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第六章 西からの風

6.25 津都の太守ロレンシオの傲慢

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 惨めなほどに真っ暗だった空間を、鋭い光が照らす。

[……サシャ!]

 申し訳程度に藁が敷かれた小さな空間に投げおかれたトールの横に倒れ込んできた小さな影に、トールは聞こえない叫び声を上げた。

[サシャ!]

「トー、ル……」

 『本』であるトールの叫びが聞こえたのだろう、僅かに頭を起こしたサシャの右手が、トールの方へと伸びる。その右手が水とは違う液体に濡れていることにトールが気付く前に、サシャはトールの前で右手を床に落とし、濡れていない左手でトールを弱々しく掴んだ。

「トール……」

 トールを引き寄せたサシャの、血の気の無い頬を、僅かな光で確かめる。サシャの右手を濡らしているのは、血。爪から指を染めている赤に、背中が強ばる。サシャの肩から床へと落ちているのも、血。背中にも、怪我を。……何をされた? 憤りを覚える前に、『本』であるトールは、サシャの冷たい左手から無理矢理引き剥がされた。

「『祈祷書』か」

 鞭の、硬い柄が、トールの表紙に冷たく当たる。

「名前が書いてある『祈祷書』を盗んで売り飛ばすと足がつくからな。我が部下達は頭が良い」

 昼間、サシャの首を鞭で締めて気絶させた張本人を、トールは強く睨んだ。こいつが、津都つとの太守ロレンシオ。気絶したサシャをこの砦へと運んでいく途中で耳にした馬上の会話を反芻する。おそらく、トールがこの部屋に投げ置かれている間、サシャは、……こいつに。

「……ヴィリバルト」

 怒りに燃えるトールを眺めていたロレンシオの指が、裏表紙側の見返しで止まる。

「やはりお前は、黒竜こくりゅう騎士団の間者」

 トールからサシャへと視線を落としたロレンシオは、一瞬の動作で、床に倒れ伏すサシャの脇腹を蹴った。

[サシャ!]

「……いいえ」

 叫んだトールの耳に、サシャの、呻くように否定する言葉が響く。

「強情な奴だな」

 もう一度、サシャを蹴ろうと足を少しだけ上げたロレンシオは、だがすぐに足を下ろした。

「まあ、鞭打ちと爪剥がしに耐えたことは褒めてやろう」

 鼻を鳴らし、微笑んだロレンシオの酷薄な表情に、トールの全身が固まる。

「ヴィリバルトに、もうすぐ死ぬ奴に忠誠を誓って何が楽しい」

 そして。次に響いた、ロレンシオの愚弄の言葉に、一人と一冊は同時にロレンシオを睨んだ。

「嘘ではないさ」

 口を開きかけたサシャに気付いたロレンシオが、陰惨な笑みを浮かべる。

「あいつは、東雲しののめの王族特有の病に罹っている。神帝じんていの侍医に確かめたからな」

 帝都ていとの医学教授レイナルドの名を上げたロレンシオに、トールは小さく唸った。レイナルド教授の弟子で、サシャに難癖を付けて帝都から追い出す直接原因を作ったエフライン教授は、秋津あきつ出身。このロレンシオと繋がっている可能性は、確かに、ある。

「次の神帝は、俺の弟」

 神帝ヴィリバルトに関するロレンシオの言葉は、事実かもしれない。俯いたトールの耳に、ロレンシオの傲慢な声が響く。

「弟は、俺には逆らえない」

 サシャの方も、ロレンシオの言葉に衝撃を受けてしまったのだろう。床に目を伏せたまま、身動き一つしない。

「金が出る山も見つけたしな」

 サシャは、大丈夫だろうか。目を閉じて、耳障りなロレンシオの声を頭から追い出そうと試みる。

「金と兵力があれば、古の帝国のように八都はちとを統一し、支配することも不可能ではない」

 その時。

「八都を、統一して、それで、……どうするのですか?」

 不意に響いた、静かな言葉に、ぽかんと口を開けてしまう。

「なっ?」

 ロレンシオの方も不意を突かれたらしい。不快な空間に、しばしの静寂が訪れた。

 確かに。サシャの言葉に頷きを返す。このロレンシオという奴、目的と野望が入れ替わっている。

「……面白い奴だな」

 トールが再びロレンシオの方を見る前に、哄笑が、狭い空間に響く。

「ここでなぶり殺すつもりだったが、気が変わった」

 そう言うと、ロレンシオはトールをサシャの方へと投げ、背後で松明を掲げる部下達の方へと顔を向けた

「こいつを、明日、津都の市場の処刑台に放置しろ」

 勢いよく床にぶつかった衝撃に呻くトールの耳に、あくまで残酷なロレンシオの声が響く。

「放置、ですか?」

「この傷だ。放っておいても、じきに惨めに死ぬ」

「分かりました」

〈そん、な……〉

 思考が、真っ白になる。

 おずおずと視線を移し見た、サシャの頬も、先程見た以上の鉛色に変わっていた。

 どう、すれば。ロレンシオが出て行った後の、真っ暗になった空間で精一杯考える。だが。……どのような策も、浮かんでこない。何もできない。自分の無力さに、トールは、身動き一つ示さないサシャに頭を下げた。
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