上 下
196 / 351
第六章 西からの風

6.22 調査計画

しおりを挟む
 夕刻の光が黒い雲に掻き消される前に、バリーが教えてくれた小さな廃墟を見つける。

 意外に雑草が少ない、しっかりした壁と屋根が残る乾いた石畳の空間に一人と一冊がその身を滑り込ませると同時に、屋根を叩く雨音がトールの幻の耳に響いた。

「やっぱり『星の河ほしのかわ』を遡って調べた方が良いよね」

[そうだな]

 薄暗いが雨には濡れない空間にその身を落ち着かせたサシャが、下ろした鞄の横でエプロンごとトールを抱き締める。

 『星の河』の水が、海峡の不漁と病の原因であるならば、水が流れる河沿いの田畑や村にも似たような傾向――作物の立ち枯れや、奇妙な病気――が出ているはず。『星の河』を遡りながらそれを調べていき、その傾向が無くなった場所のすぐ下流にある支流を遡れば、水に『毒』が流れ込む原因が分かるだろう。海峡に水を供給する河川は『星の河』以外にもいくつかあるが、ここは、バリーさんの言葉を信じよう。調査の計画は、すぐに練り上がった。だが。

[どうした?]

 普段とは異なるサシャの震えに、首を傾げる。

「うん……」

 トールの問いに、サシャはトールをぎゅっと抱き締めた。

北向きたむくまで行かないといけなくなったら、どうしよう」

 サシャが発した懸念に、小さく唸る。『星の河』の源は、サシャの故郷である北辺ほくへんにある。『星の河』は、サシャが誹謗中傷を受けた北都ほくとも通っている。万が一、『毒』の原因が秋津あきつ内に無ければ、北向へ、まだサシャへの怨嗟が止んでいないかもしれない北都へ行かなければならなくなる。更に、無い可能性の方が高いが、北辺に『毒』の原因があるとしたら、その地に暮らしている、サシャが親しんでいる人々は、サシャの叔父ユーグは、……どうすれば。

[そう言えば、さ]

 あることを思いだし、表紙に大きめの文字を並べる。

[カジミール、秋都あきとで勉強してるって話だったよな]

「うん」

 北都でサシャと共に学んでいた友人カジミールは、養父であるヒルベルトの尽力で、ヒルベルトの故郷である秋津の首都『秋都』に留学し、大学で学ぶために必要な自由七科の資格を取った。秋都には良い法学の教授がいないので、『星の河』の河口に位置する津都つとの大学に向かったが、津都の生活が合わず秋都に戻ったということは、サシャがまだ帝都にいた早春の頃に、サシャを匿ってくれていた帝都ていとの法学教授グスタフの許に出入りしていた、カジミールの親友で北向の王子でもあるセルジュが教えてくれた。

[カジミールなら、頼めば一緒に調査してくれるんじゃないかな]

 帝都で母と同じように勉学に励んでいた日々をサシャが思い出す前に、トール自身の考えを表紙に並べる。北向の都で、カジミールはサシャを幾度も庇ってくれた。困っている友人を見捨てるような奴ではない。中学生の時、サッカー部の顧問の許へ一緒に退部届を出しに行ってくれた伊藤いとうの、安心できる笑みを思い出し、トールは無意識に首を横に振っていた。

 想いを振り切るために、顔を上げる。

 薄暗い部屋の壁に開いた、細長い窓の向こうに見えたおぼろげな城壁に、トールの胸は何故か騒いだ。あの、城壁は、おそらく。帝都の学生用図書館でサシャと一緒に見つめた地図を、記憶から引っ張り出す。方向と大きさを考えると、あの城壁は、秋津の大都市『津都』のもの。

 大国である秋津には、『星の河』の中流に位置する『秋都』と河口の三角州上に作られた『津都』という二つの都がある。それぞれの都には『太守』と呼ばれる、王に並ぶ権限を持つ者が住み、都とその周辺を統治しているらしい。この世界の本から得た知識を引っ張り出す。津都の太守の名は、ロレンシオ。秋津の王の従弟の子供だと、トールが読んだ本には書いてあった。

「……あの癇癪持ちの津都の太守……」

 夏炉かろの少年王、リエトの兄が暗殺されたことを神帝じんていヴィリバルトに報告したラドヴァンの声が、不意にトールの脳裏に響く。帝都でも、南苑なんえんでも、津都の太守について良い噂を聞かなかった。あの場所には、行かない方が良いだろう。三角州横の丘の上に立っていると本には書いてあった、王城の尖塔らしき鋭い影を、小さく睨む。

「僕は、もう、寝るね」

 サシャの声に、はっとして思考を廃墟へと戻す。

 トールが思考している間に、サシャの方は、鞄に入っていた小さなビスケットを食べ終わり、羽織っていたマントを床に敷いていた。

「おやすみ」

[ああ]

 懸念と決意を同時に見せるサシャの蒼白い頬に、小さく頷く。

 濡れないよう、脱いだエプロンをトールに緩く被せた上で鞄の上にトールを乗せたサシャは、小柄なサシャには少し大きいマントに身を包んだ。

 すぐに、安らかな寝息が、トールの耳に響く。

 いつもながら、寝付きが良い。どんな場所でもすぐに眠ることができるサシャの能力に小さく微笑む。そのサシャの寝息と、段々と弱くなっていく雨音を聞きながら、トールもいつの間にか眠りに落ちていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】悪役令嬢に転生したけど、王太子妃にならない方が幸せじゃない?

みちこ
ファンタジー
12歳の時に前世の記憶を思い出し、自分が悪役令嬢なのに気が付いた主人公。 ずっと王太子に片思いしていて、将来は王太子妃になることしか頭になかった主人公だけど、前世の記憶を思い出したことで、王太子の何が良かったのか疑問に思うようになる 色々としがらみがある王太子妃になるより、このまま公爵家の娘として暮らす方が幸せだと気が付く

冷遇妻に家を売り払われていた男の裁判

七辻ゆゆ
ファンタジー
婚姻後すぐに妻を放置した男が二年ぶりに帰ると、家はなくなっていた。 「では開廷いたします」 家には10億の価値があったと主張し、妻に離縁と損害賠償を求める男。妻の口からは二年の事実が語られていく。

政略結婚の約束すら守ってもらえませんでした。

克全
恋愛
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 「すまない、やっぱり君の事は抱けない」初夜のベットの中で、恋焦がれた初恋の人にそう言われてしまいました。私の心は砕け散ってしまいました。初恋の人が妹を愛していると知った時、妹が死んでしまって、政略結婚でいいから結婚して欲しいと言われた時、そして今。三度もの痛手に私の心は耐えられませんでした。

余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました

結城芙由奈 
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】 私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。 2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます *「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています ※2023年8月 書籍化

【完結】男爵令嬢は冒険者生活を満喫する

影清
ファンタジー
英雄の両親を持つ男爵令嬢のサラは、十歳の頃から冒険者として活動している。優秀な両親、優秀な兄に恥じない娘であろうと努力するサラの前に、たくさんのメイドや護衛に囲まれた侯爵令嬢が現れた。「卒業イベントまでに、立派な冒険者になっておきたいの」。一人でも生きていけるようにだとか、追放なんてごめんだわなど、意味の分からぬことを言う令嬢と関わりたくないサラだが、同じ学園に入学することになって――。 ※残酷な描写は予告なく出てきます。 ※小説家になろう、アルファポリス、カクヨムに掲載中です。 ※106話完結。

婚約破棄の後始末 ~息子よ、貴様何をしてくれってんだ! 

タヌキ汁
ファンタジー
 国一番の権勢を誇る公爵家の令嬢と政略結婚が決められていた王子。だが政略結婚を嫌がり、自分の好き相手と結婚する為に取り巻き達と共に、公爵令嬢に冤罪をかけ婚約破棄をしてしまう、それが国を揺るがすことになるとも思わずに。  これは馬鹿なことをやらかした息子を持つ父親達の嘆きの物語である。

旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます

結城芙由奈 
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】 ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。

【完結】実家に捨てられた私は侯爵邸に拾われ、使用人としてのんびりとスローライフを満喫しています〜なお、実家はどんどん崩壊しているようです〜

よどら文鳥
恋愛
 フィアラの父は、再婚してから新たな妻と子供だけの生活を望んでいたため、フィアラは邪魔者だった。  フィアラは毎日毎日、家事だけではなく父の仕事までも強制的にやらされる毎日である。  だがフィアラが十四歳になったとある日、長く奴隷生活を続けていたデジョレーン子爵邸から抹消される運命になる。  侯爵がフィアラを除名したうえで専属使用人として雇いたいという申し出があったからだ。  金銭面で余裕のないデジョレーン子爵にとってはこのうえない案件であったため、フィアラはゴミのように捨てられた。  父の発言では『侯爵一家は非常に悪名高く、さらに過酷な日々になるだろう』と宣言していたため、フィアラは不安なまま侯爵邸へ向かう。  だが侯爵邸で待っていたのは過酷な毎日ではなくむしろ……。  いっぽう、フィアラのいなくなった子爵邸では大金が入ってきて全員が大喜び。  さっそくこの大金を手にして新たな使用人を雇う。  お金にも困らずのびのびとした生活ができるかと思っていたのだが、現実は……。

処理中です...