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第四章 帝都の日々
4.34 教授用図書館の拒絶
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[あ……]
次の日の朝。
サシャと共に向かった、帝都の城壁内にある丘の麓に並び立つ建物群に、圧倒される。この辺りは、医学部の領域。行き交う人々の、どことなく尊大に見える影に、凍えるような寒気を感じてしまうのは、おそらく、冬だから。
「ここ、だよね」
[あ、ああ]
トールの震えと同じものを、サシャも感じているのだろう。『教授用図書館』と大書された額を掲げる、入りづらいほど立派な両開き門の前に立ち尽くしてしまったサシャに、どうにか頷く。しかしここに立ち止まっていても、星の運行を記した過去のデータを見ることはできない。帝都には、この、教授専用の図書館の他に、学生が自習用に使っている図書館と、白竜騎士団が持っている敷地内にある小さな図書室がある。だが、『星読み』の資料と記録の写しは、この図書館の中にしかない。
[は、入ろう]
上ずった声を、背表紙に並べる。
そう言えば、小学四年であの街に引っ越した時、母と共に初めて、母が教鞭を執る大学の図書館に連れて行ってもらった時も、トールは、入り口で足が竦んでしまった。今思えば、かなり小さめで、四角四面の普通の図書館だったのに。
「……うん」
意を決したように、サシャが頷く。それでもまだ震えていた足で、一人と一冊は、半分だけ開いていた重そうな木製の門をくぐり抜けた。
「『星読み』の過去の記録、ですね」
幸いなことに、受付にいた細身の影は、明らかに学生であるサシャを見ても嫌な顔をしなかった。
「『星読み』に関する書物や記録は、確か、地下の、階段を下りて右のずっと奥にあります」
サシャが差し出した、グスタフ教授が書いた推薦状を受け取った細身の影が、小さなランタンをサシャに渡す。
「火には、気をつけてくださいね」
ランタンを強く掴み、中の蝋燭に火を灯した細身の影に頷くと、一人と一冊は教えられた通り、地下へと下りる幅広の階段を下りた。
天窓があった地上階に比べ、地下階は、暗い。
[大丈夫か、サシャ]
乾いて埃っぽい空気を覚え、トールは気遣う文字を背表紙に並べた。
「うん」
一方、サシャの方は、ランタンの明かりでもはっきりと見える、ずらりと並んだ本棚に高揚しているようだ。早くなった鼓動を、エプロンの胸ポケットから聞き取る。
「右奥、って、言ってたよね」
口で息をするサシャに、トールは思わず笑顔を作った。
慎重に、小口を見せて並ぶ本の間を進む。
その壁をトールが目にしたのは、立ち止まったサシャがランタンを掲げた時。
[この、壁]
おそらく受付の人が言っていた場所に着いたのだろう、本棚に顔を近付けて資料を探るサシャのエプロンの胸ポケットの隙間から、本棚とは違う色をした場所を確かめる。暗い色を見せる壁に穿たれた隙間の数を数え終わる前に、トールの視界で、薄い色のカーディガンが揺れた。
〈……小野寺〉
トールもよく知る大学構内を、授業で同じグループにいた女子達と一緒に並んで歩く小野寺の影に、屈託は見えない。あの、小野寺にカッターナイフを向けた男子も、トールの視界内には見当たらない。良かった、のだろう。小野寺を迎えに来たらしい、女子達の集団に向かって手を上げる伊藤の頬に貼られた、肌の色と同じ絆創膏に、トールは首を強く横に振った。
その時。
「お前っ!」
視界が、不意に揺れる。
「学生如きが、なぜここにいるっ!」
ランタンを持つサシャの左腕を掴んで引き上げた、大柄な影を、トールはきっと睨んだ。この人は、確か。少しだけ露わになったサシャの、手首に走る醜い痕に、思考が止まる。この人は、アランの前にサシャの左腕の火傷の治療をしていた神帝の侍医、レイナルド教授の助手をしていた若い教授。名前は、確か。
「どうしました、エフライン?」
その人の名をトールが思い出す前に、聞き覚えのある枯れた声がトールの思考を先取りした。
「北向の学生如きが、我々の図書館に」
エフラインと呼ばれた、若い大柄な影が、後ろから現れた老人に向かって乱暴な動作でサシャを突き出す。
「この者は」
従者に見える横の若者が持っている、サシャが持っているものより大きいランタンの明かりでサシャを見た、帝華の『星読み』の長グラシアノは、サシャを睨んで顔を歪めた。
「マルシアルを殺めた狂信者」
「何だと!」
次に響いた、グラシアノとエフラインの侮蔑の言葉に、息が止まる。
「この汚い火傷痕は、レイナルド様でも治せなかった、狂信者の……」
ランタンの明かりでサシャを見直したエフラインが、汚いものでも見てしまったかのように顔を歪める。
「確かにここにも、古代の遺跡はある。だがここは『神殿跡』ではない」
続くグラシアノの言葉に、トールは首だけを後方に向けた。先程トールが数えた、壁に穿たれた隙間は、九つ。この遺跡は確かに、古代の神殿の跡。
「この者を、ここから追い出しなさい。オルフェオ」
サシャを睨んだグラシアノが、隣でランタンを掲げる細身の影に指示を出す。
「はい。グラシアノ様」
「オルフェオ一人じゃ無理だ。俺がやる」
その声に応えた、エフラインという名の大柄な影がサシャの左腕を掴み直すほんの一瞬の間を見計らったサシャの身体が、一息で三つの影から一歩離れた。
[逃げよう!]
三十六計逃げるにしかず。トールの判断が通じたのか、三人がサシャの方を見る前に、サシャは持ち前の素早さで床を蹴り、本棚の間を風のように走った。
次の日の朝。
サシャと共に向かった、帝都の城壁内にある丘の麓に並び立つ建物群に、圧倒される。この辺りは、医学部の領域。行き交う人々の、どことなく尊大に見える影に、凍えるような寒気を感じてしまうのは、おそらく、冬だから。
「ここ、だよね」
[あ、ああ]
トールの震えと同じものを、サシャも感じているのだろう。『教授用図書館』と大書された額を掲げる、入りづらいほど立派な両開き門の前に立ち尽くしてしまったサシャに、どうにか頷く。しかしここに立ち止まっていても、星の運行を記した過去のデータを見ることはできない。帝都には、この、教授専用の図書館の他に、学生が自習用に使っている図書館と、白竜騎士団が持っている敷地内にある小さな図書室がある。だが、『星読み』の資料と記録の写しは、この図書館の中にしかない。
[は、入ろう]
上ずった声を、背表紙に並べる。
そう言えば、小学四年であの街に引っ越した時、母と共に初めて、母が教鞭を執る大学の図書館に連れて行ってもらった時も、トールは、入り口で足が竦んでしまった。今思えば、かなり小さめで、四角四面の普通の図書館だったのに。
「……うん」
意を決したように、サシャが頷く。それでもまだ震えていた足で、一人と一冊は、半分だけ開いていた重そうな木製の門をくぐり抜けた。
「『星読み』の過去の記録、ですね」
幸いなことに、受付にいた細身の影は、明らかに学生であるサシャを見ても嫌な顔をしなかった。
「『星読み』に関する書物や記録は、確か、地下の、階段を下りて右のずっと奥にあります」
サシャが差し出した、グスタフ教授が書いた推薦状を受け取った細身の影が、小さなランタンをサシャに渡す。
「火には、気をつけてくださいね」
ランタンを強く掴み、中の蝋燭に火を灯した細身の影に頷くと、一人と一冊は教えられた通り、地下へと下りる幅広の階段を下りた。
天窓があった地上階に比べ、地下階は、暗い。
[大丈夫か、サシャ]
乾いて埃っぽい空気を覚え、トールは気遣う文字を背表紙に並べた。
「うん」
一方、サシャの方は、ランタンの明かりでもはっきりと見える、ずらりと並んだ本棚に高揚しているようだ。早くなった鼓動を、エプロンの胸ポケットから聞き取る。
「右奥、って、言ってたよね」
口で息をするサシャに、トールは思わず笑顔を作った。
慎重に、小口を見せて並ぶ本の間を進む。
その壁をトールが目にしたのは、立ち止まったサシャがランタンを掲げた時。
[この、壁]
おそらく受付の人が言っていた場所に着いたのだろう、本棚に顔を近付けて資料を探るサシャのエプロンの胸ポケットの隙間から、本棚とは違う色をした場所を確かめる。暗い色を見せる壁に穿たれた隙間の数を数え終わる前に、トールの視界で、薄い色のカーディガンが揺れた。
〈……小野寺〉
トールもよく知る大学構内を、授業で同じグループにいた女子達と一緒に並んで歩く小野寺の影に、屈託は見えない。あの、小野寺にカッターナイフを向けた男子も、トールの視界内には見当たらない。良かった、のだろう。小野寺を迎えに来たらしい、女子達の集団に向かって手を上げる伊藤の頬に貼られた、肌の色と同じ絆創膏に、トールは首を強く横に振った。
その時。
「お前っ!」
視界が、不意に揺れる。
「学生如きが、なぜここにいるっ!」
ランタンを持つサシャの左腕を掴んで引き上げた、大柄な影を、トールはきっと睨んだ。この人は、確か。少しだけ露わになったサシャの、手首に走る醜い痕に、思考が止まる。この人は、アランの前にサシャの左腕の火傷の治療をしていた神帝の侍医、レイナルド教授の助手をしていた若い教授。名前は、確か。
「どうしました、エフライン?」
その人の名をトールが思い出す前に、聞き覚えのある枯れた声がトールの思考を先取りした。
「北向の学生如きが、我々の図書館に」
エフラインと呼ばれた、若い大柄な影が、後ろから現れた老人に向かって乱暴な動作でサシャを突き出す。
「この者は」
従者に見える横の若者が持っている、サシャが持っているものより大きいランタンの明かりでサシャを見た、帝華の『星読み』の長グラシアノは、サシャを睨んで顔を歪めた。
「マルシアルを殺めた狂信者」
「何だと!」
次に響いた、グラシアノとエフラインの侮蔑の言葉に、息が止まる。
「この汚い火傷痕は、レイナルド様でも治せなかった、狂信者の……」
ランタンの明かりでサシャを見直したエフラインが、汚いものでも見てしまったかのように顔を歪める。
「確かにここにも、古代の遺跡はある。だがここは『神殿跡』ではない」
続くグラシアノの言葉に、トールは首だけを後方に向けた。先程トールが数えた、壁に穿たれた隙間は、九つ。この遺跡は確かに、古代の神殿の跡。
「この者を、ここから追い出しなさい。オルフェオ」
サシャを睨んだグラシアノが、隣でランタンを掲げる細身の影に指示を出す。
「はい。グラシアノ様」
「オルフェオ一人じゃ無理だ。俺がやる」
その声に応えた、エフラインという名の大柄な影がサシャの左腕を掴み直すほんの一瞬の間を見計らったサシャの身体が、一息で三つの影から一歩離れた。
[逃げよう!]
三十六計逃げるにしかず。トールの判断が通じたのか、三人がサシャの方を見る前に、サシャは持ち前の素早さで床を蹴り、本棚の間を風のように走った。
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