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第七章 東の理

7.41 『楽園』へ

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 真っ暗な空間に蠢いた大柄な影に、痛む瞼を上げる。

 僅かな星明かりの下に見えたのは、ベッドの上で微動だにしないサシャを見下ろす、リーンハルトの沈んだ蒼色の瞳。何を、するつもりだ? 身構えたトールが無造作に入れられているサシャのエプロンのポケットが、ふわりと上に上がる。そのふわりとした感覚のまま、サシャのエプロンはリーンハルトの手によってサシャの胸の上に着地した。

 トールの上に置かれたサシャの温度の無い腕に、全身が総毛立つ。再び視界が持ち上がった次の瞬間には、一人と一冊の身体はリーンハルトの腕の中に収まっていた。

「済まない、サシャ」

 沈痛を帯びたリーンハルトの声が、痛む耳に響く。

 ぐったりとしたサシャの身体を横抱きにしたまま、リーンハルトは真っ暗な自室を出、灯りの無い廊下を迷いなく進むと、夜の所為か見張りがいなくなっている台所横の勝手口を通り砦の外に出た。

 僅かな星の瞬きが、目の前に聳える山々の険しさを強調する。どこへ、行くつもりだ。トールが首を傾げる前に、台所で壁から外したロープでサシャを自分の背中に縛り付けたリーンハルトは迷うことなく、東雲しののめの東の国境を成す険しい山々へと分け入った。逃げるつもりなら、この方向は違う。……まさか。サシャの胸の冷たさと、リーンハルトの背中の熱さが同時にトールを襲う。まさか、リーンハルトは、『楽園』があるという、この山脈の向こうに行こうというのか? 自分を犠牲にして、リーンハルトの内部に寄生したリーン王配殿下を葬るために。しかし何故、その死出の旅路に、サシャを連れていく必要がある? リーン王配殿下は、サシャに執着を示していた。おそらく、リーンハルトの身体と精神を完全に乗っ取ろうと隙を覗っているリーン王配殿下を油断させるために、リーンハルトはサシャを餌にしているのだろう。破られた身体に渦巻いた怒りに、トールは幻の足でリーンハルトの背を蹴った。リーンハルトとリーン王配殿下との軋轢は、サシャには関係の無いこと。サシャを巻き込まないでくれ。トールの懇願は、しかしやはり、雪と岩肌しか見えない険しい道を進むリーンハルトには届かなかった。

 どのくらい、リーンハルトの背を幻の足で蹴り続けていただろうか。不意に開けた視界に、何度も瞬く。峠に辿り着いたのだろう。サシャを背中から下ろしたリーンハルトは、再びサシャを自分の腕の中に抱き締めた。

「リーン」

 王配殿下の、自身の母の名を呼ぶリーンハルトの声が、風に飛ばされる。

「楽園が、見えるか? リーン」

 はためいたサシャのエプロンの向こうに見えるのは、雲と、やはり峻険な山々だけ。これが、『楽園』? 胸の詰まりに、トールは叫び声をようやく堪えた。『楽園』なんて、どこにも……。

 そこまで考えたトールの視界が、一瞬、宙に浮く。次に見えたのは、真っ逆さまに落ちていくリーンハルトと、同じ速さで落ちていく、リーンハルトの腕から離れたサシャの力の無い身体。

[サシャ!]

 トールの周りの風景が、山肌と霧から賑やかなネオン街へと変わる。リーンハルトとリーン、どちらかが『転生者』だった? 言葉が出ないトールの身体が、不意に、温かいものに包まれる。

[サシャ?]

 ネオン街は、元の灰色の山肌と霧に戻っている。

 落ち続けるサシャの腕に抱き締められたトールの視界は、しかし不意に暗くなった。
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