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第四章 帝都の日々

4.32 気にかかる物事と迷い②

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「……そう、だね」

 決心するように頷いたサシャが、手元の本と蝋板を閉じて机の片隅に寄せる。もう一つの蝋板と石板、そして粘土に溝を付けて固めたものの上に小石を置いた簡易的な算盤を手元に持ってきたサシャは、腕を伸ばし、ギュンターが持ってきた羊皮紙の束を掴んだ。

 算盤、早めに作った方が良かったかな。左手で羊皮紙上の数字を確かめながら右手側の簡易算盤と石板で検算していくサシャの器用な手元に息を吐く。サシャの荷物は、結局、白竜はくりゅう騎士団に奪われたまま。着替えと予備の筆記具、着替えを入れる行李は、神帝じんていヴィリバルトとグスタフ教授の好意で揃えることができたが、サシャとサシャの叔父ユーグが作成した洗濯板は、加工されていない板を調達して作り直すしかなかった。洗濯という家事は優先順位が高い。だから、トールの祖父が使っていた形の算盤の方は、トールの記憶に基づいて材料となる木片を集める作業を行ってはいるが、完成にはほど遠い。それでも、PC無しで正確に計算するサシャの能力に、トールは舌を巻いていた。

「うーん……」

 羊皮紙の数値を全て確かめたサシャの口から、呻きが漏れる。

「やっぱり、理論値と実際の観測値が違ってる」

[誤差じゃないのか?]

 データには誤差がつきもの。脳裏に響いた母の声を、首を横に振って振り落とす。

「誤差にしては変なんだ」

 形の良い唇を曲げたサシャに、トールも幻の唇をぎゅっと横に引き結んだ。

 観測値と理論値の差が出てしまう原因には、誤差の他に何があるだろう? これまでに読んできた本の内容を思い返す。天文に関しては、星の位置と明るさ以外、この世界とトールの世界で変わりは無い。月は一つだけだし、恒星の間を動く惑星も、肉眼で見えているものは五つ。太陽も、地球で見るものと変わらない大きさのものが一つ。物理法則は地球と同じ、という認識で大丈夫だろう。この世界のことをもう一度丹念に思い返し、頷く。確か、月が無ければ、地球の自転速度は遅くならず、絶えず荒れ狂う強風のため生物の進化も遅れてしまうとどこかの本に書いてあった。太陽も、互いに互いの周りを回る三連星であれば、軌道の一般解が導出できず、たとえ生物が生まれそうな惑星があっても生活することは難しいらしい。

[えっと、太陽の周りを惑星が回っている、で、良いんだよな]

 天動説を採っているかもしれないので、念のため、サシャに確認を取る。

「うん」

 トールの確認に、サシャは一瞬だけ、疑問符を浮かべた顔をトールに見せた。

「動かないのは、唯一神を示す北の三つ星だけ」

 サシャの言葉に、閃く。

 トールの世界でも、確か、北極星は、地軸の傾きが回転する『歳差運動』によって、ゆっくりとではあるが星々の間を移り変わっていると、社会見学でプラネタリウムに行った時に聞いたことがある。

[サシャ]

 高校で、地学の授業、取っていれば良かった。後悔に唇を歪めながら言葉を紡ぐ。

[北の三つ星も、動いている、と、したら?]

「え……?」

 トールの言葉に、サシャの頬は一瞬で色を失った。

「え、……でも」

 どうしたのだろう? サシャの思わぬ躊躇いに首を傾げる。疑問符を表紙に浮かべる前に、サシャは、『本』であるトールを手に取った。

 いつになく冷たいサシャの指が、開いたトールのページをめくる。全部の頁を確認するようにめくり終えると、サシャは真ん中辺りの頁をそっと開いた。

「うん、やっぱり」

 色を取り戻したサシャの頬が、頷く。

「『祈祷書』には、『北の三つ星は動かない』とは、書かれて、いない」

 そういうことか。サシャの逡巡の理由にようやく思い至る。サシャは、この世界の『唯一神』を心から信じ、敬っている。神からの言葉は、古代末期に現れたステーロという者が書き留めた『祈祷書』に全て収められている。唯一神の言葉に無い物事を、サシャは仮定することができない。サシャ、意外と頑固なのかもしれない。サシャ以外の人々には『祈祷書』として認識されているトールの頁に置かれたサシャの、温かくなった指先に、トールは穏やかな気持ちで息を吐いた。

「『万物は流転する。変わらないものなど無い』」

 そのトールの耳に、祈祷書の一節を読むサシャの声が響く。

「と、すると。……北の三つ星も、動くかもしれない」

 納得したサシャの声に、トールはほっと肩の荷を下ろした。

「でも、それ、どうやって証明すれば」

 だが、続くサシャの言葉に、笑いが唸りに変わる。

[独楽を作って示すという手が、ある]

 独楽を回した時に観察できる軸のブレを使えば、歳差運動は説明できる。物理の時間に教わったことを、開かれた頁の余白に光らせる。

[あと、昔のデータがあれば、良いのかな?]

 やっぱり、地学も勉強しておくべきだった。トールの唸り声は、しかし扉を叩く音で途切れた。
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