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第四章 帝都の日々

4.30 グスタフの庇護下へ

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「サシャは、まだ眠っているのか?」

 聞き知った低い声に、微睡みから目覚める。

 サシャの側に居たはずのピオは、居なくなっている。蝋燭の火は消えているが、その代わりに天窓から落ちてきている朝のまだ薄い光で見えた二つの大柄な影に、トールの瞳は素早く、眠り続けるサシャが無事であることを確かめた。

「仕方が無いだろう、ヴィリバルト」

 二つの影の一つ、法学部のグスタフ教授が、眠るサシャの汗の浮いた額を優しく撫でる。

「あんなことがあった後だぞ」

 窘めるようなグスタフの言葉を無視するかのように、ヴィリバルトは部屋の入り口で立ち止まった。

「まあ、これで、前のサシャ神帝じんてい猊下が進めていた、白竜はくりゅう黒竜こくりゅうの交流人事も終わりだな」

「丁度良いさ」

 肩を竦めたグスタフに、ヴィリバルトが笑う。

「今の白竜に、黒竜に欲しい人材はいないからな」

 現在の帝都ていとのゴタゴタについては、大学と白竜騎士団の所為だから、神帝であるヴィリバルトにできることは何も無い。呆れを含むヴィリバルトの声に、トールは頷きながらも首を横に振った。神帝は、八都はちとの最高権力者のはず。

「帝都の外のことは、黒竜騎士団を使えば解決できるしな」

「そうだな」

 だが、腐敗しきっている組織を変革するのは、権力を持っていても難しいのだろう。諦めた笑みを浮かべているヴィリバルトに、トールは再び首を横に振った。

「サシャに関して、大学内で変な噂が立っていることは知っている」

 そのヴィリバルトに背を向けたグスタフが、独り言のように呟く。

「学生が殺された件もそうだが、昨日からマルシアルが戻っていない件も、サシャの所為にされているようだな」

「みたいだな」

 静かな声だが、ヴィリバルトには聞こえているようだ。頷いたヴィリバルトを確かめると、トールは再び、サシャを見下ろすグスタフの方に目を向けた。

「あの質問に答えた時にピンときた」

 そのグスタフが、サシャの白い髪を静かに撫でる。

「この子は、俺の後輩だったエリゼの息子だ」

 サシャの母、エリゼは、帝都で自由七科の資格を取り、グスタフが師事していた教授の許で法学の勉強をしていた。呟くように話す、グスタフの声に、目を瞬かせる。

「白竜騎士団のオーレリアンと契りを結ぶために北向きたむくへ帰ると聞いた時には、二人はすぐに戻ってくると思っていた、が」

 続いて響いた、無念を帯びたグスタフの言葉に、トールは首を横に振った。北向の王族であったオーレリアンと契りを結んだサシャの母エリゼは、オーレリアンを謀殺したオーレリアンの双子の弟の悪意からサシャを守るために、北辺ほくへんの外れに身を潜めた。その事実を知っている人は、ごく僅か。

「俺が匿うことに異存は無い。……が」

 不意に、グスタフがヴィリバルトに向き直る。

「噂が収まるまで、サシャを帝都の外に出すことはできないのか、ヴィリバルト?」

「どこに出すんだ?」

 グスタフの問いに、ヴィリバルトが肩を竦めるのが見えた。

「北向は論外だ」

 トールと同じ思考を、ヴィリバルトが口にする。

秋津あきつは、西海さいかいと揉めている」

 次にヴィリバルトは、おそらく黒竜騎士団の部下であるルジェクからもたらされたのであろう情報を口にした。

春陽はるひ南苑なんえんの王なら、サシャを喜んで預かってくれるだろうが、南へ行くには夏炉かろを通らないといけない」

「南苑への船便は、……嵐の季節か」

 口を引き結んだヴィリバルトに、天窓の向こうにある朝の空を眺めたグスタフが力無く笑う。

東雲しののめは?」

「リーンがいる限り、無理だ」

「だろうな」

 どの国も、サシャを逃がすには障壁がある。冷徹なヴィリバルトの言葉に絶望する。ではサシャは、どうすれば良いのだろう? この帝都で、また、誹謗中傷に晒されるしか、無いのだろうか? 苦い思いが、トールの胸に広がる。中学生の時にトールが受けた誹謗中傷は、父母と、友人である伊藤と小野寺が守ってくれたおかげでやり過ごすことができた。だが、今サシャが受けている中傷は、トールが受けたものよりも大きい。

「リュカのためにも、まずはここで、自由七科の資格を取らせる」

 首を強く横に振ったトールの耳に、ヴィリバルトの決断の声が響く。

「分かった」

 ヴィリバルトに頷き、微笑みを浮かべたグスタフ教授に、トールは無理に笑顔を作った。グスタフとヴィリバルトなら、サシャを、……ちゃんと守ってくれる。

「グスタフ教授」

 目覚めたサシャの、頼りなげな声が、トールの耳を打つ。

「……ヴィリバルト神帝猊下!」

 サシャの方に目を移したトールが見たのは、紅い瞳を丸くしてベッドから起き上がるサシャの姿。

「バルトで良いぞ、サシャ」

 素早くベッド側に移動したヴィリバルトが、倒れそうになったサシャの上半身を笑いながら支える。

「しばらく、グスタフ教授の手伝いをしろ、サシャ」

 不意に再び鋭くなった、ヴィリバルトの言葉に、サシャはぽかんと口を開けた。

「え……?」

 ヴィリバルトとグスタフの、似ている顔を交互に見上げたサシャの視線に戸惑いを見つけ、思わず微笑む。

「……はい、分かりました」

 しかしすぐに、二人に向かって頭を下げたサシャに、トールも二人に感謝の意を込めて頭を下げた。
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