146 / 351
第四章 帝都の日々
4.32 気にかかる物事と迷い②
しおりを挟む
「……そう、だね」
決心するように頷いたサシャが、手元の本と蝋板を閉じて机の片隅に寄せる。もう一つの蝋板と石板、そして粘土に溝を付けて固めたものの上に小石を置いた簡易的な算盤を手元に持ってきたサシャは、腕を伸ばし、ギュンターが持ってきた羊皮紙の束を掴んだ。
算盤、早めに作った方が良かったかな。左手で羊皮紙上の数字を確かめながら右手側の簡易算盤と石板で検算していくサシャの器用な手元に息を吐く。サシャの荷物は、結局、白竜騎士団に奪われたまま。着替えと予備の筆記具、着替えを入れる行李は、神帝ヴィリバルトとグスタフ教授の好意で揃えることができたが、サシャとサシャの叔父ユーグが作成した洗濯板は、加工されていない板を調達して作り直すしかなかった。洗濯という家事は優先順位が高い。だから、トールの祖父が使っていた形の算盤の方は、トールの記憶に基づいて材料となる木片を集める作業を行ってはいるが、完成にはほど遠い。それでも、PC無しで正確に計算するサシャの能力に、トールは舌を巻いていた。
「うーん……」
羊皮紙の数値を全て確かめたサシャの口から、呻きが漏れる。
「やっぱり、理論値と実際の観測値が違ってる」
[誤差じゃないのか?]
データには誤差がつきもの。脳裏に響いた母の声を、首を横に振って振り落とす。
「誤差にしては変なんだ」
形の良い唇を曲げたサシャに、トールも幻の唇をぎゅっと横に引き結んだ。
観測値と理論値の差が出てしまう原因には、誤差の他に何があるだろう? これまでに読んできた本の内容を思い返す。天文に関しては、星の位置と明るさ以外、この世界とトールの世界で変わりは無い。月は一つだけだし、恒星の間を動く惑星も、肉眼で見えているものは五つ。太陽も、地球で見るものと変わらない大きさのものが一つ。物理法則は地球と同じ、という認識で大丈夫だろう。この世界のことをもう一度丹念に思い返し、頷く。確か、月が無ければ、地球の自転速度は遅くならず、絶えず荒れ狂う強風のため生物の進化も遅れてしまうとどこかの本に書いてあった。太陽も、互いに互いの周りを回る三連星であれば、軌道の一般解が導出できず、たとえ生物が生まれそうな惑星があっても生活することは難しいらしい。
[えっと、太陽の周りを惑星が回っている、で、良いんだよな]
天動説を採っているかもしれないので、念のため、サシャに確認を取る。
「うん」
トールの確認に、サシャは一瞬だけ、疑問符を浮かべた顔をトールに見せた。
「動かないのは、唯一神を示す北の三つ星だけ」
サシャの言葉に、閃く。
トールの世界でも、確か、北極星は、地軸の傾きが回転する『歳差運動』によって、ゆっくりとではあるが星々の間を移り変わっていると、社会見学でプラネタリウムに行った時に聞いたことがある。
[サシャ]
高校で、地学の授業、取っていれば良かった。後悔に唇を歪めながら言葉を紡ぐ。
[北の三つ星も、動いている、と、したら?]
「え……?」
トールの言葉に、サシャの頬は一瞬で色を失った。
「え、……でも」
どうしたのだろう? サシャの思わぬ躊躇いに首を傾げる。疑問符を表紙に浮かべる前に、サシャは、『本』であるトールを手に取った。
いつになく冷たいサシャの指が、開いたトールのページをめくる。全部の頁を確認するようにめくり終えると、サシャは真ん中辺りの頁をそっと開いた。
「うん、やっぱり」
色を取り戻したサシャの頬が、頷く。
「『祈祷書』には、『北の三つ星は動かない』とは、書かれて、いない」
そういうことか。サシャの逡巡の理由にようやく思い至る。サシャは、この世界の『唯一神』を心から信じ、敬っている。神からの言葉は、古代末期に現れたステーロという者が書き留めた『祈祷書』に全て収められている。唯一神の言葉に無い物事を、サシャは仮定することができない。サシャ、意外と頑固なのかもしれない。サシャ以外の人々には『祈祷書』として認識されているトールの頁に置かれたサシャの、温かくなった指先に、トールは穏やかな気持ちで息を吐いた。
「『万物は流転する。変わらないものなど無い』」
そのトールの耳に、祈祷書の一節を読むサシャの声が響く。
「と、すると。……北の三つ星も、動くかもしれない」
納得したサシャの声に、トールはほっと肩の荷を下ろした。
「でも、それ、どうやって証明すれば」
だが、続くサシャの言葉に、笑いが唸りに変わる。
[独楽を作って示すという手が、ある]
独楽を回した時に観察できる軸のブレを使えば、歳差運動は説明できる。物理の時間に教わったことを、開かれた頁の余白に光らせる。
[あと、昔のデータがあれば、良いのかな?]
やっぱり、地学も勉強しておくべきだった。トールの唸り声は、しかし扉を叩く音で途切れた。
決心するように頷いたサシャが、手元の本と蝋板を閉じて机の片隅に寄せる。もう一つの蝋板と石板、そして粘土に溝を付けて固めたものの上に小石を置いた簡易的な算盤を手元に持ってきたサシャは、腕を伸ばし、ギュンターが持ってきた羊皮紙の束を掴んだ。
算盤、早めに作った方が良かったかな。左手で羊皮紙上の数字を確かめながら右手側の簡易算盤と石板で検算していくサシャの器用な手元に息を吐く。サシャの荷物は、結局、白竜騎士団に奪われたまま。着替えと予備の筆記具、着替えを入れる行李は、神帝ヴィリバルトとグスタフ教授の好意で揃えることができたが、サシャとサシャの叔父ユーグが作成した洗濯板は、加工されていない板を調達して作り直すしかなかった。洗濯という家事は優先順位が高い。だから、トールの祖父が使っていた形の算盤の方は、トールの記憶に基づいて材料となる木片を集める作業を行ってはいるが、完成にはほど遠い。それでも、PC無しで正確に計算するサシャの能力に、トールは舌を巻いていた。
「うーん……」
羊皮紙の数値を全て確かめたサシャの口から、呻きが漏れる。
「やっぱり、理論値と実際の観測値が違ってる」
[誤差じゃないのか?]
データには誤差がつきもの。脳裏に響いた母の声を、首を横に振って振り落とす。
「誤差にしては変なんだ」
形の良い唇を曲げたサシャに、トールも幻の唇をぎゅっと横に引き結んだ。
観測値と理論値の差が出てしまう原因には、誤差の他に何があるだろう? これまでに読んできた本の内容を思い返す。天文に関しては、星の位置と明るさ以外、この世界とトールの世界で変わりは無い。月は一つだけだし、恒星の間を動く惑星も、肉眼で見えているものは五つ。太陽も、地球で見るものと変わらない大きさのものが一つ。物理法則は地球と同じ、という認識で大丈夫だろう。この世界のことをもう一度丹念に思い返し、頷く。確か、月が無ければ、地球の自転速度は遅くならず、絶えず荒れ狂う強風のため生物の進化も遅れてしまうとどこかの本に書いてあった。太陽も、互いに互いの周りを回る三連星であれば、軌道の一般解が導出できず、たとえ生物が生まれそうな惑星があっても生活することは難しいらしい。
[えっと、太陽の周りを惑星が回っている、で、良いんだよな]
天動説を採っているかもしれないので、念のため、サシャに確認を取る。
「うん」
トールの確認に、サシャは一瞬だけ、疑問符を浮かべた顔をトールに見せた。
「動かないのは、唯一神を示す北の三つ星だけ」
サシャの言葉に、閃く。
トールの世界でも、確か、北極星は、地軸の傾きが回転する『歳差運動』によって、ゆっくりとではあるが星々の間を移り変わっていると、社会見学でプラネタリウムに行った時に聞いたことがある。
[サシャ]
高校で、地学の授業、取っていれば良かった。後悔に唇を歪めながら言葉を紡ぐ。
[北の三つ星も、動いている、と、したら?]
「え……?」
トールの言葉に、サシャの頬は一瞬で色を失った。
「え、……でも」
どうしたのだろう? サシャの思わぬ躊躇いに首を傾げる。疑問符を表紙に浮かべる前に、サシャは、『本』であるトールを手に取った。
いつになく冷たいサシャの指が、開いたトールのページをめくる。全部の頁を確認するようにめくり終えると、サシャは真ん中辺りの頁をそっと開いた。
「うん、やっぱり」
色を取り戻したサシャの頬が、頷く。
「『祈祷書』には、『北の三つ星は動かない』とは、書かれて、いない」
そういうことか。サシャの逡巡の理由にようやく思い至る。サシャは、この世界の『唯一神』を心から信じ、敬っている。神からの言葉は、古代末期に現れたステーロという者が書き留めた『祈祷書』に全て収められている。唯一神の言葉に無い物事を、サシャは仮定することができない。サシャ、意外と頑固なのかもしれない。サシャ以外の人々には『祈祷書』として認識されているトールの頁に置かれたサシャの、温かくなった指先に、トールは穏やかな気持ちで息を吐いた。
「『万物は流転する。変わらないものなど無い』」
そのトールの耳に、祈祷書の一節を読むサシャの声が響く。
「と、すると。……北の三つ星も、動くかもしれない」
納得したサシャの声に、トールはほっと肩の荷を下ろした。
「でも、それ、どうやって証明すれば」
だが、続くサシャの言葉に、笑いが唸りに変わる。
[独楽を作って示すという手が、ある]
独楽を回した時に観察できる軸のブレを使えば、歳差運動は説明できる。物理の時間に教わったことを、開かれた頁の余白に光らせる。
[あと、昔のデータがあれば、良いのかな?]
やっぱり、地学も勉強しておくべきだった。トールの唸り声は、しかし扉を叩く音で途切れた。
0
お気に入りに追加
14
あなたにおすすめの小説
【完結】悪役令嬢に転生したけど、王太子妃にならない方が幸せじゃない?
みちこ
ファンタジー
12歳の時に前世の記憶を思い出し、自分が悪役令嬢なのに気が付いた主人公。
ずっと王太子に片思いしていて、将来は王太子妃になることしか頭になかった主人公だけど、前世の記憶を思い出したことで、王太子の何が良かったのか疑問に思うようになる
色々としがらみがある王太子妃になるより、このまま公爵家の娘として暮らす方が幸せだと気が付く
冷遇妻に家を売り払われていた男の裁判
七辻ゆゆ
ファンタジー
婚姻後すぐに妻を放置した男が二年ぶりに帰ると、家はなくなっていた。
「では開廷いたします」
家には10億の価値があったと主張し、妻に離縁と損害賠償を求める男。妻の口からは二年の事実が語られていく。
政略結婚の約束すら守ってもらえませんでした。
克全
恋愛
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。
「すまない、やっぱり君の事は抱けない」初夜のベットの中で、恋焦がれた初恋の人にそう言われてしまいました。私の心は砕け散ってしまいました。初恋の人が妹を愛していると知った時、妹が死んでしまって、政略結婚でいいから結婚して欲しいと言われた時、そして今。三度もの痛手に私の心は耐えられませんでした。
余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました
結城芙由奈
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】
私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。
2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます
*「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
※2023年8月 書籍化
婚約破棄の後始末 ~息子よ、貴様何をしてくれってんだ!
タヌキ汁
ファンタジー
国一番の権勢を誇る公爵家の令嬢と政略結婚が決められていた王子。だが政略結婚を嫌がり、自分の好き相手と結婚する為に取り巻き達と共に、公爵令嬢に冤罪をかけ婚約破棄をしてしまう、それが国を揺るがすことになるとも思わずに。
これは馬鹿なことをやらかした息子を持つ父親達の嘆きの物語である。
旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます
結城芙由奈
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】
ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。
【完結】実家に捨てられた私は侯爵邸に拾われ、使用人としてのんびりとスローライフを満喫しています〜なお、実家はどんどん崩壊しているようです〜
よどら文鳥
恋愛
フィアラの父は、再婚してから新たな妻と子供だけの生活を望んでいたため、フィアラは邪魔者だった。
フィアラは毎日毎日、家事だけではなく父の仕事までも強制的にやらされる毎日である。
だがフィアラが十四歳になったとある日、長く奴隷生活を続けていたデジョレーン子爵邸から抹消される運命になる。
侯爵がフィアラを除名したうえで専属使用人として雇いたいという申し出があったからだ。
金銭面で余裕のないデジョレーン子爵にとってはこのうえない案件であったため、フィアラはゴミのように捨てられた。
父の発言では『侯爵一家は非常に悪名高く、さらに過酷な日々になるだろう』と宣言していたため、フィアラは不安なまま侯爵邸へ向かう。
だが侯爵邸で待っていたのは過酷な毎日ではなくむしろ……。
いっぽう、フィアラのいなくなった子爵邸では大金が入ってきて全員が大喜び。
さっそくこの大金を手にして新たな使用人を雇う。
お金にも困らずのびのびとした生活ができるかと思っていたのだが、現実は……。
愛していました。待っていました。でもさようなら。
彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。
やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる