上 下
200 / 351
第六章 西からの風

6.26 かつての友人から、頼まれたこと①

しおりを挟む
 澱んだ空気が、微かに動く。

 朝には、まだなっていない。薄暗い空間に、トールは目を瞬かせた。サシャは、ぐったりと冷たい床に横たわったまま。

「……」

 サシャの横に膝をついた大柄な影を、睨む。津都つとの太守ロレンシオではないが、おそらく、ロレンシオの部下。ロレンシオの命令通り、サシャを「津都の市場の処刑台に放置」するために来たのだろう。自分は、……何もできない。悔しさに、トールは無意識に奥歯を噛んでいた。

 身動き一つしないサシャの髪に手を伸ばした大柄な影が、羽織っていたマントをサシャに被せる。

「……サシャ」

 その動作と、狭い空間に響いた声に、トールは、脳の奥底に放り投げていた記憶を探った。この声には、……聞き覚えがある。

「『祈祷書』も」

 大きなマントで小さなサシャの身体を優しく包んだ大柄な影、バジャルドが、床に転がっていたトールをその大きな手で掴む。サシャの胸の上にトールを置くと、バジャルドはトールごとサシャを抱き上げた。

 何故、バジャルドがここにいるのだろう。眠るサシャの鼓動を確かめ、暗すぎて表情が見えないバジャルドの揺れる髪を見上げる。秋津あきつ出身で、文武両道を旨とする帝都ていと白竜はくりゅう騎士団において誰もが認める『守人もりと候補』だったバジャルドだから、故郷に戻った後、秋津の権力者である津都の太守に仕えているのは自然なこと、なのだろう。だが。……何故バジャルドは、サシャを助ける? いや。サシャを横抱きにしたまま、砦の階段を延々と降りていくバジャルドを睨む。助けてくれるとは限らない。古代の神々を信じる教授に生贄にされかけ、結果として亡くなってしまったバジャルドの弟ブラスの遺体を白竜騎士団の詰所まで運んだ時の、怒りに満ちたバジャルドの瞳と、不意の攻撃で尻餅をついた一人と一冊のギリギリ真横の地面に突き刺さった剣の鋭さを、トールはまざまざと思い出していた。神帝じんていを守護する白竜騎士団の『守人』を愚直に務めていたバジャルドだから、新たな主人である津都の太守に逆らうことは、おそらく、……無い。

 力が抜けたトールの視界に、柔らかい白色をした靄が入る。『星の河ほしのかわ』へと続く、桟橋。辺りの景色を認識する前に、一人と一冊はバジャルドの手によって優しく船底へ横たえられた。

「坊ちゃま」

 バジャルドの従者らしい、節くれ立った手に櫓を握った老人が、バジャルドに向かって頭を下げる。

「行きますか」

「頼む」

 風は凪いでいるので、帆を使う必要はないでしょう。老人の言葉と共に、船はゆっくりと、水面を滑り始めた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】悪役令嬢に転生したけど、王太子妃にならない方が幸せじゃない?

みちこ
ファンタジー
12歳の時に前世の記憶を思い出し、自分が悪役令嬢なのに気が付いた主人公。 ずっと王太子に片思いしていて、将来は王太子妃になることしか頭になかった主人公だけど、前世の記憶を思い出したことで、王太子の何が良かったのか疑問に思うようになる 色々としがらみがある王太子妃になるより、このまま公爵家の娘として暮らす方が幸せだと気が付く

冷遇妻に家を売り払われていた男の裁判

七辻ゆゆ
ファンタジー
婚姻後すぐに妻を放置した男が二年ぶりに帰ると、家はなくなっていた。 「では開廷いたします」 家には10億の価値があったと主張し、妻に離縁と損害賠償を求める男。妻の口からは二年の事実が語られていく。

政略結婚の約束すら守ってもらえませんでした。

克全
恋愛
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 「すまない、やっぱり君の事は抱けない」初夜のベットの中で、恋焦がれた初恋の人にそう言われてしまいました。私の心は砕け散ってしまいました。初恋の人が妹を愛していると知った時、妹が死んでしまって、政略結婚でいいから結婚して欲しいと言われた時、そして今。三度もの痛手に私の心は耐えられませんでした。

余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました

結城芙由奈 
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】 私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。 2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます *「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています ※2023年8月 書籍化

婚約破棄の後始末 ~息子よ、貴様何をしてくれってんだ! 

タヌキ汁
ファンタジー
 国一番の権勢を誇る公爵家の令嬢と政略結婚が決められていた王子。だが政略結婚を嫌がり、自分の好き相手と結婚する為に取り巻き達と共に、公爵令嬢に冤罪をかけ婚約破棄をしてしまう、それが国を揺るがすことになるとも思わずに。  これは馬鹿なことをやらかした息子を持つ父親達の嘆きの物語である。

旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます

結城芙由奈 
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】 ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。

【完結】実家に捨てられた私は侯爵邸に拾われ、使用人としてのんびりとスローライフを満喫しています〜なお、実家はどんどん崩壊しているようです〜

よどら文鳥
恋愛
 フィアラの父は、再婚してから新たな妻と子供だけの生活を望んでいたため、フィアラは邪魔者だった。  フィアラは毎日毎日、家事だけではなく父の仕事までも強制的にやらされる毎日である。  だがフィアラが十四歳になったとある日、長く奴隷生活を続けていたデジョレーン子爵邸から抹消される運命になる。  侯爵がフィアラを除名したうえで専属使用人として雇いたいという申し出があったからだ。  金銭面で余裕のないデジョレーン子爵にとってはこのうえない案件であったため、フィアラはゴミのように捨てられた。  父の発言では『侯爵一家は非常に悪名高く、さらに過酷な日々になるだろう』と宣言していたため、フィアラは不安なまま侯爵邸へ向かう。  だが侯爵邸で待っていたのは過酷な毎日ではなくむしろ……。  いっぽう、フィアラのいなくなった子爵邸では大金が入ってきて全員が大喜び。  さっそくこの大金を手にして新たな使用人を雇う。  お金にも困らずのびのびとした生活ができるかと思っていたのだが、現実は……。

愛していました。待っていました。でもさようなら。

彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。 やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。

処理中です...