210 / 351
第六章 西からの風
6.36 黒い犬と暮らす人
しおりを挟む
〈……?〉
唇を噛み締めたトールの視界下方に見えた黒い影に、視線を下に移す。サシャの左脇腹辺りで細い尻尾を振っていたのは、小さな耳を垂らした胴の長い黒犬。
「犬? いつの間に?」
蝋板から犬の方に視線を移したカジミールが、サシャの方しか見ていない犬に首を傾げる。
北辺でも北都でも、犬は、見なかったような気がする。サシャと過ごしたこれまでのことを反芻する。貴族は狩猟用あるいは盗賊対策で犬を飼っていると、これまでに読んだ本には書かれていたから、おそらく北向の王子セルジュは犬を飼っていたのかもしれない。帝都の黒竜騎士団の詰所の通用門にはケンと呼ばれていた大きな犬が寝そべっていたが、小さなサシャは取るに足らない存在だと思っていたのだろう、一人と一冊が黒竜騎士団を出入りしていても身動き一つしなかった。
「大人しい犬がいる、ということは、飼い主もいるってことだよな」
カジミールの前向きな推測に、そっと辺りを見回す。だが、カジミールの言葉に反し、人影は、欠片も見えない。道を隔てて崖下の川を避けるように育っている森の木々が、不意の風に揺れているだけ。
「もう少し推理すると、この犬、サシャに撫でてもらいたがっている」
「え……?」
更なるカジミールの言葉に、サシャの声が裏返る。
「か、カジミールの手の方が、大きくて、温かい、と」
「まあそれは好みの問題だと思う」
「その通りだ」
カジミールに続いて聞こえてきた知らない声に、トールは思わず飛び上がった。
「ここで何をしている」
敵対的には聞こえない声に、顔を上げる。
サシャとカジミールの前に居たのは、毛皮を無造作に羽織った、小山のように大きな影だった。
「あ、の……」
トールと同じように小山のような影を見上げたサシャが、唇を横に引き結ぶ。
「この川の上流にある、友達のお墓に、謝りに」
続いてサシャの口から漏れたのは、涙を含んだ声。
ドラド川の上流へ行く目的は、なるべく隠した方が良い。特に、作物の不作や海の不漁、そして海沿いの漁師達の病気の原因がドラド川の上流にあるのではないかという仮定は、誰にも話さない方が良い。サシャに拷問を加えた津都の太守ロレンシオを警戒するホセの声を思い出す。だが、嘘だけをついていてもすぐにばれる。だから『調査』のこと以外は本当のことを話せ。ホセの助言を守るサシャに、トールは大きく頷いた。
「あ、あの村か」
小さな声になってしまったサシャの言葉を聞き取った小山のような影が、登り坂になっている道の先にある寒々とした山々を見上げる。
「鉱山で働けそうな奴以外の余所者は入り口で追い返されるぞ」
次に響いた、ある意味予想がついていた言葉に、一人と一冊は同時に肩を落とした。
「俺も、川の水と土砂の件で何があったのか聞きに行ったが、見事に追い返された」
「そう、ですか……」
俯いてしまったサシャを案じるようにサシャの膝に前足をかけた黒犬と目が合う。
「ペロが案じているからな」
サシャを見、そして小山のような影の方へと視線を移した黒犬に、小山のような影が大きく笑った。
「今日は俺の家に泊まって、明日、特別に裏道を教えてやっても良い」
「え……」
小山のような影の申し出に、思わず顔を上げる。
「あ、ありがとうございます」
「良いってことよ」
俺の名はナシオ。気安く名乗った小山のような影に、サシャとカジミールも自分の名を名乗る。これで、今日の野宿は無くなった。サシャのために、トールはほっと安堵の息を吐いた。
唇を噛み締めたトールの視界下方に見えた黒い影に、視線を下に移す。サシャの左脇腹辺りで細い尻尾を振っていたのは、小さな耳を垂らした胴の長い黒犬。
「犬? いつの間に?」
蝋板から犬の方に視線を移したカジミールが、サシャの方しか見ていない犬に首を傾げる。
北辺でも北都でも、犬は、見なかったような気がする。サシャと過ごしたこれまでのことを反芻する。貴族は狩猟用あるいは盗賊対策で犬を飼っていると、これまでに読んだ本には書かれていたから、おそらく北向の王子セルジュは犬を飼っていたのかもしれない。帝都の黒竜騎士団の詰所の通用門にはケンと呼ばれていた大きな犬が寝そべっていたが、小さなサシャは取るに足らない存在だと思っていたのだろう、一人と一冊が黒竜騎士団を出入りしていても身動き一つしなかった。
「大人しい犬がいる、ということは、飼い主もいるってことだよな」
カジミールの前向きな推測に、そっと辺りを見回す。だが、カジミールの言葉に反し、人影は、欠片も見えない。道を隔てて崖下の川を避けるように育っている森の木々が、不意の風に揺れているだけ。
「もう少し推理すると、この犬、サシャに撫でてもらいたがっている」
「え……?」
更なるカジミールの言葉に、サシャの声が裏返る。
「か、カジミールの手の方が、大きくて、温かい、と」
「まあそれは好みの問題だと思う」
「その通りだ」
カジミールに続いて聞こえてきた知らない声に、トールは思わず飛び上がった。
「ここで何をしている」
敵対的には聞こえない声に、顔を上げる。
サシャとカジミールの前に居たのは、毛皮を無造作に羽織った、小山のように大きな影だった。
「あ、の……」
トールと同じように小山のような影を見上げたサシャが、唇を横に引き結ぶ。
「この川の上流にある、友達のお墓に、謝りに」
続いてサシャの口から漏れたのは、涙を含んだ声。
ドラド川の上流へ行く目的は、なるべく隠した方が良い。特に、作物の不作や海の不漁、そして海沿いの漁師達の病気の原因がドラド川の上流にあるのではないかという仮定は、誰にも話さない方が良い。サシャに拷問を加えた津都の太守ロレンシオを警戒するホセの声を思い出す。だが、嘘だけをついていてもすぐにばれる。だから『調査』のこと以外は本当のことを話せ。ホセの助言を守るサシャに、トールは大きく頷いた。
「あ、あの村か」
小さな声になってしまったサシャの言葉を聞き取った小山のような影が、登り坂になっている道の先にある寒々とした山々を見上げる。
「鉱山で働けそうな奴以外の余所者は入り口で追い返されるぞ」
次に響いた、ある意味予想がついていた言葉に、一人と一冊は同時に肩を落とした。
「俺も、川の水と土砂の件で何があったのか聞きに行ったが、見事に追い返された」
「そう、ですか……」
俯いてしまったサシャを案じるようにサシャの膝に前足をかけた黒犬と目が合う。
「ペロが案じているからな」
サシャを見、そして小山のような影の方へと視線を移した黒犬に、小山のような影が大きく笑った。
「今日は俺の家に泊まって、明日、特別に裏道を教えてやっても良い」
「え……」
小山のような影の申し出に、思わず顔を上げる。
「あ、ありがとうございます」
「良いってことよ」
俺の名はナシオ。気安く名乗った小山のような影に、サシャとカジミールも自分の名を名乗る。これで、今日の野宿は無くなった。サシャのために、トールはほっと安堵の息を吐いた。
0
お気に入りに追加
14
あなたにおすすめの小説
【完結】悪役令嬢に転生したけど、王太子妃にならない方が幸せじゃない?
みちこ
ファンタジー
12歳の時に前世の記憶を思い出し、自分が悪役令嬢なのに気が付いた主人公。
ずっと王太子に片思いしていて、将来は王太子妃になることしか頭になかった主人公だけど、前世の記憶を思い出したことで、王太子の何が良かったのか疑問に思うようになる
色々としがらみがある王太子妃になるより、このまま公爵家の娘として暮らす方が幸せだと気が付く
冷遇妻に家を売り払われていた男の裁判
七辻ゆゆ
ファンタジー
婚姻後すぐに妻を放置した男が二年ぶりに帰ると、家はなくなっていた。
「では開廷いたします」
家には10億の価値があったと主張し、妻に離縁と損害賠償を求める男。妻の口からは二年の事実が語られていく。
政略結婚の約束すら守ってもらえませんでした。
克全
恋愛
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。
「すまない、やっぱり君の事は抱けない」初夜のベットの中で、恋焦がれた初恋の人にそう言われてしまいました。私の心は砕け散ってしまいました。初恋の人が妹を愛していると知った時、妹が死んでしまって、政略結婚でいいから結婚して欲しいと言われた時、そして今。三度もの痛手に私の心は耐えられませんでした。
他国から来た王妃ですが、冷遇? 私にとっては厚遇すぎます!
七辻ゆゆ
ファンタジー
人質同然でやってきたというのに、出されるご飯は母国より美味しいし、嫌味な上司もいないから掃除洗濯毎日楽しいのですが!?
余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました
結城芙由奈
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】
私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。
2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます
*「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
※2023年8月 書籍化
婚約破棄の後始末 ~息子よ、貴様何をしてくれってんだ!
タヌキ汁
ファンタジー
国一番の権勢を誇る公爵家の令嬢と政略結婚が決められていた王子。だが政略結婚を嫌がり、自分の好き相手と結婚する為に取り巻き達と共に、公爵令嬢に冤罪をかけ婚約破棄をしてしまう、それが国を揺るがすことになるとも思わずに。
これは馬鹿なことをやらかした息子を持つ父親達の嘆きの物語である。
【完結】言いたいことがあるなら言ってみろ、と言われたので遠慮なく言ってみた
杜野秋人
ファンタジー
社交シーズン最後の大晩餐会と舞踏会。そのさなか、第三王子が突然、婚約者である伯爵家令嬢に婚約破棄を突き付けた。
なんでも、伯爵家令嬢が婚約者の地位を笠に着て、第三王子の寵愛する子爵家令嬢を虐めていたというのだ。
婚約者は否定するも、他にも次々と証言や証人が出てきて黙り込み俯いてしまう。
勝ち誇った王子は、最後にこう宣言した。
「そなたにも言い分はあろう。私は寛大だから弁明の機会をくれてやる。言いたいことがあるなら言ってみろ」
その一言が、自らの破滅を呼ぶことになるなど、この時彼はまだ気付いていなかった⸺!
◆例によって設定ナシの即興作品です。なので主人公の伯爵家令嬢以外に固有名詞はありません。頭カラッポにしてゆるっとお楽しみ下さい。
婚約破棄ものですが恋愛はありません。もちろん元サヤもナシです。
◆全6話、約15000字程度でサラッと読めます。1日1話ずつ更新。
◆この物語はアルファポリスのほか、小説家になろうでも公開します。
◆9/29、HOTランキング入り!お読み頂きありがとうございます!
10/1、HOTランキング最高6位、人気ランキング11位、ファンタジーランキング1位!24h.pt瞬間最大11万4000pt!いずれも自己ベスト!ありがとうございます!
旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます
結城芙由奈
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】
ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる