている。何の気兼ねもなく星読みのデータを確認したり、稀覯本を読んだりすることができることは、サシャにとっては嬉しいこと、のはず。唇を震わせるサシャを見上げたトールの脳裡に浮かんだのは、サシャに馴れ馴れしく近づく影、南苑なんえんの神帝候補ディーデ。

「叔父上の『魔法』、見たことがあるそうだな」

 初めて教授用図書館で出会った時、サシャを見るなりディーデが発した言葉が、トールの脳裡を過る。南苑の王太子の配偶者となったエルネストが警告していた少年ディーデは、『本』であるトールを破壊し、サシャを無理矢理配偶者にしようとした東雲しののめの前の王配殿下リーンの甥に当たることを一人と一冊が知ったのは、図書館にあった王家の系図を紐解いた時。

「俺も、色々調べているんだが、……叔父上は、『永遠を得る方法』、知ってたか?」

 サシャが図書館に行く度に、ディーデは馴れ馴れしくサシャにつきまとい、『魔法』のことや叔父であるリーン王配殿下のことを訊いてくる。避けようとしても、帝都が保管する数少ない『魔法』の本が置かれている場所と、サシャに必要な星読みのデータが置かれている場所は両方とも地下階にあるのでなかなか振り払うことができない。『魔法』の恐ろしさと、リーン殿下の魔法の結果の哀しさは、忘れようとしても忘れられない。辛い記憶を呼び覚ましてしまうディーデの言動を、サシャも避けたいと思っているのだろう。

 ディーデのことは、誰かに相談した方が良いのだろう。サシャの沈んだ瞳の色に、思考を巡らす。しかし誰に相談すれば良いのだろう? サシャと共に帝都に来たエルネストは、南苑に戻った。星読みの長ザハリアーシュは、衰退した夏炉の星読みを立て直すと言っていた。黒竜こくりゅう騎士団の人々は、前の神帝猊下ヴィリバルトの葬儀の後、神帝ティツィアーノ猊下から許可を得て、僅かな人員を帝都に残し、帝華ていかの東側にある騎士団領で休暇を取っている。アラン教授は、ヴィリバルトのことを綴った手紙を北辺ほくへんの修道院へ送ったが、音沙汰が無い。サシャに武術を教えてくれた青年グイドは、神帝公邸でティツィアーノの手伝いをしている。夏炉かろの王リエトの依頼で帝都に来ているらしいが、忙しそうだ。それが、一度だけ公邸でグイドと話した一人と一冊の感想。

 今、サシャが頼れるのは、法学教授マクシムの内弟子として帝都で法学を学んでいるカジミールだけ。そして、カジミールを巻き込むことに、サシャは難色を示している。今は北向の若王となっているセルジュからあらましは聞いているだろうし、秋都あきとでサシャを助けてくれたことを考えると、今回も、カジミールは何も言わずにサシャを助けてくれると思う。カジミールに会ったら、ディーデのことを相談してみるよう、サシャを説得しよう。そこまで考えたトールの耳に響いたのは、大量の水が派手にひっくり返る音。
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