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第四章 帝都の日々

4.3 教室前の再会

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 厨房を出、すぐ横の井戸で立ち止まったサシャを、再びの暗闇の中で確かめる。

 井戸を覆う屋根に遮られて、星は見えない。緋星祭あかぼしのまつりから十一日経っているから、星の位置は。トールが指を折っている間に、サシャは井戸の水で口を濯ぎ、顔もきっちり洗い終えていた。

「行こう、トール」

 小さく響くサシャの声に、頷く。

 門番に断って開けてもらった門の先もまた、星明かりだけの暗闇に沈んでいた。

 暦は夏だが、空気は冷たい。その冷たさに首を振ったトールには構わず、サシャは暗い石畳へと歩を進める。春分祭しゅんぶんのまつりの頃から学校に通い始めた一人と一冊だから、暗闇の道も、既に慣れている。歩く距離も、実はそんなに長くない。黒竜こくりゅう騎士団の館から、北へ延びる石畳の道を真っ直ぐ進む。大きめの常夜灯が光る四つ辻を右に曲がってしばらく行くと、蔦に覆われた城壁のような壁と、小さく揺れる灯りが見えてきた。

「サシャ」

 聞き知った低い声にサシャがほっと息を吐くのを、サシャのエプロンのポケットの中から確かめる。

「おはようございます、バジャルドさん」

 サシャに声を掛けた大柄な青年から、サシャは小さなランタンを受け取った。

 このランタンは、グスタフ教授の朝の講義を受講する学生が並ぶ列の最後尾を示すもの。ランタンの明かりを使って先頭の方を眺めると、既に十数人が、グスタフ教授が授業を行う部屋へと続く玄関扉の前に並んでいるのが見えた。

 いつもながら盛況だな。ランタンの把手をぎゅっと握り締めたサシャの、白く光る手に息を吐く。アラン師匠と、北都ほくとの学校の事務長であるヘラルドの尽力で、自由七科のうち『文法』と『算術』の二つの科目については、サシャは北都で資格を得たことになっている。残りの五科目については、火傷から回復した春分祭の頃から、この帝都ていとでの勉強を開始した。一方、サシャは、帝都の大学の許しを得て、一週間に一度、古代の法について研究しているグスタフ教授の講義を聴講している。トールの世界で言えば、高校を卒業せずに大学の授業を受けているようなものだが、トールが通っていた大学にも『公開講座』や『聴講生・科目等履修生』の制度はあったし、トールも、中学校や高校時代、大学で開催されていた科学系の公開講座の幾つかに通っていた。大学に通っていた時にも、教養の授業には定年退職した人々が教室の前の方の席に座っていた。サシャがグスタフ教授の授業を受けるのも、トールが公開講座を楽しんでいたのと変わらないのだろう。腑に落ちた思考に、トールは小さく頷いた。

「……あの」

 聞き覚えのある声に、思考が中断される。

「グスタフ教授、の……」

 顔を上げて見えた、星の光でも分かる濃い金色の髪に、トールは言葉を失った。

「……」

 サシャの震えが、トールの震えに変わる。

「サシャ?」

 背後に響いたバジャルドの声で呪縛が解けたのだろう、意外に滑らかに動いたサシャの腕が、目を見開いた細い影にランタンを押しつけた。

「グスタフ教授の授業、初めてか?」

 そのサシャの後ろで、バジャルドの、春分祭の頃のサシャも聞いたアドバイスが響く。

「後ろ、人、来たら、そのランタン渡してくれ」

「は、はい」

 バジャルドの言葉に頷いた細い影、セルジュが、サシャに背を向ける。そのセルジュに小さく首を横に振ると、トールは、冷たい壁に背を預けて俯いたサシャの方へと顔を向けた。

 思い出すのは、北都を流れた中傷のこと。図書館に飾られていた古代の神々のレプリカの一つを盗んだという言いがかりと、伝染病の終息を自分の手柄にするために下町の井戸に毒を入れたという嘘の噂。おそらくそのために、サシャも内心喜んでいた北向の老王への謁見が中止になった。言いがかりも噂も真っ赤な嘘だが、セルジュはきっと、両方とも信じているのだろう。怒り、ではなく、悲しみの感情が、トールの心に湧き上がる。サシャは、大丈夫だろうか? 俯いたサシャの、今にも泣き出しそうな瞳の色に、トールは唇を噛み締めた。トールが人間の身体を持っていたら、サシャを抱き締めて慰めることができたのに。いや、セルジュに対してサシャを弁護することもできる。しかし今のトールは、ただの『本』。何もできない。

「サシャ」

 不意に、トールの目の前を、小さな布袋が踊る。

「後ろの新人さんも、一つ取ると良い」

 教室が開くのを待っている行列には時々、誰が差し入れしているのか小腹を満たす干し果物が入った袋が回ってくる。おそらくそれだろう。トールが推測する前に、サシャは布袋を受け取ると、中身を取らずに後ろのセルジュに布袋を差し出した。

「……」

 サシャから布袋をひったくるように受け取ったセルジュも、中身を取らずに布袋を後ろの人影に渡す。

 やはりセルジュは、サシャに対する中傷を『本当のこと』だと信じている。不意にトールを抱き締めたサシャの、腕の冷たさに、トールは「大丈夫」の文字を背表紙に並べてみせた。
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