298 / 351
第九章 知識と勇気で
9.8 洗濯する少年①
しおりを挟む
[珍しい]
聞こえてきた、水の跳ねる音に、思わず幻の声を上げる。
帝都の北郊外にある『星読みの塔』に一番近いという理由で、北向の神帝候補として帝都に滞在しているサシャは現在、かつて肩身の狭い思いをした白竜騎士団の守人見習い用の宿舎に寄宿している。宿舎の人影は、サシャが見習いをしていた頃より疎ら。雰囲気も、どこかだれているようにトールには感じられる。サシャがここに寄宿して二週間あまり経つが、宿舎を掃除する者も、宿舎の端にある井戸付きの土間で服を洗濯する者も見たことがない。
「誰か、洗濯してる?」
サシャも「珍しい」と感じたのだろう。疲れた顔を宿舎端の土間の方へと向ける。だが、サシャに宛がわれた部屋近辺からは、土間方面は死角になっている。誰かは分からないが、真面目な見習いもいる。そのことに、トールは正直ほっとしていた。
[これから、どうする?]
中庭に面したサシャの部屋の前に置かれている簡素な椅子に腰を下ろしたサシャの血の気が見えない頬に、小さく言葉を紡ぐ。星読みの塔での夜通しの観測は、身体の弱いサシャには酷。だが、サシャは音を上げない。せめて、塔から戻ってきた後はゆっくりと休んでほしいが、昼夜の生活のリズムを逆転させないよう、星読みの長でサシャを指導しているギュンター博士は、星読みの塔から白竜騎士団の自分の部屋に戻っても夕方までベッドに入らないよう、サシャに言っている。
「図書館、に」
希望を小さく口にしたサシャが、唇を閉じて俯く。
星読み達が観測したデータで古いものは、帝都の大学教授用図書館の地下に収められている。北向の神帝候補になっているサシャは、教授用図書館に自由に出入りする許可を夏炉出身の神帝ティツィアーノからもらっている。何の気兼ねもなく星読みのデータを確認したり、稀覯本を読んだりすることができることは、サシャにとっては嬉しいこと、のはず。唇を震わせるサシャを見上げたトールの脳裡に浮かんだのは、サシャに馴れ馴れしく近づく影、南苑の神帝候補ディーデ。
「叔父上の『魔法』、見たことがあるそうだな」
初めて教授用図書館で出会った時、サシャを見るなりディーデが発した言葉が、トールの脳裡を過る。南苑の王太子の配偶者となったエルネストが警告していた少年ディーデは、『本』であるトールを破壊し、サシャを無理矢理配偶者にしようとした東雲の前の王配殿下リーンの甥に当たることを一人と一冊が知ったのは、図書館にあった王家の系図を紐解いた時。
「俺も、色々調べているんだが、……叔父上は、『永遠を得る方法』、知ってたか?」
サシャが図書館に行く度に、ディーデは馴れ馴れしくサシャにつきまとい、『魔法』のことや叔父であるリーン王配殿下のことを訊いてくる。避けようとしても、帝都が保管する数少ない『魔法』の本が置かれている場所と、サシャに必要な星読みのデータが置かれている場所は両方とも地下階にあるのでなかなか振り払うことができない。『魔法』の恐ろしさと、リーン殿下の魔法の結果の哀しさは、忘れようとしても忘れられない。辛い記憶を呼び覚ましてしまうディーデの言動を、サシャも避けたいと思っているのだろう。
ディーデのことは、誰かに相談した方が良いのだろう。サシャの沈んだ瞳の色に、思考を巡らす。しかし誰に相談すれば良いのだろう? サシャと共に帝都に来たエルネストは、南苑に戻った。星読みの長ザハリアーシュは、衰退した夏炉の星読みを立て直すと言っていた。黒竜騎士団の人々は、前の神帝猊下ヴィリバルトの葬儀の後、神帝ティツィアーノ猊下から許可を得て、僅かな人員を帝都に残し、帝華の東側にある騎士団領で休暇を取っている。アラン教授は、ヴィリバルトのことを綴った手紙を北辺の修道院へ送ったが、音沙汰が無い。サシャに武術を教えてくれた青年グイドは、神帝公邸でティツィアーノの手伝いをしている。夏炉の王リエトの依頼で帝都に来ているらしいが、忙しそうだ。それが、一度だけ公邸でグイドと話した一人と一冊の感想。
今、サシャが頼れるのは、法学教授マクシムの内弟子として帝都で法学を学んでいるカジミールだけ。そして、カジミールを巻き込むことに、サシャは難色を示している。今は北向の若王となっているセルジュからあらましは聞いているだろうし、秋都でサシャを助けてくれたことを考えると、今回も、カジミールは何も言わずにサシャを助けてくれると思う。カジミールに会ったら、ディーデのことを相談してみるよう、サシャを説得しよう。そこまで考えたトールの耳に響いたのは、大量の水が派手にひっくり返る音。
聞こえてきた、水の跳ねる音に、思わず幻の声を上げる。
帝都の北郊外にある『星読みの塔』に一番近いという理由で、北向の神帝候補として帝都に滞在しているサシャは現在、かつて肩身の狭い思いをした白竜騎士団の守人見習い用の宿舎に寄宿している。宿舎の人影は、サシャが見習いをしていた頃より疎ら。雰囲気も、どこかだれているようにトールには感じられる。サシャがここに寄宿して二週間あまり経つが、宿舎を掃除する者も、宿舎の端にある井戸付きの土間で服を洗濯する者も見たことがない。
「誰か、洗濯してる?」
サシャも「珍しい」と感じたのだろう。疲れた顔を宿舎端の土間の方へと向ける。だが、サシャに宛がわれた部屋近辺からは、土間方面は死角になっている。誰かは分からないが、真面目な見習いもいる。そのことに、トールは正直ほっとしていた。
[これから、どうする?]
中庭に面したサシャの部屋の前に置かれている簡素な椅子に腰を下ろしたサシャの血の気が見えない頬に、小さく言葉を紡ぐ。星読みの塔での夜通しの観測は、身体の弱いサシャには酷。だが、サシャは音を上げない。せめて、塔から戻ってきた後はゆっくりと休んでほしいが、昼夜の生活のリズムを逆転させないよう、星読みの長でサシャを指導しているギュンター博士は、星読みの塔から白竜騎士団の自分の部屋に戻っても夕方までベッドに入らないよう、サシャに言っている。
「図書館、に」
希望を小さく口にしたサシャが、唇を閉じて俯く。
星読み達が観測したデータで古いものは、帝都の大学教授用図書館の地下に収められている。北向の神帝候補になっているサシャは、教授用図書館に自由に出入りする許可を夏炉出身の神帝ティツィアーノからもらっている。何の気兼ねもなく星読みのデータを確認したり、稀覯本を読んだりすることができることは、サシャにとっては嬉しいこと、のはず。唇を震わせるサシャを見上げたトールの脳裡に浮かんだのは、サシャに馴れ馴れしく近づく影、南苑の神帝候補ディーデ。
「叔父上の『魔法』、見たことがあるそうだな」
初めて教授用図書館で出会った時、サシャを見るなりディーデが発した言葉が、トールの脳裡を過る。南苑の王太子の配偶者となったエルネストが警告していた少年ディーデは、『本』であるトールを破壊し、サシャを無理矢理配偶者にしようとした東雲の前の王配殿下リーンの甥に当たることを一人と一冊が知ったのは、図書館にあった王家の系図を紐解いた時。
「俺も、色々調べているんだが、……叔父上は、『永遠を得る方法』、知ってたか?」
サシャが図書館に行く度に、ディーデは馴れ馴れしくサシャにつきまとい、『魔法』のことや叔父であるリーン王配殿下のことを訊いてくる。避けようとしても、帝都が保管する数少ない『魔法』の本が置かれている場所と、サシャに必要な星読みのデータが置かれている場所は両方とも地下階にあるのでなかなか振り払うことができない。『魔法』の恐ろしさと、リーン殿下の魔法の結果の哀しさは、忘れようとしても忘れられない。辛い記憶を呼び覚ましてしまうディーデの言動を、サシャも避けたいと思っているのだろう。
ディーデのことは、誰かに相談した方が良いのだろう。サシャの沈んだ瞳の色に、思考を巡らす。しかし誰に相談すれば良いのだろう? サシャと共に帝都に来たエルネストは、南苑に戻った。星読みの長ザハリアーシュは、衰退した夏炉の星読みを立て直すと言っていた。黒竜騎士団の人々は、前の神帝猊下ヴィリバルトの葬儀の後、神帝ティツィアーノ猊下から許可を得て、僅かな人員を帝都に残し、帝華の東側にある騎士団領で休暇を取っている。アラン教授は、ヴィリバルトのことを綴った手紙を北辺の修道院へ送ったが、音沙汰が無い。サシャに武術を教えてくれた青年グイドは、神帝公邸でティツィアーノの手伝いをしている。夏炉の王リエトの依頼で帝都に来ているらしいが、忙しそうだ。それが、一度だけ公邸でグイドと話した一人と一冊の感想。
今、サシャが頼れるのは、法学教授マクシムの内弟子として帝都で法学を学んでいるカジミールだけ。そして、カジミールを巻き込むことに、サシャは難色を示している。今は北向の若王となっているセルジュからあらましは聞いているだろうし、秋都でサシャを助けてくれたことを考えると、今回も、カジミールは何も言わずにサシャを助けてくれると思う。カジミールに会ったら、ディーデのことを相談してみるよう、サシャを説得しよう。そこまで考えたトールの耳に響いたのは、大量の水が派手にひっくり返る音。
0
お気に入りに追加
14
あなたにおすすめの小説
【完結】悪役令嬢に転生したけど、王太子妃にならない方が幸せじゃない?
みちこ
ファンタジー
12歳の時に前世の記憶を思い出し、自分が悪役令嬢なのに気が付いた主人公。
ずっと王太子に片思いしていて、将来は王太子妃になることしか頭になかった主人公だけど、前世の記憶を思い出したことで、王太子の何が良かったのか疑問に思うようになる
色々としがらみがある王太子妃になるより、このまま公爵家の娘として暮らす方が幸せだと気が付く
冷遇妻に家を売り払われていた男の裁判
七辻ゆゆ
ファンタジー
婚姻後すぐに妻を放置した男が二年ぶりに帰ると、家はなくなっていた。
「では開廷いたします」
家には10億の価値があったと主張し、妻に離縁と損害賠償を求める男。妻の口からは二年の事実が語られていく。
政略結婚の約束すら守ってもらえませんでした。
克全
恋愛
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。
「すまない、やっぱり君の事は抱けない」初夜のベットの中で、恋焦がれた初恋の人にそう言われてしまいました。私の心は砕け散ってしまいました。初恋の人が妹を愛していると知った時、妹が死んでしまって、政略結婚でいいから結婚して欲しいと言われた時、そして今。三度もの痛手に私の心は耐えられませんでした。
余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました
結城芙由奈
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】
私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。
2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます
*「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
※2023年8月 書籍化
婚約破棄の後始末 ~息子よ、貴様何をしてくれってんだ!
タヌキ汁
ファンタジー
国一番の権勢を誇る公爵家の令嬢と政略結婚が決められていた王子。だが政略結婚を嫌がり、自分の好き相手と結婚する為に取り巻き達と共に、公爵令嬢に冤罪をかけ婚約破棄をしてしまう、それが国を揺るがすことになるとも思わずに。
これは馬鹿なことをやらかした息子を持つ父親達の嘆きの物語である。
【完結】言いたいことがあるなら言ってみろ、と言われたので遠慮なく言ってみた
杜野秋人
ファンタジー
社交シーズン最後の大晩餐会と舞踏会。そのさなか、第三王子が突然、婚約者である伯爵家令嬢に婚約破棄を突き付けた。
なんでも、伯爵家令嬢が婚約者の地位を笠に着て、第三王子の寵愛する子爵家令嬢を虐めていたというのだ。
婚約者は否定するも、他にも次々と証言や証人が出てきて黙り込み俯いてしまう。
勝ち誇った王子は、最後にこう宣言した。
「そなたにも言い分はあろう。私は寛大だから弁明の機会をくれてやる。言いたいことがあるなら言ってみろ」
その一言が、自らの破滅を呼ぶことになるなど、この時彼はまだ気付いていなかった⸺!
◆例によって設定ナシの即興作品です。なので主人公の伯爵家令嬢以外に固有名詞はありません。頭カラッポにしてゆるっとお楽しみ下さい。
婚約破棄ものですが恋愛はありません。もちろん元サヤもナシです。
◆全6話、約15000字程度でサラッと読めます。1日1話ずつ更新。
◆この物語はアルファポリスのほか、小説家になろうでも公開します。
◆9/29、HOTランキング入り!お読み頂きありがとうございます!
10/1、HOTランキング最高6位、人気ランキング11位、ファンタジーランキング1位!24h.pt瞬間最大11万4000pt!いずれも自己ベスト!ありがとうございます!
旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます
結城芙由奈
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】
ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。
【完結】実家に捨てられた私は侯爵邸に拾われ、使用人としてのんびりとスローライフを満喫しています〜なお、実家はどんどん崩壊しているようです〜
よどら文鳥
恋愛
フィアラの父は、再婚してから新たな妻と子供だけの生活を望んでいたため、フィアラは邪魔者だった。
フィアラは毎日毎日、家事だけではなく父の仕事までも強制的にやらされる毎日である。
だがフィアラが十四歳になったとある日、長く奴隷生活を続けていたデジョレーン子爵邸から抹消される運命になる。
侯爵がフィアラを除名したうえで専属使用人として雇いたいという申し出があったからだ。
金銭面で余裕のないデジョレーン子爵にとってはこのうえない案件であったため、フィアラはゴミのように捨てられた。
父の発言では『侯爵一家は非常に悪名高く、さらに過酷な日々になるだろう』と宣言していたため、フィアラは不安なまま侯爵邸へ向かう。
だが侯爵邸で待っていたのは過酷な毎日ではなくむしろ……。
いっぽう、フィアラのいなくなった子爵邸では大金が入ってきて全員が大喜び。
さっそくこの大金を手にして新たな使用人を雇う。
お金にも困らずのびのびとした生活ができるかと思っていたのだが、現実は……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる