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第六章 西からの風

6.36 黒い犬と暮らす人

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〈……?〉

 唇を噛み締めたトールの視界下方に見えた黒い影に、視線を下に移す。サシャの左脇腹辺りで細い尻尾を振っていたのは、小さな耳を垂らした胴の長い黒犬。

「犬? いつの間に?」

 蝋板から犬の方に視線を移したカジミールが、サシャの方しか見ていない犬に首を傾げる。

 北辺ほくへんでも北都ほくとでも、犬は、見なかったような気がする。サシャと過ごしたこれまでのことを反芻する。貴族は狩猟用あるいは盗賊対策で犬を飼っていると、これまでに読んだ本には書かれていたから、おそらく北向きたむくの王子セルジュは犬を飼っていたのかもしれない。帝都ていと黒竜こくりゅう騎士団の詰所の通用門にはケンと呼ばれていた大きな犬が寝そべっていたが、小さなサシャは取るに足らない存在だと思っていたのだろう、一人と一冊が黒竜騎士団を出入りしていても身動き一つしなかった。

「大人しい犬がいる、ということは、飼い主もいるってことだよな」

 カジミールの前向きな推測に、そっと辺りを見回す。だが、カジミールの言葉に反し、人影は、欠片も見えない。道を隔てて崖下の川を避けるように育っている森の木々が、不意の風に揺れているだけ。

「もう少し推理すると、この犬、サシャに撫でてもらいたがっている」

「え……?」

 更なるカジミールの言葉に、サシャの声が裏返る。

「か、カジミールの手の方が、大きくて、温かい、と」

「まあそれは好みの問題だと思う」

「その通りだ」

 カジミールに続いて聞こえてきた知らない声に、トールは思わず飛び上がった。

「ここで何をしている」

 敵対的には聞こえない声に、顔を上げる。

 サシャとカジミールの前に居たのは、毛皮を無造作に羽織った、小山のように大きな影だった。

「あ、の……」

 トールと同じように小山のような影を見上げたサシャが、唇を横に引き結ぶ。

「この川の上流にある、友達のお墓に、謝りに」

 続いてサシャの口から漏れたのは、涙を含んだ声。

 ドラド川の上流へ行く目的は、なるべく隠した方が良い。特に、作物の不作や海の不漁、そして海沿いの漁師達の病気の原因がドラド川の上流にあるのではないかという仮定は、誰にも話さない方が良い。サシャに拷問を加えた津都つとの太守ロレンシオを警戒するホセの声を思い出す。だが、嘘だけをついていてもすぐにばれる。だから『調査』のこと以外は本当のことを話せ。ホセの助言を守るサシャに、トールは大きく頷いた。

「あ、あの村か」

 小さな声になってしまったサシャの言葉を聞き取った小山のような影が、登り坂になっている道の先にある寒々とした山々を見上げる。

「鉱山で働けそうな奴以外の余所者は入り口で追い返されるぞ」

 次に響いた、ある意味予想がついていた言葉に、一人と一冊は同時に肩を落とした。

「俺も、川の水と土砂の件で何があったのか聞きに行ったが、見事に追い返された」

「そう、ですか……」

 俯いてしまったサシャを案じるようにサシャの膝に前足をかけた黒犬と目が合う。

「ペロが案じているからな」

 サシャを見、そして小山のような影の方へと視線を移した黒犬に、小山のような影が大きく笑った。

「今日は俺の家に泊まって、明日、特別に裏道を教えてやっても良い」

「え……」

 小山のような影の申し出に、思わず顔を上げる。

「あ、ありがとうございます」

「良いってことよ」

 俺の名はナシオ。気安く名乗った小山のような影に、サシャとカジミールも自分の名を名乗る。これで、今日の野宿は無くなった。サシャのために、トールはほっと安堵の息を吐いた。
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